【連載】箱根事後特集『繋』第8回 中谷雄飛

駅伝

 4年間、3大駅伝では安定した成績を残してきた中谷雄飛(スポ4=長野・佐久長聖)。しかし、エースとして花の2区に挑んだ最後の東京箱根間往復大学駅伝(箱根)では、思い描いていたような走りとはかけ離れた結果に終わった。その時、何が起こっていたのか。事前の準備段階は、どうだったのか。知られざる舞台の裏側に迫った。

※この取材は1月29日にリモートで行われたものです。

 「本当にこれが現実なのか」

2区を走る中谷(©︎関東学連/月刊陸上競技)

――12月の日本体育大学長距離競技会後の状況はいかがでしたか

 5000メートルからハーフ、20キロを超えるような練習に作り替えていったので、取り掛かった週は大分ボリュームがあってきつかったです。ですが、それなりに練習に関してはしっかりできたかなという感じでした。

――調子はいかがでしたか

 例年だと少しずつ調子が上がっていく感じだったのですが、今年はいまいちな感じが続いていて、箱根に向けて集中練習していく中でも万全ではないなという感覚が取れきれずにそのまま箱根に入った感じでした。原因はよくわからなかったのですが、ずっと疲労感が残っているような感じで、最後までパフォーマンスを発揮できない状態が続いていて、高強度の練習でもうまくいかないことが正直ありました。

――集中練習の際に10マイル走をやると思うのですが、いかがでしたか

 一応しっかりとやることができて、タイムも48分は切っていたので10マイルに関しては悪くはなかったです。ただ、10マイルはできましたが、5キロを走る練習で自分が感覚的にこれぐらい行けるだろうというところから結構落ちたところでしか走れていなかったので、自分の気持ちの部分と実際の調子が合っていないとすごく感じていました。

――箱根駅伝で2区を走ることを知らされたのはいつ頃でしたか

 1週間くらい前から決まっていました。直前の練習で井川(龍人、スポ3=熊本・九州学院)の調子が大分悪かったという現状があったので、僕が1区に行くか井川が行くかで相楽豊駅伝監督(平15人卒=福島・安積)が悩まれていたのかなというのはありました。ただ、今年はチームで後半シーズンに怪我をしている選手が多かったので、「お前が2区行けよ」という雰囲気というか、監督からも「2区に行くのはお前しかいない」というようなことを言われていましたし、2区を走るんだろうなと思いながら練習していたという感じでした。

――当初は補欠だった理由は

 他大学は1区に主力を置いてくるという事だったので、井川と僕でどっちにするのか、という考えはありましたし、1区がスローになりそうだったら僕が1区に行って速いペースで走るということも考えていたので、他大学の状況によって変化できるように2区は外したような感じでした。本当は監督から1次エントリーの時に2区にはめると言われていたのですが、マネジャーと僕が本当にそれで大丈夫ですかと(笑)。

――もし中谷選手が1区を走る場合、井川選手は調子が上がっていなかったことから2区を走らないとも考えられますがその部分も隠したということですか

 その場合は井川が7区などになっていたと思うので、2区は誰かに回すという感じになったと思います。それだけ往路のメンバーがいなかったというのはありました。

――2区で走ることが決まった時、どんな走りをしたいと思いましたか

 相澤さん(相澤晃、旭化成)みたいに思い切った走りができたらなというのは常にイメージしていました。

――1区の中盤で井川選手が遅れてしまったと思うのですが、その情報は頭に入っていましたか

 いや、最後に情報を受けたときは井川がまだ集団にいるみたいな話があって、結構良いところでは来るのではないかと言われていたので、中継所に早めに行きました。

――「あまり来ないな」みたいな感じでしたか

 思っていたより来ないなとは思いましたが、前に選手がいるならもうやるしかないなと思ったので覚悟を決めました。

――1区の井川選手からタスキを渡されたときの気持ちは

 最後だったので、(井川選手に対して)本当にお疲れ様ということと、僕のところでしっかり順位上げないといけない、と気合いが入りました。

――かけた言葉はありましたか

 「お疲れ様」みたいな言葉をかけたと思います。

――2区を走っているときに考えていたことは

 とにかくペースを落とさないで走ることを常に考えて走りました。あとは結構沿道からの声があったのでそれに対して集中力をしっかり保たないとなと、考えていました。

――沿道の声について、詳しくお聞かせください

 走っていて、「何でそんなところを走っているんだ」や「前と比べて遅いぞ」などのことを言われ続けていました。もう少しきついことも言われていたと思いますが、それはそれで嫌だったので、忘れた感じです。自分の走りやチームの順位について色々と厳しいことを言われていました。

