『令和2年度卒業記念特集』番外編 第2回 田中優之介×本多映好(3/27)

庭球男子

 対談第2回は、1年生時から主力として活躍した田中優之介(スポ4=埼玉・秀明英光)と本多映好(社4=岩手)が登場。寮生として活動を共にしてきたお二人の歩んできた4年間とは。これまでのテニス人生とは。早稲田大学での生活を中心に振り返り、語ってもらった!

「4年間鍛え直す」

――早慶戦を終えてからは、どのように過ごされていますか

本多 引退をきっかけにバイトを始めたのでバイトをしているのと。世の中の情勢にしっかりと従って、安全に遊ぶことを心掛けています。

田中 昨日まで卒論に追われていました。たまにテニスし、たまにバイトしています。あとはずっと卒論をするという過酷な2、3週間でした。

本多 お疲れした!!(笑)

――テニス部を引退してから、何が一番変わりましたか

本多 やはりテニスがないことですね。毎日決まった時間に部室へ行かなくなった。自分の時間が増えた分できることも増えたと思うのですが、寝てる時間も多く、もったいないなと感じます。

田中 夜に携帯をいじらなくなった。明日の予定とか、後輩からの連絡がなくなったので、気楽に夜はゲームができます(笑)

――お二人は、どのような経緯で早稲田進学を決めたのですか

本多 上位レベルの大学の部活に所属し、テニスがしたいなと思っていました。あまり声が掛かってないのもあり、自分で挑戦できる早稲田しか選択肢がなかったです。それで入れたので結果オーライだと思っています。

田中 高校までずっとプロを目指していました。高2、高3に進路をどうするかを迷った時に…。迷うということはプロになる決断ができていないと考え、4年間鍛え直すという部分で選びました。その中で一番伝統もあって強い、そしてプロを多く輩出している早稲田に行こうと思いました。

――プロの世界をどのように見ていましたか

田中 (当時は)海外のITFジュニアにいっぱい行ってて、今の世界ランキング20位くらいの選手とも2、3人対戦したことがあります。プロになる選手をジュニア時代から見て凄いなと思ってきました。高校までやって諦めたくなかったので、4年間早稲田を選びました。

――どのような個人目標を立てて、早稲田に入りましたか

本多 インカレで上位に行きたいな、団体戦に出たいなと思っていました。田中が世界に出て思ったことを、自分は大学に来て同じことを思いました(笑)。上には上がいるなと思いました。

田中 高校まで個人戦しかやっておらず。高3の時に早稲田に行くと決め、初めて王座(全日本大学対抗王座決定試合)を有明に見に行きました。応援もたくさんいて凄いなと感じました。来年は絶対ここに個人戦、団体戦に出ると決めていました。表彰式も見ていたのですが、MVPにも選ばれたいなと思っていたのですが、4年間選ばれることなく終わりました。

本多 最後はワンチャンあったと思うよ。

田中 あったね。1年目と2年目も全勝したけど、他に全勝した人がいたから。3年目も早慶戦で勝ったとしても島袋さんがいたので、番手的に無理でしたね(笑)

本多 出来レースだったね。

田中 出来レースだね(笑)

――入学した当初、早稲田の環境をどのように感じましたか

本多 周りに自分より強い人しかいないのが、1番大きく変わった点でした。今までは自分が引っ張っる立場で、プレーもそれ以外も仕切るのが高校時代でした。自分で選んだ道ではあるのですが、それが全部逆転したのが大きかったなと思いました。そこには苦労したと今でも思います。

田中 練習面に関しては周りに強い人が多く、ビックネームだらけでした。ピリピリした雰囲気で練習ができて、ミスをしたらやばいという環境でした。その点で集中してできたと感じます。高校とは違い、相手が1回戦から強いと感じました。高校までは1、2回戦は力を少し抜いても大丈夫だったのですが、大学は最初から全力でやらないといけなかったのがあります。周りを見て、うまいなとは思いました。

「自分たちの代で優勝したい」

昨年の早慶戦のダブルス2に出場し、木元と手を組み合う田中

――王座には1年生から出られていましたが、どのような大会でしたか

田中 その年はインカレ(全日本学生選手権)で早稲田がベスト8に7人入った年でした。ダブルスも優勝者を出していました。1年生の自分からしたら、インカレベスト8の人がシングルス6に入っているので負けないだろうなと思っていました。団体戦と個人戦の違い、恐ろしさを感じました。準決勝で関西大学と対戦した時も、ダブルスが1-2、シングルスは王手までかけられました。負けてしまうと思ったのですが、そこで感じたのは『底力』でした。日頃から練習をしてきているので、相手が足をつる場面でも自分達は足をつらずに勝ったりとか。きつい練習をしたら報われんだと感じました。

――同期が1年生から団体戦に出ていましたが

本多 かっこよかったですよ。

田中 あざす!

