【連載】『令和2年度卒業記念特集』第31回 梅林太朗 / レスリング

レスリング

レスリング人生、生涯現役

 「競技面だけで見たら正直どん底。でも早稲田に入ったからこそ、自分の視野や思考が広がった」。梅林太朗(スポ=東京・エリートアカデミー)は、大けがやコロナ禍の影響で満足にレスリングができない中、レスリング人生における新たな夢を見出した。梅林の長い競技人生をひもときながら、その夢に迫る。

 レスリングとの出会いは19年前にさかのぼる。梅林が3歳の頃、姉が通っていた幼稚園のレスリング教室に通い始めた。だが、ずっとレスリング一筋だったわけではない。小学生時代にはレスリングと並行してラグビーも習い、地元千葉県のラグビーチームでキャプテンを務めるほど力を入れていた。

 中学進学を前にラグビーを続ける意思もあったが、日本レスリング協会から、JOCエリートアカデミー入校、「オリンピック強化選手」の誘いを受けた。梅林は「挑戦できる権利がある。こんなチャンスは二度とない」と、入校を決意。五輪で金メダルを取ることを夢に、レスリング一筋の競技人生をスタートさせた。JOCエリートアカデミーの同級生には2021年の東京五輪代表で世界選手権王者の乙黒拓斗(山梨学院大)らがおり、トップ選手から刺激を受けながらレスリングに打ち込んだ。梅林自身も、全国中学校体育大会(全中)や全国高等学校総合体育大会(インターハイ)で優勝し、東京五輪出場に向けて確かな実績を積み上げていった。

 

けが明けの天皇杯全日本選手権では非五輪階級のフリースタイル79キロ級に出場した梅林。試合前は必ず四股を踏む

 しかし、早大入学後は個人戦で思うような結果を残すことができなかった。まずは学生王者に、それから明治杯全日本選抜選手権(明治杯)や天皇杯全日本選手権(天皇杯)でシニアチャンピオンになる、と段階的な目標を設定していたものの、実際に4年間で手にすることができたタイトルは東日本学生選手権での優勝2回のみ。梅林は勝ち切れなかった最大の要因として「自分自身の甘さ」を挙げたが、もう1点、けがの影響があったことは言うまでもない。

 大学2年生時の冬、2019年2月に梅林は左膝の『前十字じん帯断裂』という大けがを負う。翌月に手術し、競技、試合からの長期離脱を余儀なくされた。東京五輪代表争いが本格化する直前、上り調子で「(代表争いに)絡めたかもしれないのに」。当時は、気持ちが完全に折れてしまい「レスリングをやめてやろうかなと思った」という。しかし、早大レスリング部のチームメイトやJOCエリートアカデミー時代の同級生らが頑張る姿を見ているうちに、もう一度頑張れば五輪の舞台に立てるかもしれない、あの時頑張っていればという後悔だけはしたくない、という思いが募った。梅林は新たに2024年のパリ五輪を見据え、復活に向けて立ち上がった。

 パリ五輪で金メダルを取るために――。ほんの一握りのトップ選手しか海外経験を積むことができない日本で、世界の頂点を目指すことへの限界を感じていた梅林は卒業後、海外を拠点に競技生活を送ることを考えている。長い間、警視庁第六機動隊でレスリングをすることを志してきたというが、大学3年生時の冬にゼミ合宿で訪れたワシントン大学で、現地の学生とレスリングをしたこと、アメリカのスポーツ文化に触れたことが転機となった。決められたレールの上を進むだけではもったいない。次世代のアスリートのためにも、多くの選択肢があることを、経験をもって伝えたいと口にした。

 梅林は2024年のパリ五輪で競技人生に一旦区切りをつける、とすでに決めている。しかし、梅林にとってレスリングは「体に染みついたもの」。そう簡単に競技からは離れらない。第一線から退いた後は、パリ五輪で金メダルに次ぐもう1つの夢として、アメリカの街中で開催されているレスリングイベント『ビート・ザ・ストリート』の日本開催を考えている。日本ではまだマイナーなレスリングの魅力を伝えるためにもやりたいことがたくさんある。選択肢を増やすためにも、まずはパリ五輪で金メダルを取る、それからレスリングの普及活動に力を注ぐ。梅林のビジョンは明確だ。

(記事 鬼頭遥南、写真 林大貴氏)