対談のラストを飾るのは、主将として女子部を引っ張った清水映里(スポ=埼玉・山村学園)と育成層副将としてチームを盛り上げた米原さくら(スポ=埼玉・秀明英光)の2人。早稲田に入るまでのテニス人生や、早稲田でのチームメイトとの思い出、プロへの抱負などさまざまなことを語ってもらった!
早稲田入学前までのテニス人生
――テニスを始めたきっかけは
清水 私は、小学校1年生の時に家の近くにテニス場ができて。お母さんに勧められて行ったら楽しく。テニスをやる前はヒップホップのダンスと水泳を習っていたのですが、テニスが1番楽しくなってダンスを辞め、水泳を辞め、テニスが残った感じです。家族の中で私が1番最初に初めて、お兄ちゃんとお母さんもテニスを始めました。きっかけはお母さんですかね。
――テニスだけに集中するようになったのは
清水 本格的に集中したのは中学2年生くらいです。それまで水泳は母から「肺活量が良くなるから続ければ」と言われ続けていました。
米原 私は両親が共にテニスをしていて、お母さんがテニスクラブの受付をしていたので小さい時から。3歳になって一番下のキッズクラスに入りました。それと同時に私も水泳と踊る方のバレーをしていました。
清水 似てるね!
米原 そうそう。本格的に始めたのは小学3年生の時に週3テニスをするコースに所属したことからです。
――大学に入るまでのテニス人生はどのようなものでしたか
清水 私は遅咲き? 初めて全国に出られたのが14歳の上の年だったので、周りの子たちに比べれば遅いです。
米原 え…うそ…
清水 ほんと、ほんと。そこから全国に行ける回数が増えた感じです。全小も補欠1位、RSK全国選抜ジュニアという13歳以下の大会も補欠1位。全国選抜ジュニアも頑張ろうと意気込んでいたら、東日本大震災があって、関東大会がランキング制となって行けず。ほとんど全国に行けなかったのが、ジュニアの最初の方です。県大会で優勝しても関東大会で負けて全国に行けないのが選手です(笑)。高校1年生の時に通っていたクラブに、新しいコーチが来てアドバイスがはまったり。うまく練習と試合が噛み合うようになりました。高1の全国選抜で個人戦優勝したのが、初めての全国のタイトルでした。そこからちょっと勝てるようになった感じですかね。遅いです!!
米原 映里もっと早いと思っていた…
清水 意外でしょ?(笑)
米原 意外! 意外!!
清水 選抜(中学)も出たことないし。あれ? 全中でベスト8まで行った。それのイメージがあるのか! でも大きな勝ちというのはなかったです。
米原 早生まれでRSKにランキングで出たのですが関東で2回戦敗退。それまで関東大会に出てもずっと1回戦、2回戦敗退。14歳の全国選抜に早生まれで出たら何故か関東優勝して。中2で関東を優勝して全中に行き、初めて全中で勝利。そこから波に乗って関中も3位。そこから全国に出られるようになり全中でベスト8。その後は早生まれを利用しつつ、安定のベスト8に!(笑)
――お二人は、初対面でどのような印象を抱きましたか
清水 私は東京出身で。クラブと高校は埼玉だったので。小学校、中学校から仲良かったかと言われるとそうではない(笑)。第三者のペアというよりも、もう一人誰かがいると喋るくらいの感じです。最後の年にダブルスを組むとなって! いや高2の時に1回遊びに行き。それも米原・清水の2人じゃなくて(笑)。そこから仲良くなりました。それまで自分はシングルスばかりしていたのですが、最後の年はダブルスも出ようとなり。ポイントを上げるために一緒に試合に出たりするように。
米原 2人でずっと一緒にいるかと言われたらー。もう一人誰かいたらとかです。仲はいいけど、周りからすごく仲いいい2人だねと言われたら違うのかなと(笑)。第一印象は怖いイメージだったらしく、人見知りだったのもあり。
清水 めっちゃ怖がられた。人見知りというか感情が表に出ないタイプで。米原と仲良い子が私と仲良くて、米原とその子が喋っている時に私がじっと見ていたのを怖がられたっていう(笑)。じっと見ていたのを勘違いされて。
米原 最初はそのこと言わなかったですよ。
清水 今はもう笑い話。当時は怖がられて悲しいと(笑)
――早稲田への進学について、2人で相談などしたのですか
清水 どこ行く? どうする? みたいな。この大学に行こうかな? とは聞いていました。私は大学に行くかプロに進むかで迷っていました。私が先に決めたんだっけ?