――2区を走る選手の中で意識していた選手は

 あまり意識するということはなかったです。個人のタイムとか順位はこれくらいが良いとか、この順位は絶対取りたいと思うとうまくいかないことが多くて、走り出したら自然体というか、なるようにしかならないと思っているので、そこは特に考えずに、ひたすらゴールを目指して走ったという感じでした。

――2区を走っているときに、ご自身の走りが遅れているという情報は入っていたのですか

 前に選手が全然いなくて、追うイメージで走っていたのですが、単独走が続いて、自分が思い描いていたような走りになっていなくて。そういうところでこのままだとまずいなというか遅れているだろうなというのはイメージしていました。監督から声がかかった時にも直接的に遅れているとは言われなかったのですが、言い方的にこのままだとまずいなというのは分かっていました。

――2区を走ってみて、良かったところ、悪かったところは教えてください

 良くも悪くも大崩れはしなかったのかなというのはあります。最初からすごく速いペースで走って最後すごく失速するというわけでもなければ最初から速くもなく、一定のラインで耐えてそのままゴールしたという感じだったので、ペースの波や変動は少なく走れたのかなとは思います。でもそこのベースをしっかり上げてもう少し高いところで走れると自分で思っていたので、自分の理想とは言えない走りだったのは課題だったと思いますし、苦しい部分で攻めきれなかったことは良くなかったかなと思います。

――走っているときに余裕はどのあたりまでありましたか

 とにかくここできつかったというのはラストで、体もうまく動いていませんでした。ただ、これ以上耐えられないというところで走れていたかと言うとあまりそうではありませんでした。きついけどまだ我慢できるというようなところでラスト1キロを迎えて、それでラスト1キロで苦しんだ感じだったので、不完全燃焼だったというか体の余裕度は後々振り返るとまだあったのですが、そこから先がうまくいかなかったなという感覚でした。

――2区はずっと単独走という感じでしたか

 そうですね。ずっと単独走でした。

――走っているときにあまり体が動かないなと思っていたのか、走り終わってから時計見て遅いと思ったのか、どちらでしょうか

 走っている途中ですね。前半はある程度リズムはつかめていたので、5キロ以降でペースが少しずつ下降気味になっていったときに、今回は調子が良くないかもしれないという感覚は頭の中によぎっていました。しかし、「いや行けるでしょ」とメンタルをポジティブな方に持っていったのですが、結果的に150パーセントの力を出せずにゴールして、振り返ると調子が良くなかったなと分析できるのではないかという感じでした。

――3区の太田直希選手(スポ4=静岡・浜松日体)と声がけされましたか

 ニュアンス的には「申し訳ない、ちょっと頼むわ」みたいな感じだったと思います。あまりはっきりとは覚えていませんが、行けという感じではなく、申し訳ないけど後は頼んだというような言葉をかけたと思います。

――チームの結果については

 本当にこれが現実なのかと思いました。勝つと思ってやってきたので、自分たちが考えている結果とここまで真逆になることってあるのかと思いました。なかなか現実として受け止められなかったです。

――現在はショックから立ち直れていますか

 今は特に深く考えるなどはないですけど…。ですが、終わった直後はテレビで箱根の特集などがあった時に、箱根の結果に対する思いや自分の走りについて思い出してしまうことが多かったので。そういうメディアを見るのを避けてしまっていました。ニュースで青学大などが取り上げられていたらチャンネルをすぐに変えていました(笑)。

――チーム全体の準備についてはいかがですか

 正直厳しい状況だなと感じていました。練習の状況などを見ても、前の2つの駅伝の時の状況とは違うと感じていて、一か八かの戦いになるだろうなと心のどこかで感じていました。僕は、普段自分が考えたことを外に発信するのが多くなくて、自分の行動や姿勢で、他の人に伝わればいいなと思うタイプで。この直前の時期に、「このままではやばい」と僕が言ってしまったら、チームの士気を下げてしまうのではないかと思っていました。だからこそ、そういう呼びかけはしませんでした。


「これからについて」

2区を走る中谷(©︎関東学連/月刊陸上競技)

――4年間、振り返っていかがですか

 あっという間でした。いい思いもたくさんできたと思うので。先の競技人生を考えた時に、ここでの経験はかなり役に立つと思っています。人として成長できたと思っています。

――ずっとチームの結果を背負うプレッシャーはありましたか

 かなりありました。ですが、高校時代の監督に「他の選手では経験できないことであるし、結果に関していろいろ言われることは、それだけ注目して頂けていることの証。応援されているということだから、それを力に変えてがんばれ」と常に言われ続けていました。他の選手では経験できないことですし、ある意味メンタル的にも強くなれたのかなと思います。それをポジティブに、プラスに捉えていました。

