【連載】『令和3年度卒業記念特集』第47回 橋本美久/女子バレーボール

女子バレーボール

誰よりも1点を喜んだ司令塔

 25点を争い、目まぐるしく展開が移り変わるバレーボール。その競技性とは裏腹に、早大のコートには誰よりも1点を喜び、仲間に声をかけ続ける背番号1がいた。セッターと主将を務めた橋本美久(社=福島・郡山女大付)だ。

 バレーボールを始めたきっかけは、体を強くする目的で小学3年生の頃に参加したスポーツ少年団。様々なポジションを体験する中で、「点数に携わっている感覚が嬉しかった」と、大学まで続けるセッターに魅力を見出した。小学生時代の仲間とともに打ち込んだ中学バレーでは最後の夏、東北大会に出場。その後、進学校も視野にどのように競技を続けるか思案していた時、父からもらった手紙が「人生のターニングポイント」になった。「美久にトスを上げさせてくれるレシーバーと、それを打ち切ってくれるアタッカーがいる高校に進んでほしい」。熱い思いに触れ、続けてきたバレーにより没頭したいという決意を胸に名門・郡山女子大附属高校に進んだ。1年次から頭角を現してコートに立ち、2年生で全日本高等学校選手権大会(春高バレー)ベスト16進出を果たす。しかし、最後の春高バレーでは思うような試合を展開できず、2回戦敗退。打ちひしがれる仲間の中で一人、何もできなかった無力感や自己嫌悪に苛まれた。

 本格的に早大を意識したのは、高校3年の夏だった。監督に背中を押され、部の練習に参加。そこで指導者中心でなく「学生自主」を重んじる土壌、また多様なバックグラウンドを持つ学生が同じ目標に向かう姿に強く惹かれ、自己推薦入試を経て入学した。一つ上の学年は人数が多くコミュニケーションも活発だったが、同期の退部などもあり橋本の学年は学連の坂内歩美(政経=埼玉・早大本庄)とのただ二人に。コートの外から選手とは異なる視点でチームを鼓舞する坂内や、頼りがいのある後輩たちに支えられながら、主将として最後の1年に臨んだ。

コートにできる笑顔の輪の中心には、いつも橋本がいた

 掲げたスローガンは「磨く」。昨年度挑戦の機会すら与えられなかった関東1部リーグ昇格を目指したが、春季関東大学リーグ戦はオープン戦のみの開催となり、またも挑戦権は与えられず。橋本はコーチらとのミーティングでやり場のない感情を吐露した。しかし出口のないトンネルはない。秋季関東大学リーグ戦(秋季リーグ)は2年ぶりに従来に近い形での開催が実現し、1位となった大学の関東1部への自動昇格も決まった。

 迎えた秋季リーグはスターティングメンバーに1年生も多く名を連ね、新しい早大の始まりと橋本にとっての集大成という、二つの意味合いを持つ6試合となった。初戦にストレート勝ちを収め、2戦目にはライベルの桜美林大にフルセットの末勝利。同じく上位を争う敬愛大にはストレートで敗れ昇格に黄信号が灯るも、橋本はエースに頼らないトスワークで、全員で勝つための何かを掴んだ試合だったと語る。その後も一戦ずつチームを磨き、個を磨いた早大。コートの中では声をかけ合い、1点の喜びを共有し合った。その中心にいたのは橋本で、いつでも笑顔を絶やさない姿に後輩らは「美久さんのために勝つ」と口を揃えた。しかし、最終成績は4勝2敗の3位。目標に及ばず悔しさの残る結果となったが、橋本は「チームだな、と思う瞬間が多かった」と成長の足跡を振り返る。

 11月の早慶定期戦は序盤の2セットを下級生のみで戦い、その間ベンチから試合を見つめた橋本。コートの外にあっても、後輩らの取った1点を自分のことのように喜ぶ姿があった。4年間で最後の一戦となった全日本大学選手権の初戦でも、厳しく長いフルセットの戦いの中、最後までその姿勢を貫いた。試合後に父から届いたメッセージには、「とても良い夢を見させてもらいました」の文字。卒業後競技から離れる橋本は、セッターとしての長い学生バレーを終えた。別れの季節もやがて過ぎ去り、春からまた高みを目指す新チームに、橋本の姿はない。しかし後輩たちに根づいた信念は、早大が1点を取るたび私たちにも感じ取れるはずだ。大きな声、笑顔。そして早大は強くなり続けるだろう。「誰かのために」という思い以上に、人を、チームを強くしてくれるものはないのだから。

(記事、写真 平林幹太氏)