【連載】箱根事後特集『息吹』 第7回 7区 鈴木創士駅伝主将

駅伝

 この1年、駅伝主将としてチームをまとめた鈴木創士(スポ4=静岡・浜松日体)。シード落ちから始まった激動の今シーズンで何を感じ、どのような力を得たのか。そして最後の東京箱根間往復大学駅伝(箱根) 、実業団への思いとは。

※この取材は1月26日にオンラインで行われたものです。

最後の箱根を振り返って

7区出走は今回が3回目となった

――解散期間はどのように過ごされましたか

 ゆっくりしたり、旅行に行ったり、お世話になった方に会いに行ったりしました。今年も、ゴルフに行きました。

――事前対談から当日まで、調子はいかがでしたか

 まあまあという感じでした。一時に比べると復調して練習はできていました。

――主将として、箱根に向かうチームの雰囲気をどのように感じていましたか

 それぞれだいぶ区間もわかってきたなかで、そこに向かって調子が上がってきているなということが、お互い把握できるくらいの状態でした。

――個人として、最後の箱根への特別な思いなどはありましたか

 もちろん特別な思いというか、いい結果で終わりたいという思いはありました。

――時間が経ってみて、改めて箱根での個人の走りはどう振り返りますか

 振り返ってみれば、もう少しいけたのではないかという思いは出てきます。ですが、最終的にどれだけ考えてもあれ以上は無理というか、できることはやったので、正直悔いはないです。

――チームの結果についてはどのように感じますか

 一言で言えば、まだまだというか悔しいところではあります。ですが、昨年シード権を落としてから、今年一年苦しいシーズンを乗り越えてシードを確保し、来年以降につなげることができたことは良かったと思います。ただやはり、3位なども全然狙えたと考えると、そこは気持ちや本当にちょっとしたところの差だったと思います。僕があと1分早かったら3位だったと考えると悔しいです。

――3位いけたかも、悔しいというのは、レースが終わってから初めて出たきた気持ちですか

 菅野(雄太、教2=埼玉・西武文理)が6位でゴールした時に2、3秒前に順大がいて、4、50秒くらい前に青学大がいて、というのを考えたら、あと1分どうにかならなかったかなというのを結果を見てより悔しいと感じました。

――往路の選手の走りはどのように見ていましたか

 よくやってくれたというか、しっかり走ってくれたと思います。強いていうなら、間瀬田(純平、スポ1=佐賀・鳥栖工)に箱根の1区というプレッシャーのかかる場面を1年生に任せてしまったのは、上級生としては不甲斐ないと思いました。その中で、今自分たちが出せる最大限の結果を、往路では出してくれたと感じています。

――7区を走るのは3回目ということで、今年ならでは毎年と違ったことありましたか

 これは初めてかもしれないのですが、早く終われと思いました。今までは、どちらかというと、追う展開で一つでも前へという、(自分に)自信がある状態、気持ちが強い状態で臨むというか、少しでも前でタスキを渡そうという感じでした。今までだと、もうあと5キロしかない、そこで何秒詰められるのだろうという考えでしたが、今年はあと5キロもあるという、キツくて早く終わってくれという思いの方が強かったです。あとは、最初からキツすぎて途中の記憶がほぼなくて。人がどこにいたかというのはあまり覚えてなくて、この人いたなというのは覚えているのですが。本当に3回経験した中で一番キツかったです。

――給水時、小指選手(卓也、スポ4=福島・学法石川)からパフィーのリズムで行けという指示があったと

 そうです。青学大の原監督が言ったのを小指がオマージュしました。走る前に注文したわけではありません。ただ小指がオマージュしました。

――当日、坊主にした理由は

 本来僕は走る予定ではなかったんです。山口(智規、スポ1=福島・学法石川)が体調を崩し走れなくなったところを走ることになり、最後だし、気合いを入れるためにも刈りました。

――ゴールを迎えたとき、率直にどう感じましたか

 10区が終わった時は、3位とあまりタイム差がない6位だったこともあり、もう少しいけたのではという気持ちはありました。それと、みんなよくやったし、これ以上出せない結果だから受け止めようという、やはり自分の中で二つの気持ちがありました。

――ゴール後、何かチームメイトと話したこととかありますか

 お疲れ様ということと、後輩には、来年以降頼んだということを伝えました。

――鈴木選手にとって箱根とはどんな舞台でしたか

 いいことも辛いこともあって、それが表裏一体だなというか、自分自身の生き様を映したような舞台と思います。今はいい表現が思いつかないです(笑)。

早稲田で過ごした4年間と、これから

入学直後のルーキー対談にて(写真左下)

――4年間振り返って

 終わった直後は率直にやっと終わった、疲れたというのが感想です。落ち着いて振り返ってみると、それこそ箱根は優勝できませんでしたし、自分のなかではまともな結果を残すことはほぼできなかったのですが、早稲田大学に入学してこの環境で陸上競技ができて良かったというのはあります。4年間、監督スタッフ含め、最高の仲間に出会えたというのは終わって1カ月近く経ちますが、本当に感じます。

――最も印象に残ってる試合は何ですか

 それぞれ印象に残っているのは多いですが、やはり箱根ですね。4回走っていい思いをした箱根駅伝もあれば、悔しい苦しい思いをした3、4年生の箱根駅伝もあって。そういう両極端の意味を持って印象に残っています。

