【特集】スタッフ特集 第2弾 豊嶋健太郎主務×牛島詳一朗副務

野球

 未曽有のコロナ危機に見舞われた今年、先頭に立って部を運営してきたのは豊嶋健太郎主務(スポ4=愛知・南山)と牛島詳一朗副務(社4=大阪・早稲田摂陵)の2人だ。異例な状況の中でも東京六大学リーグ戦(リーグ戦)開催、参加に漕ぎ着けられたのは彼らの活躍が大きい。コロナ禍での裏話やマネジャー就任までの経緯、4年間の奮闘と今後を語ってくれた。

※この取材は10月16日に行われたものです。

マネジャーの仕事とは・・・

インタビューに答える豊嶋(左)、牛島

――まず最初に、マネジャーの仕事内容を教えてください

豊嶋 マネジャーの仕事は『野球をすること以外』と思ってもらえたらよくて、スケジュール管理から道具の管理、金銭面の管理をしたり、連盟との連携をと取ったり、やっていることは多岐にわたります。

牛島 学年に2人ずつマネジャーがいて、2年生、3年生、4年生にマネジャーがいるのですが、片方は会計を担当していて、片方は広報を担当しています。僕たちは豊嶋が会計を担当して、自分が広報ということで、会計はお金の管理をしていて、広報はそれこそ早スポの取材の調整をしたりだとか対外的な仕事をしています。

――学年ごとに仕事の分担はあるのでしょうか

牛島 毎年決まってはいないのですが、こういう仕事は何年生がやるというのは何となくあります。

――会計と広報はお2人で話し合って決めたのですか

豊嶋 最初の方に会計と広報どっちがいいって言われたときに、自分たちはどっちも会計も広報もやっていなかったので、何となくで「俺、会計やるわ」って言って、牛島も「広報やる」って言ったのでちょうどよく決まりました。

――主務の方が会計をやるのでしょうか

豊嶋 そもそもマネジャーが各学年2人ずつになったのが、自分たちが2年生のときの4年生の高橋朋玄さん(平31人卒)の代からだったので、まだ2人体制というのがあまり続いていなくて。たまたまここ数年は会計の人が主務をやっているというかたちです。

――マネジャーになった経緯を教えてください

牛島 自分が先にマネジャーになったのですが、マネジャーを出すということで1年生の秋くらいから学年で話し合っていて、候補が何人かいる中で自分と豊嶋も候補に挙がっていました。もちろん自分たちは野球をやるつもりで入ってきたので、最初は選手でやると言っていたのですが、自分が決め手になったのは、副将の吉澤(一翔、スポ4=大阪桐蔭)が学生寮が同じだったのですが、代表して自分の部屋に直接頭を下げに来て、「お前を日本一のマネジャーにしてやるから」と言われたことです。その時に同じ同期に自分がそういうポジションで求められているんだったら、そこでチームのために何かができるのかなと。自分の(選手としての)目標みたいなのもあったのですが、それと天秤にかけた時にマネジャーの方がやりがいとかがあるのかなと割り切れたので、そこでマネジャーになるという決断ができました。

豊嶋 最初自分はあまり候補に挙がっていなくて、内心大丈夫だなと思っていたのですが、候補に挙がりだした途端に急に票が入り始めてきて、これやばいなってなってきて。牛島と同じ流れで最初の方は断っていて、吉澤とかに「マネジャーを任せたい」と言われていく中で自分の中で自問自答しました。例年だったら、新チームが始まる前にマネジャーを出さないといけないのですが、自分たちの代は本当に決まるのが長引いてしまって、翌年まで続いてしまっていて、これはそろそろやばいなって思っていました。ある時、自分がこれ以上迷惑を掛けるのも嫌だし、このミーティングでマネジャーをやってほしいって言われたらマネジャーをやろうかなって思っていた日に、たまたま金子(銀佑、教4=東京・早実)が手を挙げて、「マネジャーをやってほしい奴がいるんだけど、それが豊嶋なんだよね」って言って、「やります」って言ってマネジャーをやったかたちです。

――今年は新型コロナウイルスの影響で、毎年恒例の沖縄キャンプが中止となりました。その時の心境はいかがでしたか

豊嶋 「マジか」でしたね。本当に直前まで行く予定だったのに、2日か3日前に中止になると聞いたので、どうしようって思って。当初、(春季)リーグ戦も(4月から)ある予定だったので、ここからどうすればいいんだろうっていう動揺というか頭が真っ白になったというのを覚えています。

