東京箱根間往復大学駅伝(箱根)において、2018(平30)年まで12年連続シード権獲得、そして総合優勝13回を誇る早大。だが、一時はシード落ちが続く苦しい時期もあった。そのような状況の中で駅伝主将を務めたのが髙岡弘氏(平18人卒)だ。シード権を獲得するために、どんなチームづくりをしてきたのか。当時についてさまざまなお話を伺った。
※この取材は9月9日に行われたものです。
憧れていたエンジのユニホーム
丁寧に取材に応じてくださった髙岡氏
――早大を進学先として選んだきっかけはありましたか
もともと渡辺さん(康幸前駅伝監督、平8人卒=現・住友電工陸上競技部監督)が1年生のときから箱根駅伝を見ていました。毎年1月2日は皇居の参賀に父親と行っていて、「箱根やってるから見に行くぞ」という感じで渡辺さんの走りを見て「やべえな」と。当時は野球をやってて、父親が警察官だったので走っていたことが多く、自転車で争っていたのがきっかけで走ることを好きになりましたね。中学では兄の影響もあって陸上部に入りましたが、当時は『早稲田=強い』というか、日本で実業団選手を抑えて優勝するような人が何人もいて。それを見て「早稲田大学はすごいなあ。行きたいなあ」と、エンジのユニホームに憧れていました。
推薦で選んでいただきましたが、まさか行けるとは思ってなくて。3年生のときにインターハイに出て予選落ちだったんですけど、その時の走りを見ていたそうです。当時は浪人覚悟だったし、川越高校は進学校でしたがどちらかというと『陸上馬鹿』という感じでした。高校生の時は、埼玉栄高校が最強のチームで、『打倒私立』でやっていきたいよねとなってやってきました。自分は学内で5000メートルが3番目で、14分19秒で走る人や1500メートルを3分54秒で走る選手もいるくらい人が集まってきて7人で臨んだんですけど、それでも勝てなかったんですよ。なので、大学でもやるというのは夢にはあったんですけど、まさか選んでくれるなんて夢にも思っていませんでした。
――当時の競走部の雰囲気はどのような感じでしたか
怖かったですね(笑)。もう高校生のときはとても自由だったので、メニューも全部自分で考えていました。そんな中でやってきていたので、まずびっくりしたのが寮ですね。先輩もみんな怖そうだったし、やっていけるのかなという印象を最初は受けましたね。ギャップがすごかったです。
半年ほどで慣れたんですけど、そこからがすごく長く感じましたね。練習について行くこととか。量よりも質が高すぎてついて行けませんでしたし、スピードが高校生と違いました。また夏になると質と量が連動していく練習がすごく増えて、毎日ヒーヒー言ってました。今も夢に出てきますね(笑)。寮での当番もあって、環境的に鍛えられた1年間でした。良い意味でも悪い意味でも緊張感があって、高校生の時にやりたい放題やっていた頃と真逆だったので。今となってはいい思い出です(笑)。
2年生の箱根で芽生えた責任感
――箱根は2年生で初出場し、6区8位という結果でした
1年生の時は3区にエントリーしていたんですけど、当日の朝練で外れて。僕の前任の主将の杉山一介さん(平17人卒)が僕と3区の入れ替えとなって、遠藤司コーチに呼ばれて「きょうは杉山で行くよ」と言われたのを1年間ずっと悔しいなと思っていました。1年目だからそんなもんだろとも思いましたがやっぱり悔しくて。ただ、脚も結構限界で、遠藤さんに全部見抜かれいたんだなあと。
(そこからは)もう一度、イチからのスタートだと思って、1年間けがしない体をつくろうと、ひたすら体幹を鍛えたり、補強するとか。走る面でも、今まで闇雲に走っていたのを休養をどこで取ったらよいのかなど考えてやってきましたね。どうやったら箱根でしっかり走れるのかと考えてきた1年間だったので、やっと6区にエントリーしてもらって、本番行くよとなった時は「これはもうしっかりと行かないと」と。当時は復路一斉スタートだったので、プレッシャーもありましたが、2年生なので胸を借りるつもりで行こうという記憶はありましたね。
――走っていた間は覚えていますか
