【連載】『令和4年度卒業記念特集』第59回 中澤恵/女子バレーボール

女子バレーボール

厳しい道を選び続けた4年間

 中学、高校とバレーボールの強豪校に身を置き、日本一を経験してきた中澤恵(スポ=大阪・金蘭会)が進路に選んだのは、関東2部の早大だった。キャプテンとして、時には厳しくチームを奮い立たせながらも、「めぐさん」と後輩たちに慕われたエース。常に厳しい道を選び続け、「自分の力で1部に昇格させる」ことを目標に努力した4年間だった。早大に入学してさまざまなバックグラウンドを持つ人と関わり、最終的に中澤が選んだ道とは――。

 バレーボールを始めたのは小学校1年生のころ。クラブチームに入っていた同級生が監督に、「クラスで一番背の高い子を連れてこい」と言われ、選ばれたのが中澤だった。特に決まった習い事などはしてこなかったものの、運動は大好きで、何か新しいことを始めようと思っていた矢先だった。ここから中澤のバレー人生が始まった。2年生からレギュラーとしてコートに入るようになり、気づけばバレー中心の生活になっていた。もともと日本一を目指す強いクラブチームではあったが、転機となったのは3年生。4人制のバレーで北信越大会を優勝し、強い相手に勝って上を目指す楽しさを覚えた。また、県大会以上の大きい大会にも出て勝ちたい思いが芽生えたのもこのころだった。

 まだ小学生だった中澤は強いチームをいくつも知っているわけではなく、「強いところと言ったら裾花」というイメージがあり、日本一を狙える長野県の強豪・裾花中を選んだ。中学3年間は最も「バレー漬け」と言える日々だった。仲間たちと共同生活をし、練習時間も長く、ずっと体育館にいる生活。たくさんボールを触り、言葉にするのが難しいリズムやタイミング、ボールの質を、積み重ねで体に染み込ませることができたことが、その後の強みになった。

 高校は金蘭会高に進学した。理由の一つは、金蘭会高がちょうど三冠を達成した年、白澤明香里(久光スプリングス)のプレーを見たことだった。バレー選手の中では小柄だがガッツあるスコアラーで、自分の目指したい選手像が固まった。大きい選手がレギュラーになるのが当たり前なバレー界で、金蘭会高では小柄でも日本一を狙えることに魅力を感じた。ブロックが追いつけない高速コンビバレーを武器とする裾花中とはまた違ったカラーの金蘭会高では、ある程度ブロックがついてきている中で打ち分けなければならない。自分の技術不足を実感することもあった。しかし、「中学と同じカラーのバレーを選ばず、新しいバレーに挑戦したことで、大学で新しいポジションに挑戦することができたと思います」と振り返った。クレバーで技巧派なプレースタイルも、このころ確立された。

スパイクを打つ中澤。高校ではミドルブロッカーだったが、レフトに転向した

 高校3年生で春高優勝を達成した中澤が大学の進学先として選んだのは、早大。Vリーグや関東1部の大学からも声はかかっていたが、「自分からバレーがなくなったときにも、胸を張れる人間になりたい」と考えてのことだった。また、常にトップクラスのチームに在籍し、追われる立場だった中澤にとっては「下から強者を倒すこと」が魅力的だった。

 入学して感じたことは、バレーへの姿勢が誠実であること。技術的には未熟であっても、決して手を抜かずにいたチームメイトを見て、「自分も頑張らなければいけない」と思わされた。一方で、ギャップもあった。それは、勝利への執着。入学後に初めて負けた試合で、先輩たちは泣いていなかった。しかし中澤は1人のアスリートとして、負けを忘れてはいけないと考えていたし、負けに慣れたくはなかった。上級生になると、自分がどういった負けだったのか正しい判断を下さなければならない立場になる。勝負して負けたのか、実力が発揮できなかったのか、実力が足りていない故か。悔しさを自分も仲間も感じている中で、さらにキャプテンとしてチームを締め直さなければならないのは辛かった。しかし、負けから目を背けないこと、負けに慣れないことは下級生に徹底させてきた。

 また、中澤個人はプレーヤーとしての成長を止めないためにも、ウェイトトレーニングで体づくりに努めたり、松井泰二監督に相談をして男子の練習に混ぜてもらったりするなど、常に苦しい道を選び続けた。強い球を受け、高いネットでスパイクを打つことはハードではあったが、「松井監督や男子部のおかげで、驚くべきスピードで上手くなることができました」と感謝の言葉を口にした。

 そして迎えたラストイヤー。春は全勝優勝、1部昇格という目標を掲げ、前者を達成することができた。4年生は就職活動もあり精神の浮き沈みが激しい時期ではあったが、「苦しいときにも外を向かないチーム」を体現していたことは、キャプテンである中澤にとって誇らしいことだった。しかし、入替戦では1部昇格ならず。このころから卒業後にバレーの道に進まないことを考えていた。「自分がエースとして1部に上げられないのであれば、トップのVリーグで勝負していけるわけがない」。大学で区切りを付けようと思ったタイミングは何度かあったが、最後のきっかけともいえる出来事だった。

「後輩のため」常に考え続けた秋リーグ

 最後の全日本大学選手権(インカレ)では、2回戦で関西の強豪・帝塚山大にストレート負けを喫した。中学、高校と日本一を取り、勝って終わっていた中澤にとっては未知の引退の形。慣れていないというべきか、終わった実感がなかった。振り返ってみると、やはり勝ちたい思いは強く、勝つ可能性があったという悔しさはぬぐえない。しかし、あのインカレを通して各選手の良さが出たこと、真正面から勝負して今までやってきたことを出せたこと。それは確かに素晴らしいことで、胸を張れる負けだったと今なら言える。

全日本大学選手権でガッツポーズをする中澤

 引退する中澤が選んだ道はバレーボールではない。しかし2023年1月、V2所属のGSSサンビームズに中澤の姿があった。それは二つの恩返しのためだった。一つは、秋リーグの期間中の早大の要望を、仕事終わりにもかかわらず快く受け入れてくれたGSSのチームに向けて。試合でしか解決できない問題を多く抱え、平日に練習試合が必要だった。中澤はキャプテンとしてそのことに感謝し、なにか力になりたいと考えていた。もう一つは、今まで支えてきてくれた人たちに向けて。たくさんの人に支えてもらったバレー人生でありながら、最後はコロナ禍もありなかなか見てもらう機会がなかったのが心残りだった。「3カ月だけでもやってみたら」。そんな言葉を監督からもらい、実現した期間限定のVリーガー。小学校の文集で書いたバレーボール選手の夢を、少しだけ叶えられている。「自分が点を決めないと」「自分がチームを締めないと」、そんな考えからは離れ、「バレーは楽しい」と全身で表現していた。

 そんな魔法のような期間も終わりを迎えた。もちろん名残惜しさはある。今までのバレーボーラーとしての人生と、全く違う道を歩むことに、少しの不安もある。しかし、新しい環境への期待の方が大きい。これからは、「バレーと天秤にかけても、本当にやりたいと言える仕事」という不動産系の仕事に就くことが決まっている中澤。もう胸を張って、自分にはバレーがなくても大丈夫と言える。バレーを通して苦しいこと、辛いことがあっても常に顔を背けず、真摯に向き合ってきた。そして早稲田で出会った人、できた経験、つくった思い出を大切に。また高く飛ぶべく、一歩を踏み出す。

(記事、写真 五十嵐香音)