――事後対応なども大変だったのではないでしょうか

豊嶋 めちゃくちゃ電話しました。毎日、何百件っていうくらい電話したのを覚えています。携帯が2つあるのですが、両方持ってやっていたのを覚えています。

――春季リーグ戦が延期になったことを振り返っていかがですか

豊嶋 やばかったね。これも本当に頭が真っ白になってしまいましたね。野球ができなくなるなんて想像もしていなかったので。

牛島 そもそも練習自体ができないとなったので、その時点でこのままリーグ戦を迎えたらやばいなってなって。案の定春が中止になってしまって、例年通りやる予定が全部崩れたので、ここからどうスタートし直そうかという感じでいました。

――活動自粛中はどのような取り組みを行いましたか

豊嶋 活動がなかなかできなかったので、その中で選手がどうやって練習に取り組んでくれるかっていうのを試行錯誤しながら、多少寮の中で練習できる環境を整えたりだとか、そういったことをして何とかやりくりをしていました。

――活動自粛中もご実家には帰らず、寮にいたのでしょうか

牛島 ずっと自分たちも寮にいました。選手も練習自体はなくなったので、選手個人で自主練をするという感じで、その各個人の選手の練習を手伝ったりだとか、選手にとって都合のいい役回りをして、いろいろやっていました。

――活動再開後は、感染防止対策を行っていたのですか

豊嶋 コロナにかかってしまったらリーグ戦にも出られないと大学から言われていたので、それだけは何としても避けなければいけないということで、当たり前ですけど普段の消毒とか手洗いうがいとかを徹底させていました。外食とかも禁止して、なるべく寮の中で食べるようにしました。

――変則的なかたちで春季リーグ戦が開幕しましたが、運営や準備はいかがでしたか

豊嶋 六大学のマネジャーや連盟の方を中心にして何とか無事にやろうという思いで頑張っていたので、やれて良かったなって思います。

牛島 メンバー表とか書類を作ったりするのですが、そういうのも例年とは違うかたちになったりして、6校どのマネジャーも新しいかたちの運営に不安がある中で、開幕を迎えたみたいな感じでした。

――他大学のマネジャーとも連携を取ったのですね

豊嶋 めちゃくちゃ連携を取りました。グループLINEがあるのですが、毎日毎日連絡して、「どんなことやってる?」って聞いたりだとか、「こういうふうになるんだけどどう思う?」とか、かなり密に連携を取り合っていたなという記憶があります。

「○○のおかげで団結力がそうとう生まれた」(豊嶋)

――大学での4年間を振り返って辛かったことは何ですか

豊嶋 辛かったことか…。なんかある?

牛島 自分は選手として入ってきた時の最初の数ヶ月です。走りまくったり、野球をやらせてもらえなくてただ走ったりで、上下関係も辛かったです。マネジャーになってからは体力的にはしんどくなくても、毎日自分の行動に責任がかかるというか、自分の行動に自覚を持たないと駄目だなっていうので(マネジャーに)なりたての頃は精神的にきついなと思ったのが印象的です。

――選手として練習や試合に参加できないことへの葛藤はありましたか

牛島 練習試合とかでスコアを書いたりする時に、同じ学年のみんなが試合に出ているのを見ると、すごくうらやましいなっていうのは感じて。やっぱり野球ができるのはすごくうらやましいなって感じていました。

――どのタイミングで切り替えることができたのでしょうか

牛島 フレッシュリーグ(東京六大学秋季フレッシュトーナメント)で初めて神宮のベンチに入った時に、全員がベンチに入れるわけではないので、そういうのを考えた時に選手ではないですけど、マネジャーというポジションでベンチに入って、一緒にグラウンド内で戦わせてもらう経験をしたのが自分の中では吹っ切れたポイントかなって思います。

――豊嶋さんにとって辛かったことは何ですか

豊嶋 肉体的に辛かったのは、下級生の時に朝から夜遅くまで野球じゃないことをずっとやっていたことです。あとはやっぱりマネジャーの1年目、2年生の時は結構しんどくて、本当に右も左もわからない状態で、マネジャーって何をするんだろう、高校みたいなことするのかなって思っていたら、全然違くて。めちゃくちゃ責任大きいことをやっていたっていうのもあって、寮からいつか逃げ出してやろうっていうくらいマネジャーの1年目は精神的にきつかったですね。