最高点まで上がって下り始めて、ちょうど恵明学園のあたりから人が増えてきたときに、早稲田ファンがすごく多くて、「早稲田ってすごいな」という印象がありましたね。いろいろなところにファンがいて、早稲田のアイロンを持っていなくても「髙岡!」と言ってくれる人もいました。小涌園のあたりとか、走っていてすごく気持ちよかったですね。
――1回箱根を走って、さらにモチベーションが上がったのではないでしょうか
そうですね。やはり2年で走ったのが、次のステップになったというか。そして2年生の時は自分の力を出し切ればいいという考え方だったのが、(箱根の)次の日から「その走りでは駄目だ」というのがあって、チームを引っ張らなければならないという気持ちが自然と出てきました。
――次の箱根では10区で区間新記録で走破したものの、チームは総合11位とシード権に届きませんでした
あれは、9区の河野(隼人氏、平19スポ卒)がすごくいい走りをしてくれて。当時はチームに『負け癖』というか、諦めるムードが早く出てしまうのがあったんですよ。チームに「箱根駅伝、箱根駅伝だ」となっている雰囲気が強かったから、箱根で序盤で出遅れると、どうしても雰囲気が良くなくなっていて。これは負けを続けていくとどうしてもそういうふうになってしまうんですよね。この年の予選会で1位通過した時は僕の一つ上の篠浦辰徳さん(平17人卒)などがまとめてすごい雰囲気がよい感じで迎えた箱根だったので、「花を持たせてあげたい」という気持ちがありました。ただ序盤で出遅れてしまったので、チーム的にも「ここから(順位を)上げるのは大変だ」と思いながらも、7区を走った原(英嗣氏、平18人卒)や河野がいい走りをしてくれて11位まで上げてくれたんですよ。なので「これは行かないと」という感じでしたね。調子も良かったですし、箱根の独特な雰囲気など、いろいろなものがそろってあの走りができました。前も最初は見れなかったんですけど、どんどん近づいてきて、渡辺さんも後ろから「行けるぞ」と声を掛けてくれて、とにかく必死でしたね。区間新とかもう記録ではなくて、1キロをとにかく2分58秒で刻もうと頭の中にありました。冷静に「前は3分ペースぴったりで走ってくる」と考えて、これを20キロの間に1キロ2、3秒ずつ縮めていけばどこかで追いつけるんじゃないかと思っていたんですけど、15キロくらいでかなり近くまで追いついちゃったんですよ。そしたら後ろを向かれて前に行かれたのを覚えています。「しまった」と思いましたね。
――その後少しずつ離されて行ってしまった時は
焦りしかなかったのと、みんなの顔が浮かびましたね。特に4年生やその前に卒業した歴代の先輩方です。当時10区の早稲田記録を持っていたOBの方は「がんばれよ」と声を掛けてくれました。その時の記憶は鮮明に残っています。
――ゴールした時は
(ゴールの)100メートル手前で前の神奈川大がゴールした瞬間に、もうプツッと切れたのを覚えています。あとで自分でテレビを見ても普通に走っているんですけど、本当に記憶がないんですよ。だから相当精神的に追い込んでいたのかなと思います。ゴールして4年生が声を掛けてくれた時に戻ってきた感じですね。あの100メートルは空白で、ゴールした瞬間も全く記憶にありません。「嘘だろ」って言われるんですけどね(笑)。
4年生のまとまりを重視
――4年生の時には駅伝主将を務められましたが、就任に至った経緯は
やりたい、やりたくないというのではなくて。上の学年とコミュニケーションを取って常に色々と考えていました。同学年では合宿所に1年生から一緒に入っていた人が自分の他に1人しかいなかったんですよ。他のメンバーは通い組が多かったですね。あと、2つ上のキャプテンの五十嵐毅さん(平16人卒)からも「お前がキャプテンをやらなきゃ駄目だよ。1年生の時から合宿所にいて、通い組にはわからないところがあるから」と。どうしても一般組と合宿所にいる人との間で差ができてしまうんです。そう言われてきたので、自然とまとめていかないといけないというのがあって。それで先輩から「お前に任せたいと思う」と言われて、「そのつもりです」と。3年生の秋くらいでしたね。
――駅伝主将になってからは原氏とともに2人でチームを引っ張っていくというスタンスだったのでしょうか
