ソフトテニスに誇りを
「周りに応援してもらえる選手になりたい」と杉脇麻侑子女子主将(スポ=東京・文化学園大杉並)は言い続けてきた。言葉で語るよりも試合でチームを引っ張るというスタイルで軟式庭球部女子部をけん引した。誰よりも真面目にソフトテニスと向き合い、強い姿を見せ続けてきた杉脇はどのような人物なのだろうか。
ソフトテニスを始めたのは小学一年生の時。5歳上の兄がジュニアに入っていたのがきっかけだった。「兄がテニスやっていなかったらやっていなかった」と杉脇は振り返る。中学校から部活動として本格的にテニスを始めた。進学先の強豪校では寮暮らしでテニス漬けの3年間を過ごした。その後、黄金時代である早大の入学を決意し、ペアの佐々木聖花(スポ=東京・文化学園大杉並)と早大で日本一を目指したいという一心で勉強した結果見事合格。満を持して早大に入学した。
しかし最初からそう上手くはいかなかった。1年生から試合に出ていることに対する先輩への申し訳さからの大きなプレッシャーや、自主性を重んじ学生自らが考えてテニスを行うスタイルに慣れず勝てなくなる時期も続いた。今までは指導を受けながらコーチが言う通りに試合をしていた反面、自分で考えることは杉脇にとって負担となった。1、2年目はいっぱいいっぱいであっという間に過ぎていく毎日。OGや友人からの励みや応援のメールに支えられる日々であった。
そんな杉脇は3年時に日本代表に選ばれる。アジア選手権ではミックスダブルスで韓国のトップエース・キムドンフンに勝利。なかなかペアの上松俊貴(スポ1=岡山理大付)と本番まで組めず不安が拭い切れない中での勝利ということもあり、うれしすぎて舞い上がってしまったと語る。日本代表のプレッシャーはなく仲間がいたことに心強い気持ちで挑めたと振り返った。
3年のインカレ後、来年度の主将を決める時期がやってきた。杉脇は自分が主将になるとは微塵も思っていなかった。同期から主将は杉脇がやるべきという言葉を聞き、杉脇は涙を流した。もちろん嬉し涙ではなく自信のなさからの涙である。人をまとめることが苦手で自分のことで精一杯だった杉脇は自分の技量では不可能だと思い一度は申し出を断ったが、主将としてプレーしているだけでいいから、みんなでサポートするから、という同期からの言葉もあり杉脇主将が誕生した。
プレーでチームを引っ張る主将杉脇麻侑子
4年生になった東日本学生大学対抗競技大会では6連覇を果たした。試合中は6という数字は特に意識をしていなかったという。全日本大学王座決定戦で痛めた肩を庇った状態で最終戦に挑み、棄権も頭によぎった。どう頑張っても体力的に無理だと思ったが負けるわけにはいかないという勝利への執着心が杉脇を奮い立たせた。試合後は勝った喜びではなく終わった開放感が強く感じたと振り返る。そして迎えた全日本大学対抗選手権。3連覇のプレッシャーよりも楽しみの気持ちが強かった杉脇であったが、準決勝での日体大戦で敗北をしてしまう。後悔の念が押し寄せる。インカレ決勝の舞台に早大がいない、歴代の先輩方に合わせる顔がなかった。自分が主将でなかったら勝てたかもしれないと自分を責め続けた。大粒の涙が今にも溢れ出しそうだった、しかし主将はコートの上では泣いてはいけないと涙をこらえ、応援してくれた人や保護者に頭を下げに回った。その後、主将としての仕事を終え、一人の選手となり涙が溢れ出したと杉脇は語る。
周りの人に感謝をしているという杉脇。早大に入ったからこそ多くの出会いを得られたという。ペアを組んでいた佐々木はチームの心臓のような存在であった、同期は頭が切れ常に刺激を受けて尊敬できる仲間であったと語る。ポーカーフェイスの杉脇はなかなか同期や仲間などに弱音を吐かなかったが、いつも試合に見に来てくれる親にはなんでも話したという。お母さんが気持ちの支えだったと笑みをこぼしていた。せっかく遠くまで来てくれるから一つでも多くの勝利を、と思い試合に臨んでいたという。強いように見えた杉脇を支えてたのは何よりも身近な家族であった。
自分にとってソフトテニスとはパワーや体格だけではないスポーツであり、動体視力、体力、精神力など全てを兼ね備えなくては勝てないスポーツである。そのソフトテニスをやっていることに誇りを持っていると語った。今後も就職し、クラブチームでソフトテニスを続けていく杉脇。後輩たちには結果だけを気にせず自分たちのテニスをやってほしいというメッセージを残し、一般の試合で会うことを楽しみにしていると微笑んだ。今後も杉脇の活躍を期待したい。
(記事 山浦菜緒、写真 吉澤奈生氏)