【連載】『令和2年度卒業記念特集』第1回 早川隆久/野球

野球

早稲田のエース

 「エースという肩書が、僕を強くさせてくれた」――。早稲田大学野球部第110代主将・早川隆久(スポ=千葉・木更津総合)はかみしめるようにこう語った。昨年の東京六大学秋季リーグ戦(秋季リーグ戦)で、劇的な優勝を飾った早大。歓喜の輪の中心にいたのは紛れもなく早川だったが、そこに至るまでの道のりは決して平たんではなかった。

 甲子園春夏8強、U18日本代表と、大きな注目とともに早大へ入学した早川。しかし、待っていたのは苦悩の日々だった。1年春から登板機会を得た早川は、初登板から3試合連続無失点と上々のデビューを果たす。4試合目の登板で初先発、初勝利を飾ったが、良かったのはここまで。早慶1回戦では救援で決勝の満塁弾を柳町達(現ソフトバンク)に浴び、先発に抜てきされた3回戦でも敗戦投手になった。2年秋までの通算成績は、2勝6敗、防御率4.27。「髙橋前監督(広、昭52教卒=現神戸医療福祉大監督)に、『1、2年時は高校時代のポテンシャルが結果に出る。逆に3、4年は大学での積み重ねが結果に表れる』と言われていて、高校時代に大した武器がなかった自分としては当然なのかなと感じた」と、早川は当時を冷静に振り返った。

  転機が訪れたのは2年の冬。小宮山悟監督(平2教卒=千葉・芝浦工大柏)が新たに就任したことが、早川を大きく変えた。会ってすぐ、リリースポイントの修正をアドバイスされたという早川は、ものの数週間で球質を大きく向上させた。これに対して小宮山監督は「短期間でモノにした早川のすごさ」と話す一方、早川は「自分が消化しやすい、的確なアドバイスをくれた」と言い、信頼関係は就任早々から構築されていった。

昨秋の早慶2回戦の試合後、スタンドに挨拶する早川

 そうして迎えた3年春。早大において左腕エースの象徴である背番号『18』を新たに背負った早川には、エースの自覚が生まれていた。前年度主将を務めていた小島和哉(平31スポ卒=現千葉ロッテマリーンズ)が卒業し、第一先発に定着。成績も自己最多の3勝、防御率2.09と格段に上げてみせた。しかし、早川には決して満足できない理由があった。「完投完封してこそエース」。秋季リーグ戦でも初完投はお預けとなり、チームも8季連続で優勝を逃した。

 小宮山監督の指名で早川が主将に就任し、迎えたラストイヤーだったが、ご存知の通り日本は新型コロナウイルスの猛威にさらされていた。大学スポーツも例外でなく、春季リーグ戦は延期となった。長い自粛が明け、異例の8月開催となったその春季リーグ戦で、早川はエースとしてのベールを脱いだ。

 初戦の明大戦で先発した早川は、自己最速を4キロ更新する155キロをマークするなど、圧巻の投球を披露。自信になるリーグ戦初完投から、早川の圧倒的な投球が始まった。春季リーグはタイブレークで2敗し優勝は逃したが、続く秋季リーグ戦で10季ぶりの優勝。早川の成績は、6勝0敗、防御率0.39、4完投、2完封。誰が何と言おうと、その姿は『早稲田のエース』だった。

 「1、2年時は大竹さん(耕太郎、平30スポ卒=現福岡ソフトバンクホークス)、小島さんという偉大な両左腕の背中を見ていた。下り坂だった下級生時代の自分を変えてくれたのは土橋さん(恵秀トレーナー、平15人卒=滋賀・比叡山)と小宮山監督。支えてくださった多くの方々のおかげで今の自分がある」と話す早川だが、同期や後輩は誰よりもたくさん走ってきた早川の姿を見てきた。『早稲田のエース』としての信念は、間違いなく後輩に伝わっている。そんな記憶を置き土産に、早川はプロの舞台へ。最高峰の場所で見せてくれるであろう活躍が、心底楽しみでならない。

(記事 山崎航平、写真 池田有輝)