早稲田の応援を求め続けて
令和4年12月18日。早稲田の象徴・大隈記念講堂で行われた早慶戦優勝部祝賀会で早稲田大学応援部令和4年度代表委員主将・齋藤巽(教=青森)は校歌を振っていた。最後の活動日、最後の校歌を4拍で締め、齋藤が覚えたのは「大満足」という感情。「自分の信念を持って日本一の応援団体の中で応援というものを4年間つきつめた」。早稲田に入った最大の理由であった、応援部での4年間に終止符を打った瞬間であった。
齋藤が応援に初めて触れたのは小学生の時のこと。高校野球を中心にスポーツの応援に関心を惹かれ、応援を聞くために野球場へ通った。当時使用していたウォークマンには、高校野球の定番応援歌が多数収録された『ブラバン! 甲子園』をダウンロード。幼少期から応援への親しみを深めていった。そんな齋藤は青森高校入学時に大きな転機を迎える。青森高校では、人手不足もあり練習に体験参加する新入生を応援団が各クラスから数名選出。齋藤もその一人に選ばれた。練習後、現役団員から入団の勧誘を受け、ほとんどの生徒は断ったものの、齋藤は「何かの縁だと思って」入団を決意。応援の世界へ足を踏み入れた。「汽車ポッポ」「聖なる腕立て伏せ」などの伝統芸でも知られる青森高校応援団で厳しい練習を乗り越えた齋藤。応援と真正面から向き合う中で東京六大学、特に早稲田で応援をすることにあこがれを抱き、早稲田を目指した。しかし、現役での大学受験ではあえなく玉砕。浪人を反対され地元の国立大学に入学したが、早稲田へのあこがれは捨てきれなかった。「早稲田で応援がしたい」。再受験を決意した齋藤は教育学部に唯一合格。入学を果たすと、間もなく早稲田大学応援部の門を叩いた。しかし、すぐに待ち受けていたのはいばらの道。「今思えば甘い練習だったが当時はかなりきつかった」。夏季合宿で途中離脱し、東京六大学野球秋季早慶戦前には練習から置いていかれそうなこともあった。それでも、齋藤の胸の内には「やり通す」意識。厳しい新人時代を乗り越え、部員へと昇格した。部員のバッジを身につけた齋藤は、喜びもひとしおに箱根駅伝の出発地点・大手町で『ダイナマイトマーチ』のテクを振った。
しかし、齋藤は悲劇に襲われる。世界中で猛威を振るった新型コロナウイルスは春の新歓活動、東京六大学野球春季リーグ戦(春季リーグ戦)を中止へと追いやった。「生きる意味を失いかけた」。応援部入部のために早稲田に入学した齋藤にとって、応援部の活動休止は早稲田での存在意義をなくすことを意味していた。それでも秋に活動が再開すると、秋季早慶戦では外野応援席で奇跡の逆転優勝を経験。「きつさがうれしかった」。応援ができることへの感謝を胸に、齋藤は3年生へと昇格した。3年生になり補佐役職に就任すると、応援を先導する意識を覚えていく。特に後期に務めた総務補佐ではリーダーの練習を補佐として主導した。その引っ張ってきた自負はやがて応援部を引っ張っていく自信へと変わり、代表委員主将を志望。そして令和3年12月22日、令和4年度代表委員主将・齋藤巽は産声を上げた。
代表委員主将に就任した齋藤だったが、その幕開けは前途多難。新型コロナウイルスの部内感染にも悩まされ、春季リーグ戦初戦の早法1回戦はやむなく応援中止、最終カードの早慶戦も不完全燃焼な応援で結果も2連敗。リーグ戦順位も5位に終わり、挫折を味わった。「半年間やってきた結果がこれなのか」。引退まで残された時間は半年。齋藤を先頭に奮起の道を模索する日々が始まった。その直後、渉外活動の都市対抗野球応援や早慶バレーボール定期戦の場内で観客と応援を創る感覚を取り戻す。さらに3年ぶりの夏季合宿で連帯感を一層高めると、最後の秋に臨んだ。
迎えた秋季リーグ戦。野球部は春季リーグ戦とは一転、好調なペースで勝ち星を積み重ねていった。3年ぶりに観客のそばの内野応援席に戻ってきた中、全体の応援の出来も春とは一転したと語る。「応援に対する意識が格段に変わった」。応援の連帯感が高まる中、齋藤の主将としての意識も変化していった。「主将としての責任は姿でも言葉でも引っ張ること」。どの部門にも所属しない代表委員主将という立場であるからこそ、全体を俯瞰して部員の努力を感じ取り、自身の原動力に変えていった。最終盤の早立戦、早慶戦では幾度となくピンチを迎えるが、齋藤は最前線で声援を送り、テクを振り、拳を突き続ける。そのがむしゃらな姿で主将らしく応援を引っ張り、野球部の勝利を後押しし続けた。そして早慶2回戦、9回裏。ここまで死に物狂いで応援してきた姿とは一転、指揮台からグラウンドの様子を静かに見守る。『打倒慶應』の瞬間を先頭で見届けると、観客へ直接感謝の言葉を贈った。セレモニーでは新人時代の代表委員主将・下田隆博氏(令2政経卒=東京・早大学院)に倣って2拍、2拍、4拍で校歌を堂々と振り切る。最後の明治神宮野球場(神宮)でこれまでの努力が実を結んだ齋藤。晴れ晴れとした表情で神宮を去った。
最後の秋季早慶戦にて指揮台からグラウンドに声援を送る齋藤
最後の神宮で校歌を振り切った齋藤
それから1カ月後。齋藤の姿は早慶戦優勝部祝賀会にあった。これまで全力で駆け抜けてきた4年間の活動もこの日がついに最後。この1年間で各競技の早慶戦で勝利した体育各部への祝福を込めて校歌を振る。最後の神宮と同じく4拍で振り切ったその瞬間、齋藤の4年間の応援部人生は終わりを告げた。
「やり切ったうれしさ」と「死ぬほど経験したかった4年間が終わってしまったもの悲しさ」。4年間を終え、数え切れない試練を乗り越えた達成感を感じる反面、あこがれ続けた早稲田大学応援部での日々が終わってしまった虚無感も感じた。しかし、そんな4年間も、代表委員主将としての1年間も周囲の存在がなければ乗り越えられなかったと語る齋藤。関わってきた全員への感謝を口にした。そして常に根底にあったのが、高校時代から抱き続けた応援へのこだわり。磨き続けた応援へのこだわりは「自分が一番かっこよく映える応援を心から見せれば、選手、観客にかっこいいと思ってもらえる」という答えにたどり着き、存分に貫き通した。「この4年間に変えられるものって絶対この先ない」。夢だった応援部人生を全力でやり切った齋藤は、晴れ晴れとした気持ちで早稲田大学応援部を後輩に託し、学ランを脱いだ。
(記事、写真 横山勝興)