東京六大学秋季リーグ戦(秋季リーグ戦)ではここまで防御率0.00と、救援陣の軸となって躍動している柴田迅(社4=東京・早大学院)。チームにとって欠かすことができない存在になっている柴田は、ここまでどのような野球人生を歩んできたのか。そして、選手としてマウンドに立つ最後のシーズン、その最後のカードである早慶戦に懸ける思い。また、ここまで共に歩んできた同期への思いを伺った。
※この取材は10月29日に行われたものです。
「自分自身独学が好き」
笑顔で取材に答える柴田
――まず初めに、今季の振り返りをお願いします
そうだな…リーグ戦前のオープン戦は自分の中ですごく状態がよくて、自身を持ってシーズンの最初入ったのですが、法大戦で今西の後に自分がピンチで出て、監督としても自分を信じてくれてマウンドに送ってもらったのですが、そこで打たれてしまって、打たれた球も自分が納得できないものでした。その法大戦辺りでちょっと調子を落としてしまったかなという感じだったのですが、そこから何とか修正して、その後のカードで段々調子が上がってきていて、早慶戦に向けていい調整ができているかなと思います。その法大戦が悔しいですけど、切り替えるしかないので、このシーズンは…ぼちぼちかなと思います。
――その納得できなかった球というのは具体的にどのようなものでしたか
球種的にはカットボールで、自分の中でもキャッチャーの岩本(久重、スポ3=大阪桐蔭)とも意思疎通の中で、ボール球でもいいというような認識の球だったのですが、そこは自分の技術不足で、球が浮いてしまって、真ん中高めの一番打ちやすいゾーンにいってしまいました。それが原因で外野を超すような打球だったので、そこは悔やまれる部分かなと思います。
――それぞれの球種の状態はいかがでしたか
現時点では、立大戦の後から感覚が掴めた部分があって、早慶戦に向けて今日もブルペンでピッチング練習をしたのですが、その感覚もすごくいいので、基本的に全部の球種、状態はいいと思っています。真っすぐも質が良くなってきましたし、打たれたカットボールも今は高さを徹底してやっていますし、各球種、自分の中では状態はいいかなと思います。
――法大戦から立大戦の間に、どのような点が良くなったのですか
2年生から投げさせていただいていて、神宮球場のマウンドの高さや傾斜が若干、今までと変わっていて、慣れなくてはいけない部分はあったのですが、法大戦までは体重移動の仕方が自分の中ではまりきっていない部分がありました。それ以降は修正して、体重移動を自分なりに工夫したら、段々状態も良くなったので、たぶん下半身の使い方を主に修正したかなと思います。
――それでは、ここからは今までの野球人生について伺いたいと思います。まず、野球を始めたのはいつですか
小学校3年生ですね。
――きっかけは何ですか
元々、千葉ロッテマリーンズの本拠地である千葉県の幕張の方に実家があったので、幼少期からロッテマリーンズのファンクラブに入っていたりしました。スポーツ全般好きだったので、野球も好きなスポーツの一つとしてあったのですが、たまたま小学校3年生の時に、それまでサッカーをやっていたのですが、友達に野球やろうよと誘われて始めたのが最初ですね。
――ポジションは最初からピッチャーでしたか
最初はレフトだった気がします。
――いつ頃からピッチャーをやり始めたのですか
ピッチャーの経緯は複雑なのですが、最初、少年野球始めた時は外野手からで、途中から人よりちょっとだけ球が速かったので、ピッチャーやってみろとなって、小学校4年生、5年生あたりまでピッチャーやっていたのですが、ものすごく球がシュートするピッチャーでした。軟式の少年野球チームだったので、変化球が禁止というルールの中で、すごくシュートしていたので、「これ変化球と言われる」と言われて一回ピッチャーをクビにさせられて、肩はいいから小学校後半はずっとキャッチャーやっていました。中学校に入って、弱小チームでやっていたので、野球部員のピッチャーが塾のテストでみんな試合休みますという日があって、ピッチャーがいなくなってしまって。「ピッチャー経験のある人」となって投げたら、いつの間にかシュートしなくなっていて、その日抑えることができて、それから急にピッチャーやることになりました。なので、中学校1年生の冬からまたピッチャーをやるようになって、そこからはずっとピッチャーをやってきました。
――シュートしなくなった要因に心当たりはありますか