米原 高校総体で結果を出すまで早稲田に進む選択肢がなくて…。もう1つの大学と迷うことになり、全日本ジュニアの時に話をめっちゃしました。
清水 私は最後の年に懸けていたので、最後の年に結果が出なかったら考えようかなと思う反面、大学に行かずにプロに行こうかなとも考えていました。早稲田行くかプロ行くかの二択でした。大学の4年間をプロに行くまでの準備期間として使いたい、過ごしたいと思い早稲田に進学を決めました。その時らへんに?
米原 その時らへんに悩んでましたね(笑)。懐かしいね、全日本ジュニア。
清水 全日本ジュニアの時、(米原が)大泣きしていたんですよ。ジュニア最後の大会で、もう皆に会えないって言って(笑)。まだ大会期間中なのに1人だけボロ泣きして(笑)。
米原 知らないお母さんたちにも心配されて。写真を200枚くらい撮った。6人で撮った写真は6分の4が早稲田で。映里、優之介、千頭とかいて。全然その後も普通に会ってる!(笑)
「あれは団体戦でした」
プロへの準備期間として臨んだ大学での4年間で初年度から戦績を残し続けた清水
――どのような目標を立てて大学に進みましたか
清水 プロになるまでの4年間と決めていた中で。高校で部活に入ったわけではないので、精神的な部分で人間として成長したいなと思い。早稲田のいい部分は人間性を磨ける部分だと思いますし、ただ単に厳しいのではなく社会に出た時に意味のある厳しさでした。テニスが強い、うまい以外の部分も目標にしていました。
米原 部活も私は一切やってなかったです。(清水は)ちょっとだけ部活としての練習があったのですが、私は一切なく。テニスクラブでも男女共にいない、高校でも同期は女子1人だったので大学の部活は不安でした。どうにか卒業したい、テニス頑張ろうって感じです!
――同じ学部には多くの同期がいましたが、その環境はどうでしたか
米原 良かったですね!
清水 幸せでした。100点、いやもう200満点くらい!!
米原 まじでスポ科で良かった!
清水 この部員、この同期で良かった!最高!!大好き(笑)
米原 まじで救われてしかいない!
清水 テニスが強い子もいれば、頭がすごくいい子もいて。真面目な子もいれば、楽天家な子もいました。どっちに転がっても支えてくれるいい同期でした。
米原 はじからはじまでいたね。
清水 スポ科にセンターで入った同期には、勉強を教えてもらえたし。
米原 昇平とか、まじうまくやっていた(笑)
――同期女子の結束は
清水 1番強かったです。一人抜けてしまったのですが、6人いた時も5人になった時も結束は強かったです。(一人抜けた時は)米原は辛かったかもしれないけど?(笑)
米原 辛かったけどプライベートでは会えてるし。関係は変わらなかったから。
清水 グループラインは部から抜けた今もいるので。5人の新しいライングループも作ったのですが、通知うるさくてもいいから1年生のライングループで活動していいって言ってくれたから、ずっと6人のグループで話をしていました。結束はしていました!
――主将をする中では
清水 歴代の先輩は連覇が懸かっている中で絶対に勝たないといけない状況でやっていた。私はコロナの影響もあり、重圧の中で勝たないといけないプレッシャーの中で試合をできなかったので、先輩と比べると全然重圧は少なかったのではないかとテニス面では思います。ただ主将は見られる立場でもあるので、生活面やテニスコート場の振る舞いの部分では、意識を高くやっていました。それが辛かったわけではなく、主将をしたことでレベルアップにも繋がりました。いつも皆が支えてくれるので!辛い部分は分け合いっこをしてくれたので大丈夫でした。
――4年間の個人戦で印象に残っているのは
清水 1年生でインカレ優勝したことですね。春関でベスト64くらいで負け、めっちゃ泣いてしまい。OBの片山さんが全国で勝てばいいんだよと言ってくださり。今までの個人戦は個人で頑張ればいいのですが、早稲田の個人戦は個人戦ではないんですよ(笑)。後ろで皆が拍手をしてくれたり、昨日まで試合だった選手がサポートに回ってくれるんです。個人戦だけどチーム早稲田みたいな(笑)。そこが一番びっくりしたし、1年だった私を先輩がいっぱいサポートしてくれた結果、インカレを優勝することができました。勝ったこともうれしかったですし、支えられてることを感じる大会でした。すごく印象的でしたね。
米原 私、その時松田美咲(亜細亜大)と電話していたのかな。映里がマッチポイントになって「試合を写して、写して。(ポイント撮って)優勝おめでとう〜〜!」って!
