【箱根駅伝号紙面取材】『箱根と小林快』 インタビュー全文

駅伝

 100年を超える歴史を誇る早大競走部。これまで数々の名選手を輩出してきたが、世界選手権で長距離種目のメダルを獲得した者はいなかった。しかしことし8月、ついに早大競走部OBからメダリストが誕生した。その男の名は、小林快(平27社卒=現ビックカメラ)。今では競歩選手として世界と戦う小林だが、大学3年時までは東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根)出場を目標に、長距離種目を主として練習していた。今回は「箱根を目指した小林快」のテーマで、早大時代のお話や箱根にまつわる思い出などについて伺った。

※この取材は12月6日に行われたものです。

箱根への強い憧れ

丁寧に取材に応じてくれた小林

――まず、小林選手が陸上競技自体を始めたのはいつになりますか

 小学生のころ私はすごく足が遅くて、クラスでビリだったんです。私の住んでいた市は小学校からクラブ活動ではなく部活動がありまして、小学校4年生でどの部に入ろうか考えていた時に、足の遅い私に対して足の速い友達がなんの気も遣わず(笑)、「一緒に入ろうよ」と誘ってきました。元から「足が速いのは良いなあ」と思っていたので、それで入ったのがきっかけです。

――元々は長距離種目をやっていたということでよろしいでしょうか

 小学生なので、短距離や長距離ではっきりとした区別はありませんでした。その中でいろいろ練習をしながらどっちがいいか決めていって、最終的に長距離になりました。

――では競歩を始めたきっかけは何になるでしょうか

 私の学年がみんな強くて、みんな高校1年生の最初の試合から選考を突破して試合に出られるという状態だったのですが、私がギリギリ出られなかったんです。でも競歩だけは3枠のうち1枠が余っていたので、「(出たら)どうだ?」という話がありました。その前に中学生のころふざけて競歩のまね事をしていたら、それを見たコーチに「お前走るの駄目だったら、競歩もいいかもな」と冗談交じりに言われたことがあって。「いや、やらないですよ(笑)」と返していたのですが、そのことを思い出してやってみようと思いました。

――結果として高校時代は長距離と競歩を両立するかたちになったと思うのですが、練習量のウェイトとしてはどのような比率でやっていましたか

 (地元が)秋田で雪が降るので、冬は競歩ができないんですね。雪が積もっていたり地面が凍っていたりすると競歩ができないので、国体(国民体育大会)あたりまでは競歩、その後は走るというかたちで半年ずつやっていました。

――そこから早大に入学されると思うのですが、早大を志望した理由はなんでしょうか

 競歩をしたくなかったからです。高校の時やってみたはいいものの、やっぱり駅伝が走りたかったんです。最初は枠が空いていたからその時だけやるつもりだったのですが、そこからずるずるとずっと競歩をやらなければいけなくなってしまいまして、「嫌だ嫌だ」と言いながら高校3年間やっていました。そんな中で進路先を調べていると、早大には競歩選手がいなかったんです。知らなかっただけで結局はいたんですけど(笑)。「競歩選手がいないなら、競歩をやらなくていい。箱根を目指せる」と思って、早大を志望しました。

――その時期から箱根に対する憧れなどはあったのでしょうか

 そうですね。中学生のころから箱根を走りたいと思っていました。早大を志望したのも、競歩選手がいなかったのに加えて毎年箱根に出ているという理由もあって。ずっと箱根は憧れでした。

――箱根に憧れた具体的なエピソードはありますか

 家族全員が好きで、中学生の時に箱根を旅行で見に行ったんですね。そこで今井正人さん(順大卒、現トヨタ自動車九州)の走りを見まして。私はゴールの芦ノ湖にいたんですけど、人混みでゴールが見られないんですよ。言ってしまえば5人で(タスキを)つないできたとはいえ、たった1人が走っているだけなんですよね。でも「たった1人が20キロ速く走っただけで、ゴールが見られないくらい人が集まるのか」と思って。すごく感動して、こういう風になりたいと思いました。

――今井選手の走りをご覧になって箱根を意識されたとのことですが、山上りに興味を持ったのでしょうか

 そうですね、当然5区を走りたいと思っていました。小さなころから祖父が箱根を見ながら、「お前はここを走るんだぞ」と言っていて、「ここ走るんだ、僕」と小さいころから思っていたので、5区を走るものだとずっと思っていました。