自分の中では、人の真似をするのがものすごく好きで、当時好きだった涌井秀章投手(現東北楽天ゴールデンイーグルス)とか、かっこいいなと思った投手の真似を家で窓ガラスを前にしてやっていたら、いつの間にかそういう感じのフォームになっていて、それがたまたまはまって、真っすぐがそんなにシュートしなくなった感じでした。
――それでは高校の時の話に移ります。高校はなぜ早大学院を選ばれて、野球部に入られたのですか
まず、大学は早稲田大学に入りたいというのが高校に入る前からありました。中学校3年生の時に千葉県内の高校の野球部の方たちにうちに来ないかとお声がけしてもらっていたのですが、お断りをさせていただいている中で、「じゃあ逆に柴田くんはどこに行きたいの」という話をされた時に、その当時は一般受験で通ろうとしたら絶望的だったのですが、早大学院にたまたま行きたいなと思っていて。ある高校の監督に「早大学院を今のところ考えています」と伝えた時に、そこは毎年練習試合やっているという話になって、早大学院の監督、今の木田茂監督に連絡を取ってくれました。後日会うことになって、そこで色々お話を聞いている中で、「早大学院に行きたいな」という気持ちになって、強く志望するようになったという感じですね。
――高校3年間を振り返っていただけますか
そうですね…投手をやっていて、3年間通して早大学院というのは投手コーチといった専門的なコーチがいないような環境で野球をやっていて、どうしても自分で考えて練習をしないと成長できないような環境があって、強豪校のような恵まれた環境ではありませんでした。自分自身独学が好きで、指導者に教えてもらってやるというよりも、先ほど言ったように、自分のかっこいいと思った選手のものまねや、その人のビデオと自分のビデオを見て「どこが違うのだろう」と自分で研究しながらやってみたり、通っている整骨院の方にどのようなメニューがいいかを聞いてみたりと、自分自身で考えながら練習をやっていたというのが高校3年間ですかね。
――早大野球部に入るとなった時の心境はいかがでしたか
正直、大学で続けるか迷っていました。やはり、ものすごく伝統のあるチームで恐れ多かったというか、自分のような甲子園にも出ていなくて、地区大会で行けてもベスト8というようなチームの選手が行ってもいいような組織なのかというところに引け目を感じていた部分があったので。あと大学1年生の時にすごくきつい期間が自分の中ではとても嫌だったという、この2つの理由があってので、少しやるか迷っていたのですが、やはり周りの方に「大学野球でも頑張ってくれよ」という声かけをすごくしてもらって、それが後押しして大学野球でもやろうという決意につながりました。
――初めに早大野球部に抱いた印象は
もう、すごい所に来たなという一言です。先輩方のレベルも高いですし、同期もスポーツ推薦の4人を始めとしていい選手、全国から来る選手ばかりなので、レベルの高さに圧倒された記憶があります。
――大学1年時を振り返っていただけますか
今、大学1年生の時に戻ってくれと言われたら、どれだけお金を積まれても戻りたくないというような1年間だったと思います(笑)。朝準備といって、朝早くからグラウンドの整備や道具の整理を毎日しなくてはならないのが当時の1年生の仕事で、練習後にも整備があって、入部してから2、3カ月はボールすらまともに触れないような生活が続いていて…。まだ大学の野球部という組織に慣れていない部分が大きかったのですが、右も左もわからない中で厳しいところを要求される組織なので、そういう部分で1年生の時は、本当にめちゃくちゃになってやっていたので、あの時には戻りたくないなと思いますね。
――そのような時期に心の支えとなったものは、先程おっしゃったような周りの声でしょうか
もちろんそれもありますし、自分の場合は東伏見の学生寮に住んでいて、そこで多くの同期と生活をしていたので、仲間という存在は自分の中で大きかったなと思います。
――大学2年生からリーグ戦に出場されましたが、振り返りをお願いします
まさか、大学2年生から伝統ある早大野球部のメンバーに入れさせていただいて、神宮球場でプレーをするということは、全く大学に入る前までは想像もできていなかったので、ありがたいなと思うと同時に、すごく新鮮な感覚があって、初めて大学のベンチに入って、マウンドに立ってという初めての経験がたくさんあったので、大学2年生はいい経験をさせていただいたなという感じです。
