変革の中心で
全日本学生大会(インカレ)での優勝に一番近いと言っても過言ではない早大の軟式庭球部。しかしその夢は大会の中止によって実現されないこととなった。新型コロナウイルスに振り回された大学でのソフトテニス。しかし、主将としても、プレーヤーとしても部をけん引した山根稔平(商=奈良・高田商)の努力が、早大軟式庭球部の歴史の1ページとなったことは間違いない。そんな山根の大学4年間、そして今後の野望に迫る。
テイクバックをする山根
ソフトテニスをはじめたのは、5歳のころ。家族の影響でラケットを握り、兄弟や幼なじみと練習する中で実力を高めていった。中学校では地元を離れ、東京に。高校は全国屈指の強豪校・高田商業に進んだ。高校3年時の国民体育大会では同校の選手とともに奈良県代表として奮闘。部の主将としてメンバーを引っ張り、5年ぶりの優勝へと貢献した。
日本一を目指せる大学として、山根が選んだのが早大だ。おじが早大でプレーしていたこともあり、身近な存在だった。文武両道を目指し、いずれはインカレでの優勝を夢に、大学へ入学した。
高校時代に比べ、顧問より学生が主体となる大学の部活。1年目は気持ちの入れ方が難しいと感じることもあった。さらに、当時の早大の選手は粒ぞろいだ。主将であった船水颯人(平31スポ卒=現ヨネックス)をはじめとし、日本のソフトテニス界を背負う先輩たちの活躍は、山根にとって「試合に出る機会が100%ないこと」を意味していた。モチベーションは上がらず、部活への関心が離れるのも仕方がなかった。意欲が高まったのは、チャンスの順番が回ってきた2年生。上級生とも仲良く、互いに技術を高め合い、充実した日々であった。
しかし、3年生になる春、新型コロナウイルスの感染拡大により大会が軒並み中止となった。上級生として、チームを引っ張る立場になった自覚を持つのが難しいほど、突然の環境の変化だった。そんな中、山根は主将に就任した。すでに高校で主将としての日本一を経験している山根は、大学でもチームを日本一に導く以外、選択肢が無かった。プレッシャーを感じながらも自分の主将像を信じ、部員と、部活と、向き合う日々が始まった。相手からどう思われているかを気にするより、チームのために必要だと思うことを言い切ること。新沼 舜大(スポ4=宮城・東北)をトレーニング隊長に任命するなど、部員を適材適所に配置し、練習を充実させること。これまでの経験をもとに、変えるべきところは躊躇(ちゅうちょ)なく変革した。団体戦での優勝のために試行錯誤の日々だった。しかし、最後のシーズン、2021年になっても、大会は中止が相次いだ。優勝を目標にしていたインカレも開催されなかった。関東春季リーグ戦の代替大会である関東学生研修大会を全勝で終え、部活動は幕を閉じた。
大学での4年間を終えたが、山根にとってのソフトテニス人生はまだまだこれからだ。兄とともに、コーチとして子供の指導をしているソフトテニススクール「KSA」や、ソフトテニスの魅力を伝えるYouTube活動など、山根の視野は広く、野望は高い。今後は実業団でのプレーも決まっている。小学生の頃に見た桂拓也氏(平26スポ卒)の全国高等学校総合体育大会決勝。そのスピードや迫力に山根がとりこになったように、今度は自分が誰かの憧れに。若い同志とともに、ソフトテニス界を担う覚悟はできている。「自分が一番素でいられる競技」だというソフトテニスの将来のために、山根は変革の中心にいる。
(記事 田島璃子 写真 ご本人提供)