今や早大のエースとなった永山博基(スポ3=鹿児島実)。永山の競技面、精神面の礎を築いたともいえるのが、永山の恩師であり鹿児島実高時代の監督である上岡貞則氏だ。高校時代を一番近くで見守り、その成長を間近で感じていた上岡氏に当時の永山の印象や現在の走り、そして将来像について伺った。
※この取材は1月8日に電話で行われたものです。
「将来日の丸をつける子だな、伸びる子だなということを感じていました」
――初めて永山選手の走りを見たのはいつでしたか
中学2年生の時でしたね。
――その時の印象はいかがでしたか
将来性のある、無駄のない走りをするものですからこれは強くなるなというのが第一印象でした。
――走りの特徴はどのように感じましたか
上下動作がなくてロードに向いた腕振りと言いますか、推進力に変えると言いますか。そういった上半身の動きをする無駄のない走りで、そういうところがこの子は強くなるなと実感して、鹿児島実業高校(鹿児島実高)にということで勧誘を始めました。
――初対面で話した時の人柄はいかがでしたか
中学生らしい素直な子で、人当たりも良くて頭も良くて、しっかりした子という印象でした。
――永山選手を指導する上で、どのような点を伸ばそうと考えていましたか
今もそうですがどちらかというと小柄な選手なので無理のないようにしっかりと筋トレをさせて体作りから始めました。中学3年生の時には日本の中学生記録を作ったくらいの子で、初めて鹿児島で中学生で(5000メートルを)14分台で走っています。私が育てた中で最も素質を持っているなと感じていました。ですからまずは体作りということで、筋トレを中心にして徐々に距離を踏ませていきました。ここで大成しなくても、これからの大学あるいは実業団で強くなる子だなということで、無理のないように育てていきました。
――日頃の練習への取り組み方や生活の様子はどのように見ていましたか
私の家で通学できない子供たちを家内が預かって下宿させて、いわゆる陸上部の寮みたいな感じでやっていました。ですので3年間付きっきりで見ていましたが、何も問題もない素直で頑張る高校生という印象でした。
――付きっきりで永山選手を見てこられたということですが、入学当初からどのように変わっていきましたか
私はグラウンドでしっかり練習を見て、家に帰ったらうちの家内が生活面の面倒を見ていました。入った頃よりもかなり成長したと思うんですけど、走力と共に独立心も芽生えて、長距離というのは自分でやらなきゃいけないんだという自覚を身につけてくれたと思います。
――家ではおとなしい子だったのですか
おとなしいですね。長距離の選手に多いんですけど、無駄口を叩かない、静かで内に秘めているものが強いという選手でした。
――永山選手は実力面、性格面において部内でどういった存在でしたか
鹿児島実高のエースだったんですけど、彼は六大学というのを頭に置いていまして、その中でも早稲田の前の監督だった渡辺先生(康幸前駅伝監督、平8人卒=千葉・市船橋)が、高校2年生のインターハイから「この子は良い」ということで目をつけていらっしゃいました。そういう意味で3年間目標を持ってしっかり頑張る子でした。高校生の時の力的にはインターハイ(総体)で入賞ということはないんですけど、2年生の時に大分インターハイで12位という結果を出して、そのまま第一志望の早稲田に行ったという感じでした。
――それでは永山選手は高校2年生の時から早稲田に入りたいという意思があったということでしょうか
そうですね。周りもと言いますか、永山のご両親もそうですけれどやはり強いところに行きたいという思いがありましたね。勧誘はいっぱいあったんですけど、やはり早稲田が第一志望でしたね。
――早稲田に行きたいと思う理由を当時、永山選手はおっしゃっていましたか
やはり渡辺先生の指導を受けたいというのが第一だったと思います。
――永山選手は1年生の時から高校駅伝(全国高等学校駅伝大会)に出場されていました。下級生の時から主力として活躍していたのでしょうか
そうですね、1年生の時からレギュラーとして活躍していました。
――高校駅伝では3年生の時に1区に起用されました。チームのエースとして信頼していたのでしょうか
ロード、特に駅伝においては言葉が妥当か分かりませんが能力的なものも必要なものですから。しっかり自分で段階を踏んで頑張る子でしたので、『花の1区』という区間も大丈夫じゃないかということで起用しました。中学時代に(5000メートルを)14分46、47秒で走っていましたので1区でもいけるかなと思いました。
――3年生になりチームのエースとなった永山選手の姿をどのように評価されていましたか
将来日の丸をつける子だな、伸びる子だなということを感じていました。
――エースとしてどのように部を引っ張っていましたか
キャプテンをしていましたが、私はキャプテンというのは走力にプラスして能力のある選手ということで起用しますので、そういう意味ではおとなしい性格なんですけど、チームをリードする力というのは抜群に強かったですね。
――当時、走りや精神面において弱点はありましたか
