【連載】『令和4年度卒業記念特集』第26回 島谷侃/レスリング

レスリング

山あり谷あり

 「山あり谷あり」。レスリング部主将を務めた島谷侃(スポ=秋田商)は、早大での4年間をこう表現した。ケガに苦しんだり、試合でなかなか結果が出せなかったりするなど、「うまくいかないことの方が多かった」という4年間。それでも、それらの苦境をいかに突破し、いかに成長してきたのか。島谷の競技人生を振り返る。

東日本学生リーグ戦の山梨学院大戦で相手と組み合う島谷

 競技経験のある父の影響で、自分で意識する前にレスリングを始めていたという島谷。成績を残すことができなかったこともあり、レスリングは中学生までで辞めようと考えていた。しかし、2歳年上の兄が通っていたという理由と、その高校の先輩の活躍する姿を見て、実家のある千葉県から離れ、秋田商高に入学することを決める。高校2年時には、JOCジュニアオリンピックカップで優勝し、世界大会に出場するなど、着実に力を付けていった。そして、高校の先輩が在籍していたことと、自分が成長できる環境という理由から、早大への進学を決める。

 全国でトップレベルの選手が集まる早大レスリング部。入学したばかりの島谷は、早くも壁にぶつかることになる。練習では、先輩に歯が立たず、大学のレベルの高さを目の当たりにする。さらに、膝をケガしたことによって、約半年間マットに上がることができず、歯がゆい思いをする。ケガを乗り越え臨んだ東日本学生選手権(秋季)新人戦。ここで島谷は優勝を果たし、「ケガをしたが、早稲田に入って強くなることができたっていうのを実感できた」試合となり、この復帰は、4年間の中で最も印象深い出来事となった。

 2年の1年間は、新型コロナウイルスに翻弄(ほんろう)された1年となる。3月末から6月の初めまでは全体での練習ができなかったため、自宅で体力トレーニングをすることしかできなかった。また。6月に練習が再開してからも、部員に感染者が出るたびに練習ができなくなり、数多くの制限がある中での活動となった。徐々に大会も開催できるようになり、11月に行われた全日本大学選手権。ここで島谷は3位になったが、自身が勝っていれば団体で優勝できる可能性もあったため、「すごい悔しい」と振り返った。

 「今度こそは優勝しよう」という強い気持ちで臨んだ3年の全日本学生選手権。しかしながら、1年生を相手に初戦敗退という結果に終わり、またしても悔しい思いをする。また、東日本学生選手権(秋季)には、57キロ級から61キロ級に階級を一つ上げて挑戦した。これは、減量によるコンディション面の不安を考慮した上での決断であり、この先も61キロ級で戦っていくための試金石となる試合だったが、「61(キロ級)ではまだ通用しない」と力不足を実感する試合となった。

 最終学年を迎え、島谷は主将に就任。主将という肩書きにプレッシャーもあったというが、「レスリング人生最後の年」と決めていたため、「悔いのない1年にしよう」という思いで臨んだ。数多くの大会に出場した島谷だったが、この1年で最も印象に残っていると語ったのが、3年ぶりの開催となった東日本学生リーグ戦だ。この試合は大学ごとの団体戦であり、普段の個人戦とは異なり、試合の勝ち負けによる喜びや悔しさをチームメートと共有できたからだという。また、前年に階級を上げたこともあり、個人としては1年を通して満足のいく結果を残せなかった島谷だったが、11月に行われた東日本学生選手権(秋季)で執念を見せる。負ければ引退、勝てば天皇杯全日本選手権への初出場が決まるという状況で迎えた東日本学生選手権(秋季)決勝。この試合で島谷は接戦を制し、見事優勝。天皇杯全日本選手権への切符を手にしたのだった。チームメートも、応援や作戦面などで島谷を支援し、全員の力でつかみ取ったこの一勝。島谷は、「仲間に恵まれた」と言うが、島谷の人柄や普段の行動に対する、チームメートの気持ちの表れだった。

東日本学生選手権(秋季)の決勝に臨む島谷

 「山あり谷あり」と総括したように、苦しんだことが多かったが、その分試合に勝った時の喜びは大きく、早大でしかできない経験もできたため、「早稲田で良かった」と笑顔を見せた島谷。大学卒業と共に競技からは離れるが、今後の人生でも、レスリングを通して培った試行錯誤をすることを大切にし、立ちはだかる壁を乗り越えていく。

(記事・写真 齋藤汰朗)