――成長した点については

 自分のやることに責任を持つ点だと思います。高校の時はある程度枠があってその中でこなす感じでしたが、大学ではあまり大枠は決められていなくて、考えて行動したり、自分からアクションを起こしたりということが多かったです。特に競技面だったら、「これをやったらここまで上がってくる」など、試行錯誤が経験値として積み重なったので、実業団に進んだ時、生きると考えています。

――部内で刺激になったことはありますか

 特定の選手というよりは、特に同期には見習わないといけないことが多いと思っていたので。実を言うと、その部分をこっそり盗んだりしていました(笑)。具体的には、元々、大学の下級生の時はジョグをそんなにしていなくて、ササっと上がりたいタイプの人間でした。泥臭い練習が好きじゃないというか、ジョグをやるにしても速いペースで走ってすぐに終わらせるみたいな感じでした。ですが、大学3年に上がって他の選手の取り組みを知った際に、この先長い距離を走らないと厳しいなと思いました。それで自分を変えたのですが、それもあって3年の時は結果に結びついたかなと思います。

――4年間で印象に残ったレースはありますか

 いくつかありますが…。大学1年の時のU20世界選手権は今でも忘れられません。すごく結果が悪かったからこそ、今もそれを糧にがんばれているのかなと思います。正直、ある程度通用すると思っていましたが、全然ダメで。何をすればよいのか、どれくらい量をやればいいのか、などを自分で考えてやるきっかけになりました。すごく印象に残っています。

――相楽駅伝監督は、どのような指導者でしたか

 自分の意見を聞き入れてくれる監督でした。僕が結構自分勝手で、文句も言ってしまった時もあったのですが、対話をしてくれて見守ってくれた方です。やはり早稲田だからこそそのようなことをできたと思うので、本当に感謝しています。

――具体的にはどのような意見を言ったのですか

 練習メニューについてもですし、チーム状況についても話すことが多かったです。後半は特にチーム状況について話し合うことが増えました。チーム全体を見て、寮内の生活の部分についても話したかなと思います。早大はやはり自由な環境なので、選手によっては自己管理が甘いことがあって、ある程度上から管理する必要はあるのかなと思うところがあって。相楽さんも、自主性を強調していますが、ルールがある程度決められた上で成り立つ側面もあると思うので、ある意味対決しました(笑)。

――3年生以下で、中谷選手が注目している選手はいらっしゃいますか

 誰にしようかな(笑)。じゃあ伊藤大志(スポ1=長野・佐久長聖)にしておきます(笑)。同郷の後輩なので。

――伊藤選手の推しポイントはほかにありますか

 まず、故障しない点があります。あとは、メンタルがだいぶ強いなと感じていて。裏話ではありますが、大志が5区いくとなった時に、チーム内では、下級生では厳しいのではないかと思っている選手もいたので、それでミーティングにもなってしまいました。みんなで話す機会で、「上級生が上るべき」と目の前で別の人に言われているなかでも、ある程度しっかり走っていたので、逆境に立ち向かっていける気持ちの強さがあるとその時に感じました。だからこそ、うまくいかない時でも乗り越えてくれる選手だと思っているので、期待の選手に挙げたいと思います。

――伊藤選手が5区ではなかったら、誰が候補になってくるのですか

 どうでしょう。ただ、あの状況だったら大志しかいなかったと思います。僕は1区か2区に行かないといけない感じだったので。

――チームの足りない点はどんなところですか

 1つの目標に対して向かっていける強さはあると思いますが、それが持続しない点かなと思います。今季も3つの駅伝の間で、どこかしら気持ちが切れてしまうところがありました。大会が近づいてからスイッチが入るみたいな感じだったので、それでは厳しいのかなと感じています。

――競走部の後輩たちに向けて言っておきたいことはありますか

 悔しさを忘れずにがんばってほしいです。あとは、理想像を追い求めて縛られてほしくないと思っていて、まずは楽しむことを意識してみるといいのかなと思います。

――改めて、早大に来た選択は間違っていなかったですか

 間違っていなかったと思います。成功も失敗もたくさん経験しましたが、それが経験値になっているので、この先、生きてくると思います。

――では、最後に卒業後のプランを教えていただけますか

 トラックで結果を残したいと思っているので、世界大会で戦える姿をお見せしたいなと思います。いずれはマラソンに挑戦したいなと思っています。

――ありがとうございました!

(取材・編集 野中美結、青山隼之介)

◆中谷雄飛(なかや・ゆうひ)

1999(平11)年6月11日生まれ。170センチ。長野・佐久長聖高出身。スポーツ科学部4年。第98回箱根2区1時間8分45秒(区間14位)。