――同期はどんな学年でしたか

 自分も含めて個性的だったと思います。それぞれの考えを持っていますし、なかなか面白い学年でした。

――駅伝主将として過ごしたこの1年間、どのように振り返りますか

 簡単な言葉だと辛かったというか、大変だったというのが1番にきます。でもこの1年、みんながキャプテンを任せてくれて、キャプテンをやってきた経験は、自分にとっても素晴らしい経験でした。もしこれでチームがいい方向に変わって来年以降に優勝するということがあればいいなと思っています。

――キャプテンとして大変だったことは何ですか

 やはり自分が競技で結果を出せないと言いづらい部分があったりして、それはキャプテンをやっている身としてはすごくキツかったです。キャプテンをやってどういう伝え方をすればいいかだったり、他校はどういうことをして、どういう考えを持っているんだろう、と考えたり。いろんなことが難しかったですね。

――駅伝主将を経験したことで得たもの、見えた景色はありますか

 今はそんなに感じないのですが、もしかしたら10年後、20年後になった時に、この1年間での経験が生きてくるのかなと思います。

――この1年は、風通しの良い組織への改革を行われていました。思い描いたものにどれくらい近づきましたか

 半分くらいですかね。風通しの良いチームにしようということに関して、それぞれ学年関係なく意見できるチーム作りはやってこれたと思っています。ただ、自分がもう少しこうしたかった、こういうこともできたかなという部分はありました。やりきった度で言えば100パーセントやりきったのですが、ただこういうふうにやれば良かったとか、ここをもう少し違ったふうに言えば良かったかなというのは反省点であったりします。

――半分半分の手応えを受けて、次のチームへ残っていること、課題はどのように考えていますか

 話が脱線してしまうのですが、僕とかは、正直先輩がやれと言ったことにはイエスかはいかみたいな環境下で育ってきました。チームメイトには、先輩が全てではなかったり、という考え方のギャップがあったりもして。例えば挨拶をしなさいと言われて、体育会らしい挨拶をするなど、嫌なことをやるというようなことはだんだんなくなってきていると感じています。そういう運動部らしいところを僕としては少し残したくて。そういう昭和らしいところを全て残したいわけではないのですが、人間力を確立する上で、スポーツマンらしい、良い人として生きる基礎的なのは残したいと思っていたので、そういうところは言い続けてはきましたが、なかなか伝わりづらかったりして。ギャップを感じたりとかはありました。

――来年、どのようなチームになってほしいですか

 勝ちだけがすべてのチームにはなってほしくないというか。もちろん勝ってなんぼの世界で、周りからも期待されますし、自分も勝ってくれというのは思います。ただ、タイムがただ早い人でなくて、こういう努力の過程を持った人が走ったというのを意識して、そのうえでしっかり結果を残してくれればと思います。人間的に強い選手が活躍してほしいというか、そういう人が早稲田からたくさん出てほしいです。それがきっと世界に通用する選手なのではないかと思うので、そのような選手を少しでも増やしてほしいです。

――そのうえで、次期キャプテンの菖蒲敦司選手(スポ3=山口・西京)に求めること、期待することはありますか

 菖蒲はすごく優しいので、嫌われるようなことをするのはすごく難しいのではないかと思います。ですが、厳しくやるところは厳しくやって、何より菖蒲自身の競技力としての強さを後輩に見せたりすることなどで頑張ればいいと思っています。

次のステージへ

箱根駅伝直前、取材を受ける鈴木

――実業団の話に移ります。なぜ安川電機に決めたのですか

 (安川電機は)自分自身のビジョンに対し、快く受け入れてくださりました。(チームがある)場所に関しては僕は気にしていなかったので、自分自身が成長できる環境だと感じたのが1番の理由です。

――そもそも、実業団に進むか迷われていました。いつ実業団への志望を決められ、そのきっかけは何でしたか

 ちょうど、昨年のこの時期くらい、2月ですね。きっかけは、監督含め、トレーナーの知野さん(亨トレーナー)などが競技を続けてほしいと言ってくださったりしたのが結構自分の中で大きかったです。自分が卒業後やりたかったことを学生のうちにできたこともあり、競技をあと数年続けようかという思いになりました。

――引っ越されてから日にちが経っていないですが、九州はいかがですか

 みんなよく言う、住めば都という感じです。いいところですが、今はすごく寒くて、雪が積もったりもしています。そこが少し辛いです。(九州は)旅行や合宿ではあるのですが、住むのは初めてです。

――福岡グルメは何か食べましたか

 寮のご飯が各自になる昼食に、ご当地の『資(すけ)さんうどん』に行きました。

――今後、どういう選手になっていきたいですか

 具体的な理想像などはあまりないのですが、日本でトップを取ったことがないので、日本選手権で優勝、トップを取って終わりたいですね。今のところは1万メートルで、おいおいはマラソンもやっていきたいです。

――後輩たちに伝えたいメッセージはありますか

 たくさんあるなあ。一言でいうと、最後みんなで笑って終われるようにしてということですね。

――最後に、4年間応援してくださった方々へ一言お願いします

 今年1年コロナからだいぶ元の生活に復帰して、ファンの皆様だったり日頃応援してくださるOB、OGの方々の応援や支えがあってこそ、僕ら競技者が充実した競技生活やパフォーマンスの場があるということを本当に感じました。感謝しかないです。

――ありがとうございました!

(取材・編集 戸祭華子)

◆ 鈴木創士駅伝主将(すずき・そうし)

2001(平13)年3月27日生まれ。176センチ。静岡・浜松日体高出身。スポーツ科学部4年。第99回箱根7区1時間4分12秒(区間12位)。座右の銘は、『僕はパンチがないから勝てるんですよ』。尊敬するボクサーの言葉だそうです!