【連載】『令和2年度卒業記念特集』第29回 宮浦健人/男子バレーボール

男子バレーボール

悔しい気持ちを原動力に、静かなる闘志燃やす

 宮浦健人(スポ=熊本・鎮西)と言えば『早稲田のエース』『大学ナンバーワンオポジット』。鍛え抜かれた体躯から繰り出されるパワフルなスパイクやジャンプサーブで、チームの全日本大学選手権(全日本インカレ)4連覇に大きく貢献した。これまで数々の輝かしい実績を残してきたものの、負けて悔しい思いをしたことの方が多かった。だが「悔しい気持ちがいつだって自分を成長させてくれた」という。そんな宮浦のバレー人生における悔しさと成長を追った。

 競技を始めたのは、小学校2年生のとき。当時は細身でパワーがなく「スパイクを打っても、家族から『風船アタックだ』と言われるほど下手くそだった」という。後輩がユニフォームをもらえても、自分には与えられなかったこともあった。上手な選手に必死で食らいつき、4年生になってから試合に出場する機会を得た。だがポジションはずっと後衛で、スパイクを打つことはなかった。当時の監督から「お前はエースではない」と言われたほどだった。

 6年生の秋ごろ、父の恩師である鎮西高校の畑野久雄監督から「付属の中学校にバレー部を作るから来ないか」という誘いを受ける。鎮西と言えばバレーボールの名門。その当時のメンバーは全日本高等学校選手権大会(春高)で準優勝した。鎮西高校の練習を見に行き、そのレベルの高さを目の当たりにして、鎮西中学校に行く決意を固めた。入部当初のバレー部はわずか二人だけで、鎮西中学校として試合に出場することすらできなかったが、決して練習を怠ることはなかった。朝6時台に家を出て、電車で片道1時間半ほどかけて通い、夜10時に帰宅するという生活を毎日送っていた。

 高校時代は最もつらかった。1年時には腰椎分離症になり、チームからの離脱を余儀なくされた。2年生になってからはエースを任されるようになるも、自分の実力不足でチームに迷惑をかけることが多かったという。伸び悩む時期が続き「もう辞めたい」と口に出して泣いてしまうほど追い込まれていたが、その悔しさをバネに地道に練習を積み重ねた。その努力の結果、2年時の春高では準優勝。自身の中で最もいい成績を収められた。代替わりをしてからは主将を任せられる。だがこれから優勝に向けて頑張ろうとスタートを切った矢先、熊本地震に遭った。被害が深刻だった熊本市内にある学校の体育館や校舎は損壊。発生から1か月経ちようやく全員で集まって練習できるようになったが、環境は良いと言えるものではなかった。学校の体育館で練習ができないときは、福岡県や佐賀県まで行って体育館を借りたり、学校の運動場で作った『砂場のコート』で練習したりした。やはり他校と比べて練習不足だったこともあり、結果が振るわなかった。『エースで勝つチーム』である鎮西で主将兼エースを務める宮浦は、大きなプレッシャーに襲われた。最後の春高では、初戦で上條レイモンド(スポ3=千葉・習志野)擁する習志野高校と対戦。相手ブロックにマークされていたため、なかなかスパイクが決まらなかった。結果、セットカウント0-2で宮浦の高校バレーは幕を閉じた。もちろん実力不足を環境のせいにはしたくなかった。しかし、どうしても思ってしまう。「他の学校みたいにもっと練習できたらよかったのに」。

 

1年時の秋季リーグ戦からスタメンで出場する宮浦

 その後は早大に進学。高校時代と全く違う環境はとても新鮮だった。その最たるものが、戦術的なバレーだ。24点目でもセンター線を軸に攻めることやリードブロックは、宮浦に組織の一員としてプレーすることの大切さを教えてくれた。2年生になってからは、体づくりへの考え方にも変化が出た。「もっと成長したいという欲が出てきた。自分でたくさん考えた結果、トレーニングをして体を大きくしないといけないと思った」。ストレングス(ウエイトトレーニング)のトレーナーの指導の下、今まで全くしてこなかったウエイトトレーニングを始めるようになる。また、けがの予防の面でコンディショニングのスタッフと、体調管理の面で栄養士と密にコミュニケーションを取り、地道に体づくりに取り組んだ。

