【連載】『平成27年度卒業記念特集』 第36回 佐藤敏基/米式蹴球

米式蹴球

一つのキックに全力を尽くして

 安定感抜群のFG、大勢の観客が感嘆の声を漏らすパント。昨年のワセダにはすごいキッカーがいた。佐藤敏基(社=東京・早大学院)。出番は少ないが、その一つ一つのプレーを確実に成功させ勝利をもたらす、チームに不可欠な存在だ。大学では珍しいキッカー専門というポジション。だからこそ誰にも負けられないプライドがあり、誰よりも一つのキックに全力を尽くしてきた。

 佐藤がキッカーになったのは高校3年生のころ。膝の靭帯断裂や肩のけがなど、度重なる故障に苦しみ、元のポジションでプレーをすることが難しくなってしまった。そこで、新たな地位を求めた結果、キッカーとしてやっていくことを決意した。だが、いざこのポジションに身を置くと、これまで経験したことのないプレッシャーがキッカーにはあった。常に己と戦い、一つのキックが試合展開を大きく左右する。しかし佐藤はそこがキッカーの魅力と話す。なぜなら、自身の強みを「追い込まれた状況であればあるほど『やってやる』と思えるメンタル」と感じているからだ。キッカーは佐藤にとって、まさに天職であった。

重要な場面でいくつものFGを決めてきた

  ワセダに入学し、キッカーとして大きく飛躍する契機となったのが、大学3年時に参加したアメリカでの強化キャンプ。アメフト最高峰の舞台であるNFLを目指す有望な海外の選手や、キッカー専門のコーチがいるなか、今まで感じたことのない刺激を受けた。キック時の足の使い方、筋力、柔軟性など自分にはないものが海外の選手にはあった。合宿が終了したあとも、知り得たスキルを自分のものにするため、努力を重ねた。こうした試行錯誤が佐藤を大学屈指のキッカーへと成長させていった。

 「キッカーとしてこれまで何千本と蹴ってきた佐藤だが、特に印象に残っているキックが二つある。一つが昨年の法大戦での勝利、と同時に関東大学秋季リーグ制覇を決定づけたFGだ。佐藤自身も「今までで一番嬉しかった」と話す歓喜のFGだった。そしてもう一つが、昨年のパナソニック杯第70回毎日甲子園ボウル(甲子園ボウル)での最後のFGのシーンだ。ラスト3秒で1点差。逆転優勝への最後の望みは、佐藤の右足に託された。まさに究極の状況。いつも通りの強い気持ちで臨んだが、決めることができず。日本一の栄冠は夢へと消えた。「この先も忘れることはできない」。キッカーとして最大の悔しさを味わった瞬間だった。

 「最後に負けたら悔しい。後輩には勝って日本一になって、笑って引退して欲しい」とメッセージを残した佐藤。関東を制し、5年ぶりに甲子園ボウルに出場した強いチームであっても、悔しさが消えることはなかった。この悔しさを力に変えて、社会人でもプレーを続けることを決意した。見ることのできなかった日本一の景色を見るため、佐藤は全力で蹴り続ける。

(記事 高橋弘樹、写真 近藤廉一郎氏)