早稲田に魅せられて
『早稲田に惚れているんですよね、下田は』同期のリーダー部員がそう語るほど早稲田愛を持っていた主将、下田隆博(政経=東京・早大学院)。応援部の代表委員主将という立場を離れても、その早稲田愛が変わることはなかった。高校生の時、神宮球場で一万、二万という観客をまとめている応援部の姿をみたあの瞬間から、下田の大学4年間、それ以上の人生が早稲田にどっぷりと浸かることになる。自らが憧れた背中を追いかけ、入部から3年を過ごした下田は、後輩に対して自分の背中で示す主将になっていた。それから1年、全力で駆け抜けた後に下田が選んだのは早稲田の職員という道だった。
運動することが好きで、早大学院時代はバスケ部の司令塔も務めていた下田。入部当初はバスケのサークルとの迷いもあったという。その迷いが消えたのは1年生の夏合宿。辛く厳しい練習をともに乗り越えた同期と「あと3年半過ごしたい」と強く思った。他大学の応援部にも言われるほど賑やかで仲の良い同期、リーダー10人全員が目指す方向や個性はバラバラではあるが、一つの目標に向かっていくとビシッと揃う。下田の同期はそんな代であった。そんな個性の強い他の9人に対して、主将としての下田は上からまとめようとするのではなく、自分を強く出さず、一歩引くことができる存在であった。
明治神宮野球場にて、同期と
学年目標を『革新』として、今までの応援部とは違う部の姿を目指した。同期との関わり方としては、制限をしないで各々が自由にやりたいことをできるように心がけた、結果としてそれが応援部の活動の幅を広げた。下級生に対しては練習後、帰る時間を遅くならないように、応援の際の集合時間を遅くする、など4年生が気を遣うように努めた。球場の応援においても4年生が率先して声を出し、決して腕を組んで座ることはしなかったという。風通しを良くする、を合言葉に同期と共に新しい応援部を作ってきた。その『革新』の取り組みは下田個人の取り組みにも現れている。主将という立場は試合の最後に校歌の指揮を振る回数が一番多いのだが、下田はそこにこだわりを見せた。試合に勝った時は選手が頑張ってくれた分、通常よりもきつい4拍の振りで1番から3番までやりきった。一方試合に負けた時は全てキレのある2拍で振って、気持ちを引き締めた。
卒業後は大学職員として早稲田に関わっていく下田。今までOBOGにお世話になった分、今度は自分が学生を支えられる立場になりたいと語る。早稲田のいいところは自由なところ、と言う。「いい見本も悪い見本もいる、とよく言われますが、そこが逆に早稲田の魅力だと思います。いい見本の人を見て成長したり、逆に悪い見本を見て失敗から学んだり。自分のチャレンジできるフィールドが整っているので行きたい分野にどんどん自由に進むことができるのでは。」この4年間は応援部として、そしてこれからは職員として、早稲田の学生を輝かせる存在であり続けるだろう。
(記事 市原健、写真 市原健、馬塲貴子)