清水 いない人も送ってくれるんです(涙)。私のベンチコーチだった先輩もラインをくれたりと。チーム早稲田でした。あれは団体戦でした、個人戦じゃなかった(笑)。バックが固かった!
米原 この写真忘れないよ。
清水 優勝したことがうれしくて、ラケットを…(笑)。当時はビビっていました。
米原 靭帯切った時のダブルス。インカレ試合中に靭帯を切ってしまい、4年生と出られる最後の夏関で本当に大好きでお姉さん的な存在だった助川峰理さんとのダブルスに無理やり出ました。初戦が日大の強いペアでしたが、靭帯を切りながらも勝った試合ですね。靭帯を切っているのにバックハンドも打ったり(笑)。マッチポイント、峰里さんのサーブ、相手が返す、それを私がバックボレーで打って勝った時に。「これ優勝したのかな」っていう、先輩の声が入っていますね。でも一番印象に残っているのは新進優勝ですね。ちゃんとペアでの練習したのは3日だけ、私だけでも4日だけ。1試合目からスーパープレイを繰り返して相手に勝つ。その後も日大の強いペアにも勝ち、決勝は亜大の中沢夏帆と大西さんのペアに勝って優勝。楽しすぎました。女子全員が慶應に来てくれて!何人かがスーツながら応援してくれ、しかも優勝することができてうれしかった、楽しかったです。
清水 乙女じゃないよね。野獣みたいな(笑)。でも見ていて楽しかった!
米原 後ろ見るたびに「イェーイ」って、藤原も容赦なく打っていくから清々しかった。
清水 面白い!(笑)。綺麗なテニスではなくて、魅せるんです!観客のためのテニスでした。
「第二の家ができました」
試合では気迫を前面に出して戦った米原
――早稲田に入って良かったな思うことは
米原 いろいろあるよね。
清水 1つ目は縦の関係が強いところ。卒業してプロになっている方からアドバイスをもらえ、声も掛けてもらえるのですごいなと。あとはアットホームなところ!早稲田入ってない子からのイメージには、地獄のような練習があると思うのですが全然そんなことない。強くなるためにはきついこともしますが、意地悪やあり得ないほどの上下関係はないですし。男女仲が良いし、男子の先輩も女子を見てくれますし、女子の先輩も優しいし、後輩も可愛い子ばっかだし(笑)。コーチ陣のサポートも手厚いので、第二の家ができました。人に恵まれすぎていました。
米原 人格形成!私は元々こんな性格の人間ではなかったです。話し方も随分マシになったですし、元はもっと刺々していました。負けず嫌いだし。元はズバズバと話す人の悪い例でした。部活に入ることで協力すること、早稲田の部員として見られること、繋がりがあるからというものを学べました。繋がりを大切にすることで、自分にも皆にもいいことがあると分かりました。とりあえず人格形成されます。だいぶ良くなったよね?
清水 すっごい良くなったよ! 元が悪いわけではないけど〜。
――丸くなったという感じですか
清水 すっごい丸くなったです。角がなくなった。
米原 ウニくらい刺々していた感じが、モヤットボールくらいに(笑)。あのまま社会に出たら見捨てられていたと思います。早稲田に入って皆が面倒を見てくれたおかげで、社会にぎり出られるよってくらいまでになったのが良かったところです。あの時のままだったら害しか与えていなかった(笑)
――卒部しましたが、今後の目標は
清水 自分の中で最後の早慶戦に出れなかったことに申し訳なさが残っている。恩返しできなかった部分があるので、早稲田に少しでも恩返しできるような選手になれるよう頑張っていきたいです。後輩は、1人のOGとして応援しています!
米原 私は内定先も決まり。ハードな職場なのですが、部でやってきたことがそのまま生かせると思います。準備の過程を考えたり、気を使って行動したりすることが生かされると思うので、それを生かして頑張っていきたいと思います。
――最後に王座奪還を目指す後輩に向けてメッセージを
米原 とにかく悔いが残らないよな。たまに抜いてもいいから、やる時は全力でやって、絶対に悔いを残さないで欲しい!最後に最高の瞬間を共有して欲しいと思います!!
清水 辛かったら周りを見て元気を出して、全員で頑張ってほしいです。
――ありがとうございました!
(取材・編集 大島悠希氏)