――その時に支えになった存在やお世話になった先輩はいますか

豊嶋 自分は1年生の時は高校とかの先輩が誰もいなかったので、正直頼る先輩がいなかったのですが、1年生の時はやっぱり同期とかで同じ浪人をしていた宮本(茂樹、スポ4=奈良・一条)とかと一緒に時間を過ごしたりしていたなって思っています。マネジャーになってからは同期の牛島と辛い時は一緒に「辛いね」って話したりだとか、1個上の先輩にもよくしていただいたりとか、そういったところでだいぶ助けられたなって思います。

――浪人をされたとのことですが、それは早大に入りたいという強い思いがあったのですか

豊嶋 高校とかは弱くて、何でかは分からないのですが、その時から早稲田の野球部に入りたいってずっと言っていました。高校の時はめちゃくちゃ成績が悪かったので、どう頑張っても絶対に受からないだろって言われていたのですが、早稲田しか行きたくないって言って、(早大を)受けて全部落ちて。そこから親にお願いして浪人させてもらって、浪人してからは結構勉強した記憶があります。それで何とかスポーツ科学部に引っかかって今ここにいるので良かったなって思います。

――早大に惹かれたポイントはどういったところでしょう

豊嶋 やっぱり大学野球と言ったら早稲田っていう勝手な固定概念が自分の中にあったのだと思います。「何で慶應に行かなかったの?」「慶應受けなかったの?」って結構言われたのですが、俺は慶應には合わないなって勝手に思っていたので早稲田しか受けなかったですね。

――牛島さんは早大の系属校出身ですが、高校入学時から早大野球部を意識していたのですか

牛島 自分は中学生の時に斎藤佑樹さん(平23教卒=現北海道日本ハムファイターズ)の存在とかもあって早稲田に入ろうって決めて。早稲田大学野球部に入るためにはどのルートを辿ったら一番行きやすいかなって考えた時に地元に早稲田の系属校があったのでそこに入学しました。

――4年間を振り返って一番の思い出は何でしょうか

豊嶋 自分はやはり(立候補する時の)マネジャーミーティングですね。自分がマネジャーになる時はみんな号泣してくれて、すごく感極まった記憶があるので、そこが一番の思い出ですね。

牛島 自分は下積みの時の思い出が正直一番ですね。毎日朝早くからグラウンドの整備をしたりということを学年みんなでやったので、すごく毎日辛かったのですが、それをみんなで乗り越えたから今こうして一丸となって戦えているのだと思います。あの経験が今につながっていると思うので、自分の中では4年間の中で一番の思い出かなと思います。

――そういった下積みの期間が今の団結力につながっているのですね

牛島 そうですね。みんなで乗り越えたという自信を全員持っているはずなので、すごく大きな経験だったのかなと思います。

――先日インタビューさせていただいた学生コーチの方々も、4年生の団結力の強さを口にしていました。今年は強いものがあるのでしょうか

豊嶋 ありますね。めちゃくちゃあると思います。

――下級生の選手にインタビューさせていただく際も、「4年生が中心となっていい雰囲気をつくってくださる」という話をよくお伺いしますが、その一番の要因は何でしょうか

豊嶋 一番の要因は、僕個人の意見としては学生コーチの杉浦(啓斗新人監督、文構4=東京・早実)が中心となって、リーダーシップを持ってチームをまとめてくれていることです。あいつのおかげで団結力がそうとう生まれたのかなと思います。

牛島 自分も杉浦の力というのは本当にすごいなと思っています。それに加えて主将副将の3人が、自分たちだけでやるのではなくて、周りのことを見ながらいろいろなところに目を配って気を使ったりとか、そういう人間性のある奴らなので、それもみんなが付いていこうと思える要因になっていると感じています。

――現体制になり、普段の練習風景に変化などはありましたか

豊嶋 外から見ていてなのですが、普段の声の大きさやみんなが練習にのめり込む様子とか(が違います)。実際に3年生でメンバーに入っている選手の話とかを聞いていても「今年は違います」と言っていて、みんなが4年生のためにと思ってくれている部分もあるみたいです。あとは下級生も意見を言いやすいみたいで、そういうのも(団結力に)つながっているのかなと思います。

――マネジャーをやっていたからこそ経験できたことや学べたことは何でしょうか。

牛島 一つは、普段の私生活の整理整頓だったりとか、当たり前のことをしっかりやることが生きていく上で大事だなということです。あとはチームを運営する上で人の上に立つ立場なので、自分の行動に自覚を持つというところと、他人に指示を出す(に値する)だけの行動を日々心がけるという部分です。今までそういう経験がなかったので、自覚をもって行動するというような部分は成長させてもらえたなと思っています。