本多 誇らしいなと思っていました。出てないですけど、緊張感は出てないなりに感じていました。その中で、どうしてすごいプレーが出るのかと常々思っていました。あの緊張感の中でできる選手たちの心臓はどうなっていることやら、素晴らしいなと思っていました。

――(2年生代が中心となって活躍した)2年時の団体戦を振り返ると

田中 2年生、3年生と、シングルスで自分達の代が中心となって出ることが多かったです。先輩でも後輩でも頑張っている姿を見ると頑張れるのですが、隣のコートで同期が頑張っているのを見てると鼓舞される部分はありました。あと応援も同期が多かったので、チームとしては当然戦うのですが、同期の絆でなおさら頑張れたかなと思います。

本多 全面並んだのって3年だっけ?

田中 そうだね。3年だね。

本多 やはり同期の試合は見たいなと思います。風哉(木元、社4=埼玉・早大本庄)と颯大(藤井、スポ4=京都・同志社国際)がメンバーに入って、試合に出てくれて。個人的な話になるのですが、1年生の頃から樋口(廣太郎、スポ4=福岡・柳川)との4人で一緒に自主練習をしてきたから。その時からレベルの違いは感じたのですが、戦績にはトントンみたいなところがあったのですが。もうそんなところにいってるなという感覚でした(笑)。やっぱ違ったなあと(笑)

――連覇が続く中で最上級生となりましたが

本多 代替わりした直後はやっぱりモチベが高かったです。代としてはふざけた感じで、このまま4年生になったらやばくないという危機感はありました。部の方針を皆でめっちゃ考えました。風哉、優之介、廣太郎を中心に、4年生として部を引っ張っていこうと話していました。無理にでも頑張ろうと思っていました。

田中 ふざけた代ってのは、自分はそんなこと思っていなく。僕は一人真面目にやっていたので(笑)。まあ代替わりした時は…。1年生で優勝した時も、2年生で優勝した時も、3年生で優勝した時もうれしかったのですが。自分のイメージには4年生が最後のミーティングで泣いている姿がありました。どの学年で優勝するよりも、4年で優勝する時の方がうれしいだろうなと思っていたので、自分たちの代で優勝したいという思いはめちゃくちゃありました。今年できなくなって仕方なかったですが、早慶戦で味わえたので良かったかなと思います。

――個人戦の戦いを振り返ると

本多 1年目にダブルスで佐藤(祥次、令元スポ卒=大分舞鶴)先輩と組ませてもらい、インカレでベスト16。いや32かな?。そこで勝ってキタキタと思っていましたが、そこからは3年の時にインカレ出たなくらいです。

田中 シングルスもダブルスも全国大会優勝できたので良かったです!『優勝』したって事実だけ!!皆忘れていると思うけど(笑)

――個人戦ではどの程度満足いく結果を残せましたか

田中 満足度でいったら10段階評価で4くらいです。理由としては戦績が落ちていった部分があったからです。もっといけると思っていたのですが、無理でした。満足はできなかったです。1年時だけの結果を見ると満足なのですが。比べてしまう自分が悪いのですが、2年からの結果を見ると落ち込みますね。満足はできないですね。

本多 僕も満足はしてないです。結果をそこまで出すことができなかったですし、もう少しいきたいとモヤモヤしている時期があったので。まあそんなもんだったかなと思います。

――成長を感じる同期はいましたか

本多 僕は木元です。テニスもですが、人として成長したなと。めっちゃ上からですが、同期ながらに思いました。主将になったのもあるのですが。元々は主将できる人でなかったのですが、主将になってからは凄い努力をしていました。最初は人前でも今大丈夫かなと気にしていたのですが、最後は堂々と皆を引っ張っている部分が見られたので、一番成長してる気がしました。

田中 同じで!僕が上から目線で言える人はいないので(笑)

本多 上からみたいになっちゃうから言ってよ!(笑)。質問がそうだったじゃん。

田中 僕も風哉って言おうとしたので、はい(笑)

本多 俺だけ上から言ってるみたいになっちゃったじゃん!