それもありましたし、通い組の4年生に対して合宿所に入ってもらったりしました。やはり4年生が弱いとチームは絶対にまとまらないんです。優勝した2011年の時もそうですけど、4年生が抜群に引っ張っているんですよね。当時の近くでは3位が最高だったんですけど、やはり4年生が引っ張っている時期だったので、4年生が抜けると駄目だ、4年生が崩れると後輩たちは見ているから、というのをスタート当初はすごく悩みましたね。
――チームでの目標はありましたか
まずは『負け癖』を払拭しないといけないというところで、闇雲に練習するのではなく理論的に考えて、与えられたものをやるのではなく、学生なのだから個人でここを強くするというのを大切にしていました。
――箱根での目標などはありましたか
『箱根で3番以内』というのはありましたね。シード権を取るというのは当然のことで。箱根の前に1万メートルは29分何秒、5000メートルなら14分前半というように、各個人個人に目標を設定してやっていた記憶があります。それに向けた練習をしていました。
――工夫したり新たに着手されたことはありますか
競走部はチームが層的にあるわけで、練習がみんなバラバラなんですね。これだとCチームの人たちがAチームに対して、かなわないと思ってしまうところがあって、それをどこかで埋めないとというのがありました。ミーティングを全体でやるのは当然だったし、合宿の時には、みんなが一丸となれるように、布にみんなが目標を書いて、それをどのチームにも掲げるとか。また、主務やマネジャーだけにとどまらずに4年生同士で連絡を密に取り合いました。自主的に行動していくのを4年生が引っ張ってやってた感じでしたね。
また平日は学業もあってなかなか全員集まれなかったときに、ジョグの日は戸山キャンパスの方に集まってやるメンバーに分かれたりもしましたね。そっちでやれば時間を短縮できるし、頭を使って考えてやってました。
――渡辺監督との連携はいかがでしたか
康幸さんはめちゃくちゃいい兄さんで。僕たちが4年間いて、一度も指導者に恵まれなかったことはなかったんですよ。康幸さんは当時住み込んでくれましたし、風呂も一緒に入って会話したり。すごい感謝しています。面倒見の良い方でした。
悔しさを感じた最後の箱根路
――最後の箱根は5区を走られました。まず、5区を任された時のお気持ちはいかがでしたか
全く予想していなくて。言われたのは10日くらい前じゃないかな。5区にはリザーブまで含めて3人いたんですけど、脚を痛めたり熱を出したりして3人とも駄目になってしまって。そこで渡辺さんに呼ばれて「山上る選手がいないから走ってくれないか」と言われて。いまだに言われますね(笑)。あの時は1区と2区を僕と竹澤(健介氏、平21スポ卒)でどっちかを走って流れをつくることを考えていました。今までは前半で駄目になって、その後もなんとなく行って、結局最後に駄目になるという悪い流れができていたので、3番以内を取るためには前半の1、2、3区までにしっかり貯金をつくることが非常に重要になってきます。当時は竹澤と阿久津(圭司、平21スポ卒=現・SUBARU)の1年生コンビがすこぶる良く、僕が走力的には長い距離で自信があったので、前半区間で安定した順位で持ってきて、後半は後半でうまく走れたら、きっと流れは良くなると思っていました。だから流れを重要にして、結果的にシード権が取れればと。下馬評でもまあまあ良かったんですよ。ただ、けがの選手を見抜けなかった。良いムードで来ていたのですが、最後の最後に。人をまとめるのは大変だと感じましたね。
――実際走ってみていかがでしたか
超キツかったですね(笑)。まさか自分が走るとは思わなかったですし、当日は雪混じりですごく寒かったです。今井くん(正人/順大、現トヨタ自動車九州)など、5区にそうそうたるメンバーがそろっていたので、「まじかよ」という気持ちはありましたね。
走っている時は前が離れていたんですよね。結果的に9位でもらって9位でゴールしました。走り始めてすぐはこんなもんかと思っていたのですが、塔の沢を過ぎたあたりからやばいなと。宮ノ下では足がボロボロになりましたし、寒いしで。しかもカーブが多くて前が見えないんですよ。だから地獄でした(笑)。前年は、前が見える位置で走れたのですが、カーブだと見えないので、キツかったですね。