豊嶋 自分は裏方という立場になって、「選手はどうしたいか」、「こういうことをしたら喜んでくれるんじゃないか」、「こうしたら助かるんじゃないか」、というように、相手の気持ちを考えられるようになったのが一番大きいと思います。選手、特に1年生の時は「自分が何とか生き残らないと」という思いしかなかったので(笑)、マネジャーになってからそういう考えが身に付きました。

――先ほど「辛い時は2人で助け合った」というお話がありましたが、支え合ってきたお互いへ掛けたい言葉はありますか

豊嶋 マネジャー2人でチームを支えていくという中で、牛島じゃなかったらうまく回っていなかったなということが多々ありました。自分にないものを持っているのが牛島だったので、本当に牛島で良かったと思います。辛い時とかも牛島の部屋に行って、辛い気持ちを吐き出して「頑張ろう」みたいな話をよくしていたので、本当に牛島で良かったなと思います。

牛島 自分はそうやって豊嶋が何でも素直に言ってくれるところが本当に助かったなと思います。2人で連携する時もすごくやりやすかったですし、ふざけるときは面白いことを言ってきて暗い雰囲気を変えてくれたりとか、辛い時にそうやって明るく接してくれたというのは自分の中で大きかったので、とても感謝しています。

「強い早稲田をこの代で取り戻せたら」(牛島)

――チームは優勝争いをしていますが、チームへの思いを教えてください

豊嶋 みんなけが無く頑張ってほしいなという思いだけですね。そのために自分たちは何でもやるんだという気持ちでやっているので、優勝に向けて毎日の練習などもけがせずしっかり頑張ってほしいなという思いだけです。

牛島 自分たちの学年は最後のシーズンなので、今まで積み重ねてきたものを最後に出してほしいです。今までやってきたことを信じて、今までと変わらず全員がそれぞれの立場でやるべきことをやっていければ絶対優勝できると思っています。

――4年生は入学後一度も優勝を経験できていませんが、優勝への思いは強いものがありますか

豊嶋 ありますね。自分は優勝できるチームに入りたくてここに入ったので、自分個人としては最後は優勝しかないと思っています。

牛島 強い早稲田に憧れて入ってきた部分があったので、今は優勝から遠ざかっているのですが、強い早稲田をこの代で取り戻せたらと思っています。

――残り少ない野球部生活での抱負を教えてください

豊嶋 明治神宮大会が中止になって、引退まであと1カ月を切ってしまっているので、やれることは全て、思い残すことなくやってしまいたいです。

牛島 学生野球最後、野球人生最後になり、本当に後悔はしたくないので、最後までやるべきことをしっかりやっていく。それだけかなと思っています。

――少し気は早いですが、野球部卒業後のお2人の今後の人生への抱負をお願いします

牛島 具体的にどうなるとかどういう功績を上げるというのはこれから探していくのかなと思うのですが、早稲田大学野球部のOBとしてこれから社会人になるので、その名に恥じない人間、後輩などに誇りに思ってもらえるような社会人になりたいなと思っています。

豊嶋 自分は今後の目標は、やりたいと思ったことは全部やるということです。頑張れば一浪はしたけれども早稲田大学野球部に入れたように、頑張れば何とかなるというのを経験したので、今後の人生もそれを生かして、「これやりたいな」と思ったことを何とか頑張って実現させていきたいです。

――ありがとうございました!

(取材・編集 池田有輝、望月清香)

◆豊嶋健太郎(とよしま・けんたろう)

1997(平9)年4月25日生まれ。165センチ。愛知・南山高出身。スポーツ科学部4年。主務。牛島副務いわく、「素直に何でも聴いてくれて雰囲気を明るくしてくれる」という豊嶋主務。期待の下級生を聞いたところ、今季1年生投手で唯一ベンチ入りを果たした加藤孝太郎選手(人=茨城・下妻一)を挙げてくださりました!

◆牛島詳一朗(うしじま・しょういちろう)

1998(平10)年6月3日生まれ。180センチ。大阪・早稲田摂陵高出身。社会科学部4年。副務。愛称は「うっしー」の愛されキャラで、「すべてを受け止めてくれる」(豊嶋)という広い心を持つ牛島副務。注目の下級生は速球派右腕の佐竹洋政選手(商2=東京・早大学院)。ウエートトレーニングなどで一緒になることが多いそうです!