――では、3年時の振り返りをお願いします
大学3年生というのは、自分の大学野球のなかで、すごくターニングポイントとなった年だなと思いますね。というのも、やはり監督さんが小宮山監督に代わったタイミングでもあって、大学3年生の時から自分の中でもリーグ戦に対して自信を持って臨めるようになったというか、技術的、身体的な成長が大学3年生で一番あったかなと思っています。その要因にはもちろん髙橋前監督(広、昭52教卒=愛媛・西条)の指導もありましたけど、小宮山監督の技術的指導というところは、自分の中で大きな刺激となって、その成長の原動力となったのは間違いないことなので、そういう意味で大学3年生というのは、自分の大学野球の中で飛躍の年だったかなと思います。
――小宮山監督の技術的指導というお話がありましたが、具体的にはどのような指導でしたか
僕のフォームというのは、ずっと踏み出す足がインステップしてしまう癖がありました。普通のピッチャーは投げたい方向に対して真っすぐ体重移動をしていくのが一般的なのですが、自分はインステップをしているせいで、普通の人がやらなくてもいいような力の方向の調整をしなくてはならないということがあり、制球力や力をどれだけ効率的にボールに伝えるかという部分がうまくできていませんでした。小宮山監督が就任されてからインステップを直そうかという話になって、それ以来色々な方法を使って、小宮山監督と一緒にインステップを直しました。その結果、感覚や球筋が変わって、球速も伸びていき、自分の中ではピッチング内容が成長していったという実感を持つことができました。そういう意味では、インステップの改善というところが大きいと思います。
――小宮山監督から今まで言われた中で、一番印象に残っている言葉はありますか
これは一番、自分の中で心に残っている言葉があります。何度も対談で言っている明大戦(昨年春季リーグ戦、第2戦目)の和田選手に打たれた逆転ホームランの試合を機に、すごくメンタルもボロボロだし、本当に次リーグ戦で投げることが怖いと思っていた時期があって。その試合の後の練習中に監督さんから一対一で呼ばれた時があって、その時に「次の試合も頼むぞ」という風に言ってくれました。一見、何気ない一言なのですが、どん底にいた自分にとってはすごく救いの言葉になって、それがその後のリーグ戦での投球の原動力というか、その言葉が自分の心を奮い立たせて、めちゃくちゃに意識を変えてやって、抑えられるようになったということがあったので、自分の中で一番心に残っています。
――ここまでの野球人生を総括して、一言でお願いします
総括すると…。『伸び代』かなと思います。小・中・高・大と野球人生を過ごしてきましたが、各節目に周りからも「これから伸びる選手だ」みたいな言い方をされてきましたし、自分の中でもここまで野球を続けてきたのは、自分で伸び代を感じていたからだと思いますし、そういう意味ではずっと『伸び代』がキーワードとなって、またそれが原動力となって、野球をずっと続けてきたかなと思います。
――今後は就職されると思うのですが、今まで野球を通した経験を、今後はどのように生かしていきたいですか
これまで、特に高校時代に先程述べたように、専門的な指導者がいなくて、自分で考えないと成長できないような環境で野球をさせていただきましたし、大学でも自立が求められる環境の中で野球をやってきました。社会に出て生かせる部分では、自分で考えて物事をいい方向に進めていくか、自分自身の成長につなげていくかというところを試行錯誤し続けるということは、野球を通して学んだことでもありますし、社会に出ても生かしていきたい部分でもあると思います。
――それでは、早大野球部に入って良かったと思うことは何でしょうか
いくつもありますが、絞って言うなら、すごくいい仲間に巡り合えたことと、リーグ戦の経験は貴重でしたが、特に早慶戦のあの大観衆の中でやる野球というのは、大学生活を振り返って本当に心に残っているものが、その2つかなと思います。
――今、仲間という言葉もありましたが、今の4年生はどのような代ですか
4年生全員で一つの方向に向くことができているということが、今のリーグ戦の好成績にもつながっている部分だと思いますし、それがベンチや練習の雰囲気の良さにつながっていると思います。自分たちの代は、誰も欠けることなく、全員が同じ方向を向いて、全員で一緒の歩幅で歩けている印象が自分の中ではあって、本当にこの代で良かったなと思いますし、下級生を含めてですが、今でも自分たちの代というのは、大好きだなと思える仲間だと思います。
