2010(平22)年度、早大は出雲全日本大学選抜駅伝(出雲)、全日本大学駅伝対校選手権(全日本)、東京箱根間往復大学駅伝(箱根)を制し、史上3校目の大学駅伝三冠を達成した。その時、駅伝主将として最強軍団を率いていたのが中島賢士氏(平23スポ卒)である。今も伝説として語り継がれているという当時のチームを、中島氏はどのようにまとめてきたのか。当時を振り返っていただいた。
※この取材は10月21日に行われたものです。
「本当に支えられた」駅伝主将の1年間
当時のエピソードを語る中島氏
――中島氏が在籍されていた四年間のチーム状況はいかがでしたか
入学する年に久しぶりに先輩方が(箱根の)シード権を取ってくださいました。なので1年目の本戦では優勝などというのはそこまで意識していなかったのですが、気付いてみれば往路優勝、結果的には総合準優勝ということで、うれしい誤算といった感じでしたね。竹澤さん(健介氏、平21スポ卒)と駒野さん(亮太長距離コーチ、平20教卒=東京・早実)、そして復路の4年生が非常に頑張られたので、うまくチームが流れに乗って準優勝というかたちになりました。ただ2年目の時は下に八木(勇樹氏、平24スポ卒)や三田(裕介氏、平24スポ卒)など、高校の時にかなり活躍した強い世代が入ってきましたし、かつ竹澤さんもいるということで、本気で優勝を狙いにいった中での準優勝でした。非常に悔しい思いをしましたし、僕自身も8区でトップから抜かれてしまったので、1年前と同じ準優勝でも天と地ほど差のある、全く意味合いの違う準優勝だったのかなと思います。3年生の時はまた下も強い子たちが入ってきたのですが後手後手に回ってしまい、うまくかみ合わずに総合7位ということで過去2年の結果からすると物足りない結果に終わってしまいました。ただその中でも4年生はチームを引っ張ってくれていたので、上級生になった自分がそれに答えてあげられなかったというか、僕自身もけがで長期離脱していた時期もありますので、一緒になってチームをまとめていくことができなかったことが唯一心残りです。4年生の時はいよいよ大迫(平26スポ卒、現ナイキ)、志方(文典氏、平26スポ卒)が入ってきて、今年優勝しなかったらちょっとさすがにまずいかなと思っていましたね。春先の彼ら2人の走りを見てもそうですし、八木たちも上級生になってしっかり走っていたので。
――力のある選手が集まっていたと思います。部の雰囲気などはいかがでしたか
力のある選手ということもそうですが、彼ら個人個人は非常に個性も強かったです。僕らの学年は僕も含めてそんなに目立って強い選手がいなかったので、下の子たちには競技では絶対に勝てないんですよね。かといって上級生だからと威張っていても下はついてこないと思ったので、彼ら下級生の個性を生かしつつどういう環境をつくってあげたら彼らが走りやすいかということは考えながらやっていました。
――駅伝主将として、そのような雰囲気づくりを意識していたのでしょうか
僕だけというより、そこは4年生全員の共通認識だったと思います。
――昨年も別の取材で「当時は体育会特有の上下関係はなく、何でも言い合える仲だった」とおっしゃっていました
そうですね。特に力もなかったのでいろいろと言いやすかったでしょうね(笑)。でも言いたいことを言ってくれたことは、こちらとしても非常に助かったところはあります。
――それは中島氏が4年時に変わった雰囲気だったのでしょうか
いや、八木とかは特にそうですが、言いたいことはずっと言っていたと思うんですよね。ただ彼らも上級生になって、よりチームのことを考えるようになったことで出てくる発言が増えていました。なので誰が上になったからというよりは、彼ら下の子たちが成長していたのだと思います。個よりもチームの方に目を向け始めたのかなと。
――中島氏が4年時はチームとしてどのような目標を掲げていたのでしょうか
僕らが掲げたというよりは、大迫や志方が入ってきた頃から渡辺さん(康幸前駅伝監督、平8人卒)が「今年は三冠するぞ」と言われ始めたんですよね。それまでは箱根の優勝などが目標だったのですが、『三冠』とはっきり言ったのが自分たちが4年生の時だったのではないかなと思います。チームの底上げもできていたと思いますし、メンバーも他大を見た時に「逆に今年勝てなかったらいつ勝つんだろう」というくらいの戦力は持っていたと思うので。
――駅伝主将を務める中で特に心掛けていたことはありますか
結果はなかなか残せないというか、主力の下級生たちに比べたら記録は物足りない数字になってくるかと思うのですが、日頃の生活だったり練習の中でやるべきことをしっかりやるようにというのは意識していました。そういうところも下級生から見られているんだよというのは僕だけでなく4年生全員の共通認識としてありましたね。
――改めて駅伝主将としての1年間を振り返るといかがですか
特にこれといって何かをしたというのはないんですよね。やり切ったなということはあまりなくて、本当に周りに助けられたなと。同級生の4年生もそうですし、もちろん試合では下級生がよく頑張ってくれので、本当に支えられた1年間でした。最後においしいところだけ持っていってごめんなさいという感じです(笑)。
「各ブロックが一体感を持って取り組んでいることが競走部の良いところ」
――ちなみに中島氏が早大に進学を決めた理由は
高校の先生に勧められたからです。渡辺さんも誘いに来てくださいました。
――早大競走部の良いところは何でしょうか
