破顔一笑
その選手はいつもコートの中央にいた。誰よりも声を出し、誰よりも笑顔で。その選手は、天真らんまんな姿に加え、仲間に対しての気配りを欠かさない。その姿から全幅の信頼を置かれ、早大女子バレーボール部の主将となった。その人物こそ芹澤友希(スポ=茨城・土浦日大)だ。高校時代の淡青色のユニフォームから打って変わり、エンジを身にまとった司令塔が見た大学バレーの景色は、一体どんな色合いだったのか。
そもそも友達の誘いから芹澤のバレーボール人生の幕が上がった。そこから見る見る頭角を現す。高校時代には「毎日が辛かった」と振り返るほどの練習をこなし、大学でも主戦力として渡り合える技量の基盤を作り上げた。その確固たる自信、実力からセッターとしての「色」を確立した芹澤は、ワセダのスポーツ推薦枠を勝ち取り、満を持して早大バレー部の門戸を叩いた。
さらなる活躍を誓い進んだ世界。しかし、その先に待っていたのはワセダという伝統色に染まった、レベルの高いバレーだった。高校とは違い自分で考えていかなければならない。高校と大学の違いになかなか順応できず、一年時から活躍が期待された芹澤だが、先輩の活躍を見るだけの日々が続く。そして、学年が上がり、プレーをする機会が与えられるも、思うようにいかない。自分のプレー、「色」というものを忘れてしまったのだ。その現状に責任感の強い芹澤は思い悩む。悩んだ末に出た答え、それはアタッカーが求める「色」に芹澤自身が染まることだった。アタッカーにとって最も打ちやすいトスはどういうトスか。それを探求するために、選手同士のコミュニケーションに力を入れた。自分の理想とアタッカーのそれとを照らし合わせる日々。その積み重ねが、いつしかセッターとしての自信へと変わっていった。気付けば、最も苦戦していた主体的に考える力の会得をも実感していた。芹澤はワセダのバレーボールに完全に順応したのだ。
3年の秋季関東大学リーグ戦、ワセダは2季ぶりの2部降格という屈辱を味わった。チームが未来を見据え練習に励む中、チームの主将として中心にいたのは芹澤だった。ワセダの色に染まる立場からワセダを染め上げる立場へ変わった芹澤。しかし、そこで意識したのは、自分が率先して引っ張るのではなく、同期、後輩の力を借りてチームをまとめることだった。積極的にチームを盛り上げる声を出し、試合中も各選手との会話を増やしていく。それがチームを一層明るくする潤滑油となり、チームは見事に春季関東大学リーグ戦での1部復活を遂げる。まさにこれまでの努力が結果となり、ワセダの歴史に「色」を添えた瞬間だった。チームの士気は高まり、厳しい練習に励んだ夏。チームとして自信を持ち、1部での戦いに臨んだ。
苦悩の末、チームの司令塔であり続けた芹澤
しかし、現役最後となる秋季関東大学リーグ戦が芹澤にとって最も辛いものとなる。確かに自信はあった。だが、結果が出ない。それが焦りとなり、不安となり、チームは負のスパイラルから抜け出せなくなっていた。最終戦を終え、残った結果は0勝。2部との入れ替え戦に進むこととなった。そんな中、芹澤によみがえるのは、昨年の忌まわしい記憶だ。後輩たちにあの悔しさをもう一度味わわせるわけにはいかない。その思いはプレー、そして周りを鼓舞する言葉へと変わり、見る見るチームは本来の「色」を取り戻す。フルセットの末につかんだ勝利。その時コート内の芹澤にあったのは、大学生活において、最も険しいいばらの道を乗り越えた先の満開の笑顔だった。
高校時代との環境の変化に加え、監督の度重なる交代に不安を抱えながら、もがき続けた大学生活。この期間を通して芹澤は、様々な「色」に染まった。しかし、染まらなかったものがある。それはプレー中にも垣間見える、人を幸せにする笑顔だ。その笑顔は、選手全員がのびのびとプレーできる環境を作り出し、また、辛い時にはチームの行く末を照らし出す道標ともなった。この笑顔なしでは芹澤は語れないだろう。そんな笑顔を振りまきながら、後輩、そして同期への感謝を話し、芹澤は新たな世界への扉を今開く。たとえ進んだ世界が淀んでいても心配はない。そこに芹澤の笑顔が煌々たる色彩を加えるのだから。
(記事 遠藤伶、写真 吉澤奈生氏)