――その団結力の要因は何でしょうか
どうだろうな…。個性溢れる人がたくさんいる中で、それぞれがその個性を認め合えるような心の広さ、器の大きい人間だからみんなが認め合って、異なる個性が一つとなって、大きな力になっているのかなと思うので、そういうみんなの心の広さと個性の強さが掛け合わさって、今の団結力が生まれているのではないかなと思います。
「覚悟を持って」
立大2回戦で三振を奪い、ガッツポーズする柴田
――ここからは早慶戦に向けたお話を伺いたいと思います。現在、早大は慶大と優勝争いをしていますが、この位置につくことができている要因は何だと思いますか
今、チームの状態としてもすごくいいのではないかなと思っていて、守備でも失策も少ないですし、ピッチャーとしても早川(隆久主将、スポ4=千葉・木更津総合)を中心に失点を少なくできている部分もあると思います。攻撃の部分でも、チームで徹底していることはアグレッシブに、積極的に攻撃していこうということで、それを打者陣が体現できているからこそ、大事なところでの一本や、ここで一点欲しいという時に取れています。積極性という部分とピッチャーを中心として守備で失点を少なくできているという点が、今のポジションにいる要因だと思います。
――今のベンチの様子はどうですか
雰囲気としては非常にいいなと思っていて、やはり春のリーグ戦で応援が全くないない中、ベンチの声しか聞こえない、ベンチの声が唯一の声となって選手に届くという状況で野球をしていたからということもあります。自分たちの代は2年生の時のフレッシュリーグから、ベンチの雰囲気はたぶん他の代よりもいいのではないかなと思えています。自分たちの取り柄という部分は、そのムード、雰囲気と言えるぐらい自分たちは自覚していると思うので、自分たちの強みがちゃんと出ているベンチだと思います。それが、自分たちの代のカラーが下級生に伝わって、いい雰囲気、声が出ているのではないかなと思います。
――柴田選手が個人的にベンチで意識していることはありますか
自分は投げるとすれば、試合の後半になってくるので、試合の前半はベンチワークや、フィールド内で戦っている選手たちに対して声掛けをするということを心掛けています。試合前半は声を大きく、選手たちになるべく色々な声を届けられるようにということを意識しています。
――早慶戦を控えての心境はいかがですか
自分たちが初めて経験する、優勝が懸かった早慶戦というすごくスペシャルな早慶戦を控えているので、高揚感を感じています。最後を有終の美で飾るという意味でも、絶対に勝ちたいなと、勝ちにこだわってやっていきたいなという心境です。
――早慶戦に向けて、現在はどのような調整を行っていますか
先程言ったような、マウンドに対しての下半身の使い方や、あとは体重移動の感覚を確かめながら調整をしているということもありますし、この空き週の期間は、自分の中では少し身体的に追い込んで、次の早慶戦に向けての一週間というところで調整をしようという感じです。今はメニューの強度をいつもより少し上げて、身体に刺激を入れているような状況です。
――慶大で特に意識しているバッターがいらっしゃれば、教えてください
強いて言うなら、瀬戸西(純主将、4年)かなと思います。早慶戦に強いイメージがありますし、チャンスで出てくると一番嫌なバッターという印象があるので、自分の中では瀬戸西はマークしていかなくてはいけない選手かなと思います。
――最後に、早慶戦に向けての意気込みをお願いします
勝てば優勝という早慶戦は自分たちも初めて経験することですし、とにかく勝つしかないと思うので、チーム全員で勝ちにこだわって、勝ちに執着心を持ってがむしゃらにやっていきたいと思います。個人的には、最後に有終の美を飾るためにも、チームの勝利のために自分がしっかりと抑えて。どういう場面で出るかはわからないですが、絶対に0で抑える、チームに勢いを持たせるということは、覚悟を持ってこの早慶戦に臨みたいと思います。
――ありがとうございました!
(取材・編集 石黒篤乃)
◆柴田迅(しばた・じん)
1998(平10)年6月2日生まれ。177センチ、77キロ。東京・早大学院出身。社会科学部4年。投手。右打ち。同期のことを語るときは特に熱を込めていらっしゃった柴田選手。全員で一丸となって進んできた、この4年間への思いを込めたピッチングに注目です。