田中 俺も同じだがら(笑)

――コロナの自粛期間はどのように過ごされていましたか

本多 ずっと寮いた?

田中 うん。1人でゲームしたりしていました。

本多 ずっと寝てましたね(笑)

――気持ち的には下がった部分が大きかったですか

本多 そうですね、下がっちゃいましたね。

田中 下がってたんですけど。立場的にもやらないといけない立場だったので頑張りました!(笑)

――早慶対抗試合(早慶戦)が行われると決まった当初は、どのようなことを思いましたか

本多 お、まじかと思いました。

田中 引退伸びたと思いました(笑)

本多 決まった時はそんな感じです!

田中 間違いないです(笑)

本多 やる方向で進んでるなと。

田中 出し切りたいって周りは言ってたのですが。出し切っただろ俺らとも思いました(笑)

本多 もうやる気出ないよって(笑)

田中 そんな出てこないよって(笑)

――早慶戦を振り返ると

本多 開催できて良かったなと。今となっては開催できるように動いてくれた人に感謝しかないです。

田中 勝ち納めできたので良かったです。それに尽きます!勝ったからやって良かったと言えるんです(笑)。今年慶應が強かったので、もし負けたらなんでやったんだよと気分になってたかもしれないです。負けなくて本当に良かったと思います(笑)

「山で始まって谷で終わった」

2019年の関東学生新進選手権にて、佐藤と抱き合う本多

――早稲田での4年間はどのようなものでしたか

田中 他では経験できないことができました。違う道を選んでたら、どうなっていたんだろうと思うことはあるのですが…。結局楽しいことや成長したことがいっぱいあったので入って良かったです。プラスの面がいっぱいあった大学生活でした。

本多 振り返ると、楽しい思い出がたくさんあります。1番は面白い同期に恵まれて楽しく過ごせました。先輩や後輩も尊敬できる人が多くいたので、いい人たちに恵まれたなと。どこの大学に行っても同じことを思ったかもしれないですが、そのように思う部分はありました。テニスの部分では苦しむことが多かったのですが、そういうのは一回忘れ(笑)。いい人に出会えて楽しかったことだけしか、今は頭の中に残してないです。

――今一番感謝したいのは誰ですか

田中 パパ、ママ!(笑)

本多 それが正解なんだと思う(笑)

田中 それが鉄板なんだけど。

本多 パパ、ママありがとうって書いといてください(笑)。それ前提の上でにしますか?

――それ前提にした上ではどうですか

本多 同期ですね。いなかったら、ましで駄目だったので。

田中 僕も同期はもちろんなのですが。正直1年目に辛いことがあったときに、同じ寮の先輩が励ましてくれたり、馬鹿して笑わしてくれたので、その先輩方には感謝したいです。名前を書いてしまうと調子に乗ってしまうので(笑)

本多 坂井さんでしょ(笑)

田中 そんなことないかもよ。分からんよ(笑)

――卒業後は、テニスとあまり関わらなくなるのでしょうか

本多 僕はそうです。

田中 関わります。

――どのような形で関わるのでしょうか

田中 日本リーグに年に2回出るくらいです。

――どのようなテニス人生でしたか

本多 山で始まって、谷で終わったみたいなテニス人生ですね。

田中 は?

本多 伝わんない?

田中 伝わるけど、俺が思ってたのと違う。

本多 じゃあ説明を入れると。地元でたくさん勝っていましたし、井の中の蛙的なところがありました。最後関東に出てきて、自分の鼻をへし折られたなということで、谷で終わってしまったと思います。

田中 諦めが肝心だなと学んだ人生でした。後悔しても意味がないと。人生の教科書です(笑)

本多 全然説明してないね(笑)

田中 さっきまでの話があれば分かるから。

本多 それまでの話があればね(笑)

――最後に16連覇を目指す後輩にメッセージをお願いします

本多 是非とも16連覇をしていただきたい。結果も大事ですが、それに囚われすぎるとアップアップになるところもあると思います。王座連覇と言っても、その代ではただの一勝なので。数字が大きくなると、どんどんプレッシャーがかかってしまうと思うので、その代で勝ちたいと思ってくれればいいなと。

田中 いいことを言ってくれたので、僕は一言でまとめます。強くて頼りがいのあるかっこいい先輩がいなくて悲しいと思うけど頑張れ!☺︎☺︎☺︎

本多 それは間違いない(笑)

――ありがとうございました!

(取材・編集 大島悠希氏)