主将でエース、体現した『誇り』
バレーボールという競技ではチームが苦しいとき、重圧は主将にのしかかり、トスはエースへと上がる。その重圧を幾度となくはねのけてチームを鼓舞し、数え切れないほどのトスを打ち切ってきたのが、主将でありエースでもあった富澤結花(スポ=東京・文京学院大女)である。
バレーを始めたのは小学校の高学年だったという。その魅力に気付き、強豪校に入りたいという一心で中高一貫校である文京学院大女子中学校に進んだ。整った環境の中で中等部の頃からウイングスパイカー一筋、厳しい練習を積んできた。3年間での最高成績は全国準優勝で、一番になれなかった悔しさを胸に高等部へと進んだ。ここでも目標とする全国優勝には2年間届かなかったが、3年生となって臨んだ全国高等学校総合体育大会(インターハイ)では万全でないチーム状況ながら準優勝。全日本高等学校選手権大会(春の高校バレー)では3位という結果で高校バレーを終えた。はたから見れば十分に輝かしい、誇るべき成績だが、富澤はまたも一番になれなかった苦い思い出だと語る。6年間のバレー漬けの日々を終え、スポーツ推薦を受けて早大へと進学。入学したての頃は、いきなり最低学年となったことや人数の少なさなど、高校時代とのギャップに苦しんだが徐々に順応した。その後、3年生にして当時の4年生の人数で補えなかった副将という役職に就く。しかし気負うことはなく、ただコートの中でできることを全うした。次の主将は自分だという意識はありながらも、のびのびとプレーができた期間だったと振り返る。
力強いスパイクを打ち込み続けた富澤
そして主将としての、大学バレー最後の一年が始まった。『誇り』というスローガンのもとに始動したチームは関東2部春季リーグ戦を5連勝で滑り出すが、優勝を争う相手に勝ち切ることができず3位で終える。よって入替戦に進むことはできず、富澤は最後のシーズンを1部リーグで戦えないことが決まった。最終戦の後、下級生は4年生への申し訳なさから涙していた。富澤はその前で決して泣いたりはせず、気丈に振る舞い、チームメイトから離れた場所で一人涙を流したのだった。その姿が、富澤の目指した主将としての在り方を象徴していたように思える。この試合の後は、いつもその明るさと勢いでチームを引っ張ってきた富澤もしばらく秋季リーグ戦へ気持ちが向かなかったという。だが「私がやりたくなかったらチームメイトはもっとやりたくないはず」と、気合を入れ直して前を向いた。
迎えた大学バレー最後のリーグ戦も容易にはいかなかった。元々の人数が少ないにも関わらずけが人が多く出る状況下、自分たちのやりたいバレーがなかなかできない。それでも富澤は声を出し、スパイクを決め続け、得点の喜びを全身で表現する。するとそれに応えるように全員が苦しみながらもチームのために尽力し、春季リーグ戦で敗れた相手からも勝利を収め、入替戦進出圏内の2位で走り切った。その後の1部との入替戦では1セットを奪いながらも敗れ、またも選手たちの目には涙があったが、富澤は最後の舞台となる全日本大学選手権(全日本インカレ)を見据えていた。
最後の舞台での一戦はまさに激戦の様相を呈した。一回戦でフルセットの末に敗れはしたものの、随所で早大の諦めない姿勢、富澤たちの目指した『誇り』を感じるプレーが観られる試合だった。最後までボールを追い、点数が入れば全員で喜ぶ。第5セットの最後の1点まで、観ている私たちにさえ勝利を諦めさせなかった。試合後、やり切ったという実感からか選手たちの表情にはどこか清々しさがあった。「常に私は一番頑張ろう」という信念の下、一年間主将という立場から来るプレッシャーと戦い続けた富澤にも、いつもの笑顔がはじけた。引退後、富澤はVリーグ2部のルートインホテルズに加入した。早大に進んだことで得た経験や出会い。それらを糧にして、いつかはV1という国内最高峰の舞台であの力強いスパイク、そして全身で喜びを表現する姿が見られることを願ってやまない。
(記事 平林幹太、写真 橋口遼太郎)