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2年時から少しずつ東京六大学リーグ戦(リーグ戦)でベンチに入るようになった前田直輝(スポ4=熊本)。3年時には主力投手へと成長した。しかしいきなり悲劇が襲う。それは新チーム最初の大会・関東地区大学選手権(関東大会)でのこと。全日本大学選手権(全日)出場が懸かった準決勝で1点リードの7回に登板し、1つのアウトも取れずに満塁のピンチをつくって降板。後を受けた投手が逆転を許し、前田は敗戦投手になってしまったのだ。「自分のせいで負けた。あのような悔しい思いは二度としたくない」。この思いが練習、生活への姿勢をより一層良いものにし、さらなる成長をもたらす。すると清瀬杯全日本大学選抜大会、秋季リーグ戦では救援の軸として優勝に貢献。11月に新体制が発足すると、吉田龍平主将(スポ4=東京・小山台)から試合経験と練習に取り組む姿勢を買われて副将に任命された。
清瀬杯で優勝し、メダルを手に笑顔の前田(中央)
冬を越えて迎えた関東大会、昨年苦杯をなめさせられた因縁の舞台で、前田は4回戦・立大戦の先発を任される。しかし、ここでも悲劇が前田を襲った。0-2で迎えた5回、味方がミスを連発。5回途中7失点で降板し、その後も点差を広げられたチームは1-11で7回コールド負けを喫したのだ。春季リーグ戦からは再び救援に戻ったが、登板数が昨季の10試合から半減し、防御率も2.61。個人として満足のいく結果を出せない期間が続いた。そんな中、前田は副将としてチームのために行動する。投手陣を中心にコミュニケーションをしっかりと取り、調整がしやすいように出場する役割を明確にして伝える。この取り組みが下級生投手の台頭をもたらし、春季リーグ戦制覇につながったのだ。
春季リーグ戦の閉会式後、胴上げされる前田
その後チームは全日制覇を達成。しかし、ここでも1試合のみの登板にとどまり、個人としては納得のいく成績が残せなかった。「もっと投げたかった。秋季リーグ戦ではもっとチームに貢献したい」。今秋前田は自分の一番貢献できるかたちとして、『登板数』をこなすことを目標にした。すると14試合中13試合に登板を果たし、防御率1.13と大車輪の活躍を見せる。最後の法大3回戦は前日に4イニングを投げた影響で「腕が上げづらく、本当にしんどい」状態だったが、4回途中から2番手として登板。当初はその回限りで代わる予定だったが、「自分が下がると後半がきつくなる。信じて送り出してくれた監督やチームの期待に応えたい」と志願のイニングまたぎで無失点の好投を見せた。さらに今秋はこれまで以上に相手校の偵察に注力。福本恭介(スポ3=石川・小松)らと協力して分析を進め、他の選手たちに還元。「それに選手たちが応えてくれたのが一番うれしかった」。プレーでもそれ以外の面でも、前田が優勝の立役者となったのだった。
熱い投球でチームを今年3つ目の栄冠に導いた
前田は準硬式野球部での四年間を「すごく人との出会いに恵まれた」と振り返った。例えば2年時、同期の杉山周平(教4=神奈川・山手学院)や久郷太雅(創理4=静岡・沼津東)が順調に試合経験を積んでいくのに対し、前田はベンチを外れる期間が長くなってしまう。それでも秋の最終戦で再びベンチ入りすると、当時の主将・齋藤成利氏(平30スポ卒)ら幹部陣から「久郷と杉山に負けずお前も頑張っていけよ」というメッセージをもらった。この言葉が原動力となり、「次の代になっても久郷杉山に食らいついていくという思いでやっていけた」という。また、何より大きかったのは「オンとオフの切り替えがはっきりしていて、一緒にいて楽しい」という同期の存在だ。「野球から離れるとすごくふざけた感じだが、野球のことになると意見とかもしっかりと言う」。この同期がいたからこそ、野球でもそれ以外でも充実した時間を過ごせたのだ。そんな準硬式野球生活も、次の関東地区大学・社会人王座決定戦で最後となる。「どれだけ最上級生が最後まで野球をしたいという思いを前面に出していけるかが大事。集大成の思いを前面に出し、何とかもう一度優勝して最後みんなでマウンドに集まりたい」。引退の瞬間を歓喜の輪の中で迎えるべく、最高の仲間と共に最後の戦いに挑む。
(記事 池田有輝、写真 金澤麻由、池田有輝、新井万里奈)