――5区志望だったんですね

 はい。5区か6区。上りか下りをずっと走りたいと思っていました。

――早大では社会学部にご入学されて、練習拠点の所沢とは距離が離れていたと思うのですが、それで練習の面で苦労されたことはありましたか

 いえ、むしろ自分の時間をうまく使えるようになったと思います。今早大の競走部で本キャン(早稲田キャンパス)の人たちは、「本キャンジョグ」といって授業と授業の間に本キャン周辺をジョグしているのですが、実はそれを最初にやったのは私で。それまでは、所沢に帰ってきてからみんなジョギングをしていたんですよね。でもそれが嫌だなと思って。空きコマを1つ作れば、休み時間を含めると2時間空くわけですよ。「練習できるじゃん!」と思って。そういうことを考えるようになったので、逆に時間をうまく使うということができるようになったと思います。考える能力もついたと思うので、不便だったことは特には無いですね。移動が面倒くさいな、ぐらいで(笑)。

――大学1、2年生時は競歩については大会に出る数週間前から調整というかたちになっていたと思うのですが、両立の難しさは感じていましたか

 両立するつもりはありませんでした。競歩は結局3年生からはちゃんとやったんですけど、2年生までは出ろと言われて仕方なく出ていたので。自分の中では別に(競歩で)入賞しなくてもいいと考えていたので、そんなに両立しようとは思っていなかったです。

――自らの意志で出ていたのではなかったのですね

 そうですね。関カレ(関東学生対校選手権)、全カレ(日本学生対校選手権)は(対校)得点があるので、得点のために出てくれということで。「得点取れるかどうかは分かりませんが、出ます」という感じで1、2年生の時は出ていました。

――2年時の全カレから走りに集中というかたちになったと思うのですが、なぜこのタイミングで競歩の大会に出ないときっぱり決心されたのでしょうか

 ずっと(走りに集中したい)と言っていたんです。ようやく礒監督(繁雄、昭58教卒=栃木・大田原)が「今回入賞したら、もう競歩をやらなくていい」と言ってくださって。なぜこのタイミングかというよりは、監督に認められたのがこのタイミングだったということです。

――そこから長距離一本で練習している間、競歩について考えることはありましたでしょうか

 いや、無かったです。5月の関カレの時に補助員をやって、久々に友達が歩いているのを見て、「あっ、みんな歩いてる」と思うくらいでした(笑)。その時は目の前にいるから、頑張れと思っただけですね。全然競歩について考えることは無かったです。

――そのときはそこまで競歩に強い思い入れがあったというわけではないのですね

 そうですね、特に強い思い入れは無かったですね。

――そこから残念ながら箱根出場を諦めざるを得なくなったと思うのですが、その時の心境は今思い出していかがですか

 目指していたものが急になくなったので、宙ぶらりんになりました。競歩をやることになりましたが、競歩もそれから数カ月は適当にやっていました。全カレも2週間の練習で入賞できたので、正直ちょっと競歩をなめていて。「それでも入賞するから…」と思っていました。

――そこから競歩にきちんと向き合えるようになった転機はありましたか

 4年前のモスクワの世界選手権で高校の時からよく勝負していた西塔くん(拓己、愛知製鋼)が6位で入賞しまして。この6位ってどれだけすごいかというと、全ての種目の最年少入賞なんですよ。そして当時日本の競歩の最高順位タイでもあって。今はハキームくん(サニブラウン・アブデルハキーム、城西大城西高)が最年少入賞を更新したのですが、つまりそれぐらいすごいことなんですよ。それを見て、僕は何をやっているんだろうと思って。西塔とはばかを言い合える間柄で、そんな西塔が入賞しているんですよ。かたや僕はとなったときに、何しているんだろうと思って。せめてちゃんと(競歩に)向き合おうと決意しました。

――競歩の練習を一度辞めて再開するにあたって、ブランクを感じることはありましたでしょうか

 それまでもさっき言った通り2週間ぐらい(の練習)で試合に出ていたので、最初は「まあ、こんなもんでしょう」と思っていました。そこからある程度戻し方も分かっていたので、特にブランクで困ったことは無かったですね。

――逆に長距離の練習をしっかりとやっていたことが、競歩に生きているなと感じる部分はありますか

 心肺機能がすごく高くなったのは、長距離をやっていたことが今でも生きていると思います。あとは当然足への衝撃は競歩よりも走る方が大きいので、そういった意味でも体が強くなったかなあと。今でも他の選手に比べてケガが少ないので、それは走ってきたおかげかなあと思っています。