――9位という位置でもらって、どういったお気持ちで走っていましたか
一つでも順位を上げないといけない。シード権の当落線上から一つでも二つでも良い位置で翌日につなげたい。翌日は天気が良い予報だったということで、復路のメンバーは行けるのではないかと思っていたので、できるだけ前で前でという気持ちがありました。でもどうしても9位で、一杯一杯でしたね。
――タイムに関しては
あのタイムは速いか遅いかなんて自分の中では全くどうでも良くて、とにかく順位だと思っていました。それは渡辺さんからも言われていて、前との差を詰めればいい。ちゃんと前が見える位置でつないでくれれば、翌日も良い走りができるからとあったので。
――走り切った後の感情は
やり切ったという感情は全くなかったですね。5区と言われて、任されたところを走り切れなかったなと。やはり前が見えなくて、結果的に離されていて。キャプテンで4年生で、最後の最後なので意地を見せて頑張らないといけなかったのですが、それができなかったのは悔しかったですね。
――ゴールを見た時はいかがでしたか
あれはかわいそうでしたね。三輪(真之氏、平21人卒)は本来1年生で10区は絶対に走らせてはならないし、10区はやはり3年生か4年生が走るべきなんですよ。絶対に大丈夫だと言われている1年生や2年生でもあのプレッシャーは半端ではないから、あそこを1年生にやらせてしまった4年生たちの責任だなとすごく感じました。彼にとっては結果として糧になったかもしれませんが、ちょっと残酷でしたね。あの区間はなんとなくで置いてはいけないんですよ。この選手ならしっかり責任を持って走れるという安定感が求められる区間なので、8、9区の時点で9番くらいでしたが、あの時点で「三輪ごめん」という感じでした。過去に早稲田が優勝してきた年は、そういう選手を入れてきているんです。どんな順位で走ってもブレーキせず、安定感のある走りをして強いハートが求められるので、それを1年生に求めるのはすごく残酷で申し訳なかったなと。
――ゴールでは三輪選手を迎えられたと思います
あいつは泣いていました。でも僕が泣いていたら、三輪が先輩たちに対して申し訳ないと思ってしまうじゃないですか。だからそこは絶対に笑顔でと。「大丈夫大丈夫、こっちがごめんな」と。そこはいまだに覚えていますね。
まさに『夢』のような4年間
――4度目の箱根を終えた時のお気持ちはいかがでしたか
3年生の時に個人では区間2位で自信になりましたし、2年生の6区でも当時の早稲田新記録だったんですよ。そういう意味では大学にはすごく感謝しています。特に遠藤さんと渡辺さんの二人には感謝していますね。僕は全国に名をとどろかせるような選手ではなかったので、まず選んでくれたこともそうですし、2年生から箱根に使ってくれたのはすごく自信になりました。4年生の時はまとめられなかったのでそこは悔しい思い出ですが。
――髙岡氏にとって箱根の存在とは
今となっては夢の4年間だったというか。そもそも早稲田に入れるような実力もなかった中で、昔から夢見ていたのが4年間で走ることができたのが一つですね。あと社会人になってすごく思うのは、「ああ、あそこを走っていたんだな」と。逆に夢だったんだなと。昔夢に思っていて、今となってはまた夢に思っているというか。ある意味で空白というか夢の4年間で、本当に走っていたんだなと感じる時間だったと思いますね。
――今、当時務めていた駅伝主将での一年間をどう振り返りますか
悔いが5割、あとはいろいろなことがあって。楽しかったこともあったし、感動したこともありました。他にも勉強になったとか人生の糧になったとか。でも半分は悔いが残っていますね。あの時こうしておけばよかったという気持ちはあります。
――卒業前にはマラソンにも出場していました
東京国際マラソンが最後の年だったということで出ました。学生が終わって就職もするんだから、箱根でも何もできなかったし、マラソンに挑戦して最後くらいはと。自分の目標にしていた人たちもたくさん走るので、それで締めたいなという気持ちでした。