まだまだ体力がないなというぐらいでしたね。陸上に対する心構えとかリーダとしての資質というのは何も弱点は見受けられなかったですね。
――走ることを通じて『心』を育てるという鹿実のモットーである『心走』。永山選手は3年間でどのように成長しましたか
努力をして、心のスタミナをつけて、周りへの感謝の気持ちを持って走るというのが『心走』ということで選手に言っています。だから心走というのは自分を鍛えて、心と体を作って初めて生まれるものだということですね。彼はそういう面はしっかり持っていました。
――永山選手は普段すごく丁寧に取材を受けてくださるのですが、それも鹿実での3年間によるものでしょうか
何に対しても素直な人生を歩く、強い精神力を持って戦っていくというのが社会に出て大事だということで指導、人間教育をやっているつもりです。そういう意味では永山自身も私の考えを引き継いで、素直に頑張っている姿があるのではないかと思います。
――素直で強い精神力に関するエピソードは何かありますか
うちの子供というのはどこででも素直で、彼も市田兄弟(市田孝・宏、現旭化成)ですとか高田(康暉、平27スポ卒=現住友電工)のそういう後姿を見て育ってきましたので、エピソードというのはありませんが、そういう先輩の後姿から感じ取っていたと思います。
――永山選手を叱ったことはありましたか
3年生になってキャプテンとしてやるべきことが自分で分からない、若干自己中心的な部分が見られましたので、やはりキャプテンというのはこうでなければいけないということを怒るというよりも強く教えてきました。礼儀作法や元気がないというような小さいことで、キャプテンとしての役割に欠けているというようなところぐらいしかありませんでした。もっともっと怒られるキャプテンもいるんですけどね。家庭環境でもお父さん、お母さんも厳しい方ですので、私も心の底から怒ったということはないですね。
――スランプに陥られた時期はありましたか
2年生の時に足が痛いということで、なかなかしっかり走ることができないというようなことがありまして。3カ月くらい本人も悩んだ時期があったと思います。
――そういった時期はどのように指導されていたのですか
今明治大学にいる田中龍太という永山とツートップだった選手がいまして、お互いにライバル意識を持っていました。私がどうこうというよりも2人で切磋琢磨してスランプを脱却したというのが大きいかと思います。
――一番印象に残っている思い出は
2年生の時の大分のインターハイでの快走ですね。予選を2年生ながら通過して決勝でも頑張って12位という結果を残しました。彼は生活面よりも走りの面で非常に印象深い子でした。
――早大進学に際して何かアドバイスはされましたか
「どこに行ってもね、高校時代を思い出して頑張ればしっかりできるよ」というアドバイスをしました。
「足が痛いままでも抜かれないっていうのはエースの走りだった」
――今でも駅伝などでの永山選手の結果は見られていますか
卒業生はほとんどチェックしています。大会の前には必ず電話をします。今回の箱根も不調でしたけれど、病み上がりだからあまり無理するなと言いました。終わってからは彼にとっては不満足な結果でしたけれど、「足が痛いままでも抜かれないっていうのはエースの走りだったよ、早大のエースとしての仕事はしっかり果たしたよ」と電話をしました。昨日も「将来のことを考えて目先のことだけで故障してはいけないのでじっくり考えなさい」という話をしました。
――大学入学後の走りや結果を見て感じることは
彼が1年のときに渡辺先生から監督が替わられました。そういう意味では早めに替わったから良いと思うんですけど、途中で替わった場合には本人も考えると思うんですけど、渡辺さんの意志を監督さん(相楽豊駅伝監督、平15人卒=福島・安積)も引き継いで永山を指導してくれていますのでそういう面は良かったですね。彼は今は(1万メートルの自己ベストが)28分20秒ちょっとですけれど、27分台にいく選手だと思っていますのでケガをしないように頑張ってくれたらいいと思います。
――永山選手はレースへの意気込みを聞くと「自分の力を確かめたい、楽しみたい」とよくおっしゃるのですが、高校時代からでしょうか
そうですね。きつい時、あるいは足が痛い時とかにも苦しみを楽しんできますというようなことを言っていましたね。
――今年の箱根はどのように見ていたか
全然動いていなかったですよね。彼の軽やかなフォームではなく足を気にしているなというような感じでした。
――大学3年生の1年間は永山選手にとって試練の年となりましたが、ラストイヤーはどうなると思いますか
私はもっともっと強くなると思います。陸上に対しては早大というところでしっかり勉強してオリンピックへの足がかりを作ってくれれば良いと思います。
――これから永山選手にはどのような選手になってほしいですか
ニューイヤー(全日本実業団駅伝)で優勝した双子(市田兄弟)ですとか、良い先輩たちを持っていますので日本を代表する選手に負けないように、鹿実らしい力強い走りをしてくれるように願っています。
――ありがとうございました!
(取材・編集 吉村早莉)