――当時一人で競歩の練習をすることも多かったと思いますが、仲間がいないということで難しさを感じる部分はありましたでしょうか

 いや、無かったですね。逆に自分で練習を組み立てられますし、自分のやりたいようにやれて。例えば400メートル68秒のインターバル走をやるとなったときに、引っ張る人によって65秒になってしまったり、69秒になってしまったりしてしまうと思うんです。それを一緒に練習するわけではないので、全部自分で組み立てられるんですよ。競歩の場合、1周96秒で歩きたかったら96秒で歩けばいいですし、94秒で歩こうと思ってちょっと(ペースを)あげたら、94秒で歩けるんです。自分の思った通りに練習を組み立てられるということが、逆に良かったなあと。なので、人がいなくて困るということは無かったです。

社会人選手としての道を歩むきっかけとなった2020東京五輪

――競歩で社会人選手になるという決意はいつされたのでしょうか

 東京五輪が決まった瞬間です。それまでは教員になりたくて勉強していたんですけど、ちょうどテレビで東京五輪開催が決まったのを見た瞬間に、勉強している本をポイっとゴミ箱に捨てました。「あっ、競歩やろう」と思いました。まだ競歩をその時はなめていて(笑)、「五輪に出られるし、やろう」と思いました。

――もし仮に2020年の五輪が東京開催でなかったら、今小林選手がここにいらっしゃらなかったという可能性はありますか

 絶対あると思います。

――やはり自国開催の五輪に引かれる部分があったのでしょうか

 やっぱりヒーローになれると思うんですよ。出るだけでまずはすごいことじゃないですか。あとさっきも言った通り、競歩だったら五輪には簡単に出られると思っていたので。今は思ってないですけど(笑)。言ってしまえば、ヒーローになれる道が確実にあるんですよ。確実じゃなかったんですけど(笑)。「じゃあ、こっちに行こう」という感じでした。

――そこから創部すぐで、選手も岡田久美子選手しかいないというビックカメラ陸上部を所属先に選んだ理由としては何が挙げられますか

 歴史が浅かったからです。先ほど大学では一人で良かったとお話しした通り、人に左右されたくなかったので、コーチがいてほしくなかったんです。自分の競技人生なので、全部自分で決めたかったんですね。あとは全く競歩とは話が関係なくなるんですけど、大学生のころ1回私財布を紛失しまして。その時にポイントカードをなくしたということでいろんなところに連絡をするわけですが、ビックカメラの対応が一番素晴らしくて(笑)。こういうところで働きたいな、というのも一つの理由でした。

――ビックカメラ以外の陸上部という選択肢については、あまり考えなかったのでしょうか

 当然ここに受からなければ探していたと思うんですけど、とりあえずはビックカメラが第一志望でした。

――現在ビックカメラでの練習は、メニューもご自身で考えて、というかたちになるのでしょうか

 今は所属の垣根を越えて連絡を取る仲間が何人かいまして、その人たちと連絡を取りながら、自分ではこうしたい、周りの人はこうしたい、じゃあ同じような練習メニューだからここは一緒にやろう、ここは別でやろう、という風にやっています。長い距離を歩くので給水が必要なのですが、そういったところは陸上部のサポートメンバーの方に手伝ってもらってやっています。

――会社からのサポートも手厚いのでしょうか

 そうですね。すごくありがたいことにいろいろな面で助けていただいているので、特に不自由なく自分のやりたいように練習させていただいています。

――続いて世界選手権のお話しを伺いたいのですが、50キロ初挑戦で世界選手権への切符をつかまれたと思うのですが、元々20キロと50キロ、どちらで出場を目指していたのでしょうか

 リオ五輪で20キロの代表を逃したのですが、大学の時から50キロの方が適性があると思っていて。でもリオ五輪までは20キロでやろうと思っていて、次の世界選手権からは50キロに挑戦しようと思っていました。たとえリオに出られたとしても次は50キロ、出られなかったらその時点で50キロに練習をシフトしようと思っていて。結果出られなかったので、出られないと分かった瞬間に、50キロにシフトしました。

――そのタイミングの理由としては何が挙げられますか

 練習の状況から20キロでも出られると思っていたので、とりあえず2016年は20キロを選びました。

――結果50キロで銅メダルを獲得されましたが、今後も50キロでやっていこうと考えていますか

 難しいですね…。「私の専門種目は競歩です」と言えるようになりたいんですよ。なので別に50キロにこだわるつもりはなくて。ことしも20キロの選考会にも出たので。結局どちらがいいかとなったときに50キロを今回は選んだだけで、どちらもやりたいと思っています。来年以降は20キロも50キロも狙いつつ、勝負できる方をその都度選択していきたいなと思っています。