その日はすごいメンバーだったんですよ。日本記録保持者(当時)の高岡寿成さんとか、ペースメーカーもすごくて。それがうれしくて、スタートしてからついたんですよ。そしたら1キロ3分ペースでこれはやばいなと(笑)。離れたのですがそれでもハーフを65分くらいで通過して。そして品川で折り返したら逆風になって。そこからは完全にアウトで、何も覚えてないです。また(記憶が)飛びましたね。
――卒業後もランニングはしているのですか
翌年の福岡国際マラソンに出たんですけど、そこでも途中棄権してしまって。その時点でマラソンは駄目だと。今までと全く違う環境になって、自分の時間を見つけて何か一つの目標に向かってやるというのは、あれだけ学生の時にやっていたのに、大変なことなんだなということを改めて感じましたね。社会人になってやっている人もいますけど、すごいなと思いますよ。社会人になっても続けるのは本当に大変だなと思っています。
「4年間を有意義に使ってほしい」
――競走部でよかったと感じる部分はありますか
良い指導者と良い先輩後輩に恵まれて、本当に人に恵まれた4年間だったかなと思います。
――お仕事をされていて、競走部での経験が生きていることはありますか
営業では相手の人がいて、そちらのスタンスに合わせるということが、1年生の時に先輩がやってきたことを自分もしっかりとやって、培ってきたものが生きているのかなとは思います。当番といったルーティンワークをこなすことで、相手が気持ちよくなったり、環境をよくしたりするというところがすごく勉強になってそれが会社で生きたと思います。また3、4年生で人をまとめていた時に、どうやったら人が動くのかなというのを思い出しながら今、営業の仕事をやっていますね。
報道をやっていた時に感じたのは、取材を受ける立場の人たちが何を感じて、考えて取材を受けているのかということですね。自分も取材を受ける立場だったので、相手が今どういう心境で、どういうことを訴えたいのかというのを聞き出すためにいろいろなことを想像して取材することは、3、4年時の経験が自分の糧になったのかなと。また、僕がキャプテンでみんなとコミュニケーションを取るときに、それぞれ考えていることが違っていたんです。そこでみんなにいろいろと聞いていく立場が、社会人になって生きたというのはあります。
――最近の競走部の活躍はご覧になっていますか
それが最近はないんですよ。でも今年は行きたいと思っていて。というのも前回は久しぶりにシード権を落としてしまったじゃないですか。すごいつらいと思うんですよ。今の4年生もあがいているはずなので。やはり4年生が強くないと、駅伝では話になりません。16人のメンバーでも、出られなかったとしても4年生がいかに入ってくるかが重要なんですよ。早大が他の大学と違うと感じるのは一般の選手がいることです。下級生の時は駄目でも、4年生になったら活躍する。そして絶対にその姿を見ている1年生などがいるので、それはすごく感じます。
――現在の競走部の選手へのメッセージをお願いします
箱根に出れても出られなくても、とにかく4年間しかありません。よく、悔いを残さないように頑張ってと言われますが、僕は悔いが残っていて。ただ悔いが残っても最終的に社会人につなげられるような4年間にしてほしいなという思いがあります。似たような状況になったときに、ふと当時を思い出すことがあるんです。その時のことが頭によぎって、こうしようとか。なので本当に4年間を有意義に使ってほしいですね。
――ありがとうございました!
(取材・編集 岡部稜)
◆髙岡弘(たかおか・ひろし)
2006(平18)年人間科学部卒業。埼玉・川越高出身。学生時の自己記録:5000メートル14分12秒56。1万メートル29分35秒01。ハーフマラソン1時間3分00秒。箱根成績:2年6区8位1時間0分55秒、3年10区2位1時間9分40秒(区間新記録)、4年5区9位1時間22分17秒。実はその後箱根旅行の際にジョグで5区山上りをしたそうで、タイムは「2時間半以上かかった」とのこと。4年時よりも2倍以上の記録に、改めて「速かったなぁ」と思ったそうです。