【連載】『令和2年度卒業記念特集』第41回 宮川隼/応援部

応援

「人」に支えられて

 2020年11月8日、夜の早稲田。街は早稲田祭の余韻もあり、人こそ少なかったが静かな活気を帯びていた。商店街の柱には「優勝」の張り紙。数時間前、もう一つの「祭」も幕を閉じたばかりだ。5年ぶりに行われる野球優勝報告会の会場にはもちろん宮川隼(人=千葉・稲毛)の姿もあった。野球部に「コロナでかわいそうな代ではなくて、優勝した最高の代にしてくれてありがとう」そう話す宮川は当時、応援部代表委員主将、新人監督、東京六大学応援団連盟委員長の名を背負っていた。創部80周年、連盟当番校、朝ドラ『エール』の注目、相当なプレッシャーを背負う中、年間目標に「愛」を掲げ、「人」を大切にし続けた宮川は、応援部人生の4年目を最高の形で締めくくった。

 千葉県出身の宮川の高校時代は部活のラグビー一本であったが、小・中学校で応援団をした経験が忘れられず、早稲田に入ったら応援部に入部しようと決めていた。新歓では「他のサークルも迷っているふりをしていた」と少し警戒もしていたが、その時4年生の田路新太郎氏(平30商卒)や一つ上の清水泰貴氏(令2・文構卒)ら先輩たちの人柄に触れ、入部への迷いは消えたという。この田路氏との出会いは宮川の応援部人生に大きな影響を与えることとなる。入部してからは予想していたトレーニング量の多さよりも礼儀作法などに驚いたという。新人として初めての東京六大学野球リーグ戦(リーグ戦)を終えた頃、自分も4年になってあの指揮台に上がりたい、という憧れが芽生えてきた。しかし、苦しい時期は意外にも早くやってくる。年末に部員昇格を終え、太鼓の練習をしていた大学入試期間。自身が筆頭を務めていたにもかかわらず、最初に怪我をしてしまう。同期に注意をしようにも、やってない自分では説得力がない、と悩む日々が続いた。

  そして迎えた新歓期、宮川が先輩たちと同じように振る舞えたかというと、そんなことはなかった。「自分に自信がないのになぜ新入生に応援部の良さを伝えているのか」。退部したいという後輩を引き留めている時、自分の方が辞めたいのにと思ったこともあったそうだ。そんな時宮川の心の支えとなったのは、心配してくれた田路氏、自分を送り出してくれている両親への思いだった。「ここまでやらせてもらってきた。ここでやめたら申し訳が立たない」。2年生の夏合宿を終える頃には、続けることへの迷いはなくなっていた。

宮川(中央)を囲む新人監督補佐の二人(当時)と新人

 応援部では、3年生になると〇〇補佐という役職に就き、様々な業務を行う。宮川は前期、新人監督補佐という主に新歓を担当する補佐役職であったが、当初は希望していなかったという。上級生から新人監督補佐をやる気はないか、と問われた時も「自分は口下手なので向いていないと思います」と断っていた。しかし結果的に、新人監督補佐に就いたことが後の主将としての考え方の軸を作ることにもなった。「新入生を応援部に勧誘することは、その人の人生を大きく変えるほどのこと。だからこそ自分自身が一番しっかりしなくては」と考えるようになったという。自分の人生をも変えた、というほどに思い入れの強かった役職であった。

 結果的に兼任することになるが、4年生になる直前、「新人監督と主将、お前にとってどっちが大事だ」と選択を迫られることになる。宮川は主将を選んだ。その理由は「吹奏楽団の後輩が辞めそうになっているのを説得した時、新人監督として新人のことも見たいけど、主将として全パート全部員を見て、人と関わっていきたいという気持ちに切り替わった」と話す。そして代交代を迎え、「代表委員主将・新人監督・連盟委員長宮川隼」が誕生した。

 正月の箱根駅伝応援を終え、新体制で動き出した矢先であった。新型コロナウイルスの猛威は応援部にも例外なく降りかかった。春合宿や新歓が中止になり、春季リーグ戦の開幕も危うくなった。「3年間苦労してきて、ようやくって時だったのに。終わっちゃったな」一時はそう考えたというが、六大学(応援団連盟)の代表として「俺がやるしかない」。六大全員分の思いを背負う気持ちで、リーグ戦開幕の実現に向けて動き出した。春季リーグは異例の真夏に行われ、秋季リーグ戦が続けてやってくる形となった。応援は人数を100人に制限して、外野席で行われた。初めての試みに全員が戸惑う中、連盟委員長として規則を作ることから行っていた宮川は冷静だった。最終戦では観客の動員数も増えるため、応援の人数制限も150人まで拡大し、早慶戦では全部員による応援を実現させた。

応援席を奮い起たせた

 同じ千葉県出身の野球部・早川隆久主将(スポ4=千葉。木更津総合)については「高校の頃から見ていたスーパースターではあったが、彼らと一緒に戦うという意識を持つことで自分を追い込むモチベーションになった」と語った。早慶戦初日、勝利した直後のインタビューに宮川は「傲慢ですが、勝つつもりでいた」と答えている。今年は勝つ、という雰囲気を肌でも感じていたそうだ。そして迎えた最終戦、9回の表で1点ビハインド2アウトの応援席にて宮川は「ここまでやったらなんとしてでも勝つ」とがむしゃらにコンバットマーチを突いていた。その気持ちは周りの部員にも伝わり、応援の力があると言うならば、蛭間拓哉選手(スポ2=埼玉・浦和学院)が打ち上げた打球にも伝わった。宮川の視界からは、慶應側応援席が優勝の紙テープを飛ばそうとしているのが目に入り、一瞬「これで終わったのか」と思った。直後、悲鳴と大歓声で逆転本塁打が入ったと分かった。宮川は応援席にいる全員がどんな表情をしているか、しっかりと見ながら『紺碧の空』のテクを振っていた。「全員が明るい顔をしていた。まるで桃源郷だった」とその場面を鮮明に語った。

 応援の力、応援の意味を考え直すことは応援部員にとっては日常だ。宮川も何度も考えたという。しかしこの4年間、その迷いを吹き飛ばすような光景も、同じぐらい見てきた。「色んな人が、それぞれの答えを見つけるもので、正解はない」。「その力があるからこそ、応援部は今まで続いてきただろうし、これからも何年でも続くと思う。」最後に、宮川にとって応援部とは、どんな存在だったか聞いた。「人と人をつなぐ存在。自分が応援部で一番学び得たことも、人の大切さだった」。この4年間に未練はない、と力強く答えてくれた。

(記事、写真 市原健)