 もう一つ、ある変化が宮浦のプレイヤーとしての評価を大きく変えた。サーブだ。2年時まではジャンプフローターサーブのフォームでドライブをかけて打っており、サーブを得点源としているわけではなかった。だが3年生になりジャンプサーブに変えてからは、以前よりも増してサービスエースを連発するように。チームのビッグサーバーへと成長した。このサーブを変えるきっかけとなったのが、2年の冬に参加したアジアU23選手権の合宿であった。この頃から、アンダーカテゴリーでともにプレーしてきた新井雄大(東海大)や都築仁(中大)、西田有志(JTEKT-STINGS)ら同世代の選手がシニアの代表に選出され始め、自分もシニアで戦いたいという思いが強くなっていた。当時チームの監督を務めていたゴーダン・メイフォース氏(現堺ブレイザーズ監督)との個人面談では、シニアでプレーしたいという素直な思いをぶつけ、アドバイスを求めた。当時の宮浦に足りなかったのは、手持ちの武器だった。対戦相手となる海外のオポジットはブロックやスパイク、サーブを武器としている。対して宮浦の得点源はスパイクのみであり、レシーブ力が海外の選手よりも少し勝っているくらいであった。シニアに選出されるということは、日本よりも体格やパワーのある世界のチームを相手にするということ。手持ちの武器が少ないと大きな痛手になる。今後自分が世界で通用するために何を武器とすべきかを考えた結果、サーブという答えにたどり着いた。体づくりに取り組んできた成果が出てきたこともあり、ジャンプサーブに変えてからスピードやパワーが増した。出場するほとんどの大会ではサーブ賞を受賞するように。「サーブは自分の武器だと今では胸を張って言える」。

 

全日本インカレ決勝でサービスエースを決めた宮浦

 4年生になってからは主将を務め、さらに水町泰杜(スポ1=熊本・鎮西)と荒尾怜音(スポ1=熊本・鎮西)ら頼もしい新戦力が加わったため、試合を心待ちにしていた。だが新型コロナウイルスの感染拡大により、大会は相次いで中止に。それでもこの機会を成長につなげるべく、より一層ウエイトトレーニングに励んだ。それは「チーム内で誰よりも頑張っている」と言われるほどであった。そのかいあり、体が大きくなりサーブにも影響が出た。「3年生のときは思いきり打っていたが、4年生になってからはパワーがついて8割程度の力で去年と同じスピードで打てるようになった。かつ、コントロールもできるようになって精度が上がった」。

 10月には秋季関東大学リーグ戦の代替大会が開催されたが、その1週間後に早大が所属する1部リーグのチームでクラスターが発生し、中断を余儀なくされた。特に4年生のショックは大きかった。このままの状況が続けば、全日本インカレすらもできなくなってしまうのではないかという不安があったからだ。だが、宮浦はただ一人、前を向いていた。「悔しい気持ちは確かにあった。でも代替大会が中止になったからといってここで終わるわけじゃない。全日本インカレで最高な形で終わるために、今は頑張らないといけない」。落ち込むチームメイトを言葉で元気づけたわけではなかったが、主将としての強く頼もしい背中を見せることで仲間を鼓舞した。

 万全な感染対策を講じ、何とか大会の開催が決まった。順調に勝ち進み、決勝でも早大が試合の主導権を握る。セットカウント2-0のマッチポイントでは宮浦にサーブが回ってきた。頭をクリアにし、思いきり振り切った。横へ大きく軌道を描いた球ははじかれ、サービスエースに。副将の村山豪(スポ=東京・駿台学園)や中村駿介(スポ=大坂・大塚)ら、この1年間支え合ってきた同期が泣きながら喜んでいる姿を見て、これまでの努力が報われたことをしみじみと感じた。

  早大卒業後はVリーグのJTEKT-STINGS(Division1)への入団が決まっている。小学生の頃の自分は、ここまで上り詰めることができると思わなかったという。やっと憧れの舞台に立てる。そこには日本代表のオポジットとして活躍している西田有志も在籍している。高校時代の世代別日本代表の試合で、宮浦は常にスタメン入りしたのに対して、西田は控え選手であり、代表入りすら逃したこともあった。だが西田が高校卒業後Vリーグに進んでからは立場が逆転。『今度は宮浦が追う立場に』と言われることが多くなった。「今の自分と西田を比べると、まだ西田には及ばない。でもシニアでプレーすることを考えれば、西田を超えないといけない」。

 バレーを始めてから数々の壁にぶつかってきた。だがそれを乗り越えるとき、原動力になっていたのはいつも『悔しい気持ち』であった。その気持ちをバネにし、持ち前の根性で圧倒的な努力を重ねてきた。こうして「お前はエースではない」と言われた少年は、大学日本一のエースへと駆け上がった。戦いの舞台はVリーグへ、そして世界へーー。進む道の先には無限の可能性が広がっている。

(記事 西山綾乃 写真 杉山睦美氏、萩原怜那氏)