経験を成長に
小中高と日本一を経験し、ナショナルチームにも選ばれるなど輝かしい戦績を残してきた上松俊貴(スポ=岡山理大付)は早稲田での4年間で、さらなる進化を遂げた。天皇賜杯・皇后賜杯全日本選手権(天皇杯)連覇、最強世代のまさかの敗戦、そして主将としての1年間――。喜びも悔しさも味わい、様々な経験を得られた上松の4年間に迫る。
トップレベルの選手が多く、ここでならもっと成長できると考えた上松。自分たちで考えて練習に取り組む環境が高校までと似ていたこともあり、早稲田への進学を決めた。入学後に感じたのは団体戦の重さだ。高校の時よりも団体戦の価値が高く、プレッシャーも大きかった。その中で上松は1年生の頃から団体戦に出場した。この頃、上松の印象に残っているのは当時の4年生の姿である。実力的に団体戦に出られないながらも、優勝するためにチームを支える姿を見て上松は奮闘。全日本大学対抗選手権(インカレ)でも活躍し、チームは6連覇を達成した。この時、4年生が喜んでくれて嬉しかったと上松は振り返る。
上松にとって大きな経験となったのが、2年生時のインカレである。当時は主将を務めていた船水颯人(平31スポ卒=現ヨネックス)を中心として、ここ数年で最も強い世代と言われていた。実際、インカレまでの大会も全て優勝しており実力は本物だった。しかし、インカレでは準々決勝で日体大にまさかの敗戦。7連覇を達成することはできなかった。この時、強いからといって足元をすくわれないわけではないこと、試合が終わるまではどうなるかわからないことを学んだ。そして、悔しい思いを経験したからこそ、二度とこの思いを経験したくないという考えが上松の中で生まれた。その後、迎えた天皇杯では初優勝を達成。準々決勝で常日頃から切磋琢磨してきたチームメイトの安藤優作(平31社卒=現東京ガス)・内田理久(社=三重)に勝てたことが自信となり優勝につながった。
3年生時のインカレは関わりが大きく、仕事の面などでもお世話になった1個上の先輩方の最後の大会だった。その大会に出ることができず、申し訳ないという気持ちがあった。それでも、自分が出られない中で4年生が頑張ると言ってくれ、1年前の悔しさを晴らしインカレを奪還した。応援する上松の目には、とても頼りがいのある先輩に映ったという。その後、天皇杯に出場。連覇がかかっていることもあり、昨年とは違う緊張感があった。その中で上松は、連覇するという大きな目標から一つ一つの過程に意識を持っていくというアプローチで大会に臨み、久しぶりの実戦であったが連覇を達成した。
天皇杯に出場し、ボレーを打つ上松
インカレ後、上松は主将に就任した。当初はそれほど主将になりたいという考えはなかったが、主将なら上松がいいという同期の思いに応えるかたちとなった。主将としては、自分たちが3年生の時に4年生が頑張ってくれたので、それと同じような代になろうと考えた。まずは自分たちが頑張ることで、後輩たちについてきてもらうというチームのかたちを目指した。その後の関東学生秋季リーグ戦(秋リーグ)では、新しいペアリングを試しながら優勝することができ、最後のシーズンも戦える準備はできていた。
しかし、迎えた2020年は新型コロナウイルスの影響でインカレを含む多くの大会が中止になり、練習すらもできない時期が続いた。その中で、上松は自分の今後について考える時間が増えたとプラスに捉え、自粛期間を過ごした。その後、秋リーグの開催が決定。試合があるということで、そこに向けて部員たちが頑張ってくれたこともあり、チームのモチベーションの低下の心配はなかった。秋リーグでは4年生が活躍し、上松自身も全勝でチームは見事優勝。インカレこそなかったが、最終的には4年生が頑張ってチームを引っ張るという目標を達成できたのだった。上松にとってこの1年間は、主将としてのチームを引っ張る大変さや達成感を味わうことができた1年間となった。
大学生活を振り返り、目標ができた時の取り組み方や知識的なこと、心の部分での我慢強さなどで成長できたという上松。今後もソフトテニスは競技として続ける。
「他の選手や、小中学生から目標とされるようなプレイヤーになりたい」。
この早稲田の4年間での様々な経験は上松をさらなる高みへ押し上げた。今後もこの経験を活かし、上松はソフトテニス界を引っ張っていってくれるだろう。
(記事 山床啓太 写真 河合智史)