「箱根を目指したからこそ、種目は違えど陸上を続けて今僕はここにいる」

――小林選手が2年生だった時の全カレの当会のインタビューを見返した際に、「最悪箱根専用というか、箱根以外では使えないと言われても箱根は走りたい」とおっしゃっていたのが印象的でした。小林選手にそこまで言わせた箱根の魅力とは一体なんでしょうか

 難しいですね…。やっぱり夢だったんですよね、箱根が。箱根を走りたくて早大に入って、なんなら高校が秋田工高なのも、走るのが一番速くなりたかったから県内一の高校を選んで。そう考えると、僕は箱根のために自分の進む道を選択してきたんですよ。そこまで箱根のために人生を選択してきて、走れないとなったら自分の人生はなんだったのだろうというところが一つありますね。人生を懸けて箱根を目指していたので、箱根を走りたかった。あとは最初に言った通り、人がただ走るだけでこんなにもたくさんの人が集まって、感動して、というのは本当に素晴らしいものだと思うので、そこに自分も加わりたいと思っていました。

――昨今箱根不要論など、箱根に否定的な意見も一定数出ていると思うのですが、それに関してはどう感じていらっしゃいますか

 うーん…不要論ってどこが不要と思っているんですかね?

――山上り、山下りが五輪のマラソンに緒結しない、などでしょうか

 でもこの前大迫さん(傑、平26スポ卒=現ナイキ・オレゴン・プロジェクト)も2時間7分19秒で走りましたし…。日本記録保持者の高岡さん(寿成、カネボウ陸上競技部監督)は箱根を走っていないですが、日本歴代2位(記録所持者)の藤田さん(敦史、駒大コーチ)は走っていますし。今マラソンが低迷していると言われているので、低迷な理由を探した結果、箱根じゃないかという仮説がたまたま今出てきたのではないかと思っています。結局全員が五輪を目指すかといったらそうじゃないと思うので、いいんじゃないですかね。箱根は箱根で。先ほども言った通り僕は箱根を目指していて、五輪なんて全く考えていなかったので。五輪が全てじゃないと思っているので、いいと思います。箱根には出られなかったけど、箱根を目指したからこそ今僕はここにいるので。そういった意味でも、箱根はあっていいんじゃないですか。

――箱根は続いていく、と

 箱根を目指していたからこそ、マラソンとか長距離じゃなくてもこうやって陸上を続けている人が少なくともここに一人はいるので。僕だけじゃなくて他にもいるんじゃないでしょうか。

――現在現役早大生の後輩との関わりはありますか

 今競歩の後輩のメニューを私が立てていて。溝口(友己歩、スポ2=長野東)は自分で(メニューを)立てたいということで、男子の二人(高橋和生、社3=岩手・花巻北、高橋雄太、スポ3=千葉・佐原)のメニューを私が立てています。まずその二人とは当然関わりがありますし、よく連絡を取っています。たまに練習を見に行くと、他種目の選手ともちょくちょく話します。それぐらいですかね。

――ご自身が現役を続けている傍らで後輩の練習メニューを考えているということになると思うのですが、両立できているのでしょうか

 やっぱり練習を見に行くというのは少ないですね。結局は自主性に任せています。メニューは自分が大学生の時にやっていたものに、それぞれのタイプなどを考慮してアレンジを加えて出しているんですけど、結局はアドバイスしているという程度なので、それほど自分の負担にはなっていないです。例えば、足が痛いとか体調が悪いという時に無理してやったら良くないじゃないですか。「当日の状況に合わせて、自分で変えても構わないから、自分でこれが最適だと思うものを選べるように」と言っているので、結局は自分で考えさせています。私自身はそんなに大変なことはないかなあと考えています。

――後輩と関わっていく中で、後輩から刺激を受けることはありますか

 後輩がベストを出したとかいい順位を取ったとなると、自分も頑張ろうと思います。あとアドバイスをしている以上、「この人のアドバイスは信頼できる」と思ってもらわなければいけないと思っているんですね。となるとやはり結果を出し続けなければいけないと思うので、そこはすごく自分の中の覚悟につながっているかなと思います。

――最後に、箱根を走る早大の後輩へのメッセージをお願いします

 頑張ってほしいです。走れなかった人の分まで、と言う人も多いですが、走る理由はそれぞれだと思うので、自分のために走ってほしいです。後悔しないように、100パーセント全力を出してほしいです。例えば全員が100パーセントを出してそれより周りが上だったら、それはそれでしょうがないじゃないですか。何位を目指してとかそういうことも言わないので、100パーセントを出して頑張ってほしいです。

――ありがとうございました!

(取材・編集 藤岡小雪)

世界選手権のメダルと色紙を持って、写真を撮らせてくださいました!