やはり短距離ブロック、長距離ブロック、投てきブロックなどみんなが同じ寮に住んでいて、インカレなどですごく一体感を持って取り組めることですかね。僕も高校の時はそうでしたが、長距離は長距離だけというふうに分かれていると、そこからの目線しか生まれないんですよね。でも同じグラウンドで練習することによって短距離がどういう練習をしているかもわかりますし、短距離も世界的な選手が何人もいて、江里口匡史(平23スポ卒)や投てきにはディーン(元気、平26スポ卒=現ミズノ)など、いろいろな種目の日本のトップレベルの選手がいたので、そういうところはすごく良かったのかなと。他の大学だと長距離は長距離で分かれているところもあると思うのですが、短距離も含めて競走部ということで一つで動いていたのは非常に良かったかなと思いますね。
――エンジのユニホームやタスキについて思うことはありますか
エンジ授与式というのは公式戦の前にしかないので特別ですし、タスキはやはり重みを感じますね。早稲田はユニホームがかっこいいですからね。
――中島氏にとって箱根とはどのような大会でしたか
高校の時はそんなに憧れというものはなかったですし、大学に入ってからも『正月の大きな駅伝』くらいにしか考えていませんでした。ですがスポーツ推薦で入学したのでインカレ、箱根、全日本も出雲もそうですが、駅伝は走って貢献して当たり前だと思っていました。上級生になるにつれて下からの押し上げがあったり、自分の力不足でなかなか出雲、全日本は出られない中、箱根だけはなんとか毎年滑り込んでいるというかたちだったので、そこはしっかりチームに貢献したいなという思いで走っていましたね。ただ1年生の時はやはり前の日は緊張して寝られなくなりましたし、いざ走ってみると沿道の人の多さにすごくびっくりしたという記憶があります。
――4年時はアンカーを務めましたが、10区の役割というのはどのように考えていらっしゃいますか
まずはみんながつないできてくれたタスキを無事に大手町まで運ぶ役目ですよね。特に当時は優勝がかかっていたので、「最後の最後で抜かれたらどうしようかな」と考えながら走ったりもしていました(笑)。ただ、やはり1年間チームとして目指してきた舞台の最終区でもありますし、そこにはその1年間だけではなくて、4年間そこを目指して競走部に入って頑張ってきたけど結局一度も走れずに終わる選手というのも大多数いるんですよね。そういう人たちの思いも込めて最後はしっかり大手町までそのタスキを運ばないといけないなという思いはありましたね。
――何度も聞かれていらっしゃるかと思いますが、優勝のゴールテープを切った瞬間のお気持ちは
「終わったー」と思いましたよ(笑)。うれしいという気持ちよりも「終わった」というホッとした気持ちが一番ですね。
――箱根に関して、印象深いエピソードなどは何かありますか
大学2年の時ですかね。箱根の8区、僕のところで抜かれて差を広げられて、その差のまま東洋大学に負けたという時がありました。終わった後、先輩も泣いていましたし、僕も泣いていたのですが、その時に当時キャプテンだった竹澤さんに「泣くのは簡単だけど、1年間本当に泣くくらいの努力をしたのか」という言葉をかけられたんです。その言葉というのは自分の中ですごく強烈で、強く印象に残っていますね。
「組織で動くことはとても勉強になった」
――箱根を経験したことによる財産やその後の人生で生きたことはありますか
競走部にいたことで、組織で動くということに関してはすごく勉強させてもらったのかなと思いますね。特に上級生になってからは、自分がどういう言動をしたら下がどのように捉えるのかということをかなり考えていました。そういうことは社会人になってもすごく役に立っていますね。
――当時の風通しのいい雰囲気が優勝につながったと感じますか
いや、それは結果論ですからね。それでチームが悪くなる場合もあると思いますし、本当に実力がある選手たちがそろっていた代だったのでたまたまうまくいっただけかもしれません。
――今の早大を見て、後輩たちに対する印象はいかがですか
今週(箱根の)予選会もあるので頑張ってほしいなとは思います。あとここ数年は大迫以来、本当の意味での大エースという選手が出てきていないと思うので、中谷くん(雄飛、スポ2=長野・佐久長聖)や井川くん(龍人、スポ1=熊本・九州学院)にはぜひそうなってほしいなと思いながら見ていますね。能力のある子は非常に多いと思うので、後はそこに結果がついてくるかどうか。どれだけ監督やコーチを信じてやれるかだと思います。
――エールを送るとしたら、どのような言葉をかけたいですか
出雲も見ていたのですが、やはり早稲田大学が出ていない大学駅伝というのはOBとしても見ていてあまり面白くはないので、箱根ではぜひシード権を奪還してもらえればと思います。予選会はその後にすぐ全日本もあるので、気を楽にして通過してもらえればと。OBからの叱咤激励が多いところが良いところでもあるとは思うのですが、あまり気負わずに頑張っていただけたらと思います。
◆中島賢士(なかしま・けんじ)
2011(平23)年スポーツ科学部卒業。佐賀・白石高出身。学生時の自己ベスト:5000メートル13分56秒94。1万メートル29分13秒52。ハーフマラソン1時間4分0秒。箱根成績:1年4区8位56分34秒。2年8区8位1時間7分39秒。3年9区14位1時間12分44秒。4年10区2位1時間9分55秒。早大卒業後は九電工で3年間競技を続けた。