『恩師』企画4回目を飾るのは、石田康幸(商4=静岡・浜松日体)の恩師である、秋田大和氏だ。中学校2、3年生の時の担任を務めた秋田氏のことを石田康は「自分が成長するきっかけになった先生」と話している。そんな秋田氏に中学時代のお話を聞き、文武両道を体現する石田康のルーツを探った。
※この取材は11月30日に行われたものです。
「やんちゃ小僧でした」
――初めて石田選手を見かけたときの印象は覚えていらっしゃいますか
やんちゃ小僧でした(笑)。目に力のある子だなというのも感じもしました。
――それはいつ頃だったのでしょうか
実は私が教員に新採用になって最初に持ったクラスの子だったんですね。(石田康が)中学2年生のときでした。
――中学時代の石田選手の様子はいかがでしたか
面白いし、友達といい意味でバカができるけど、正義感もあって、男気のある生徒でした。
――思い出に残っているエピソードはありますか
最後の卒業式の時に答辞を代表で彼がやったんです。その文を一緒に考えたのですが、本番だけ内容が違いまして。彼がアドリブで僕をはじめとする先生方を号泣させるような内容をサプライズで読み上げてくれました。粋なことをしてくれる子でした。
――その内容は覚えていらっしゃいますか
答辞の文章を僕も一緒に作っていたもんですから、セリフをわかっていて当日のお楽しみがないじゃないですか。「こんなに大好きな中学校なのにもっとずっといたいのに、みんな卒業おめでとうと言うけど卒業しなければならないんですか」というような内容のことを言ったんですね。普段は絶対に言わないような答辞の内容で、こみ上げるものが自分も彼もあって、卒業生も在校生も職員も号泣しました。今では伝説の答辞になっています。
――石田康選手本人に秋田先生の話をお聞きした際に、生徒会長になった話をされていましたが、覚えていらっしゃいますか
「(生徒会長は)お前しかいないだろう」と話しました。「自分の可能性に挑戦してみろ」と言いました。大きいステージに立たせたかったので。見事やってくれました。
――学校ではリーダー的な存在だったんでしょうか
リーダーなんですが、リーダー面を一切見せずに、みんなから一目置かれていながらもみんなに近かったです。今まで出会ったことのないような子でした。
――その時、既に陸上をされていましたが、陸上に対する姿勢はいかがでしたか
もともと、野球部で野球に燃えていたんですが、中学の野球部を引退してから駅伝を始めまして、ストイックに練習を自主的にしていました。山間の町だったので、山を常に走っていました。
――部活として陸上はされてなかったんでしょうか
陸上部ではなくその時だけの特別に編成されるチームでした。
――その時から早大についての話は聞いていましたか
渡辺康幸前駅伝監督(平8人卒=千葉・市船橋)のお名前をいただいたという話もあったりして、「将来はその監督の下で走りたい」ということと「駅伝だけではなく勉学の方でも磨けるから早大に行きたい」というような話はあったと思います。
――ちょうど早大が学生駅伝三冠を果たしたときに、石田選手は中学校3年生だったと思いますが、その話はしていましたか
本当に彼の夢だったと思います。彼がすごいなと思ったのは、駅伝も優秀だったんですけど、高校も学業の特待生で進んでるんです。駅伝を使わずに自分で勉強を頑張って、勉強の方で高校も行って早大にも入ったというところが、彼のすごいところなのかなと思います。
――中学時代の勉強の様子はいかがでしたか
3年生になってグングン伸びていきました。それまでもできる方でしたが、最後はトップの成績を取るところまでいきました。自分を追い込んでやっていたのではないかなと思います。
――石田康選手は「中学時代特有のダメだった時期に秋田先生に目標を与えてもらった」とおっしゃっていました
具体的には何を言ったか覚えていないのですが、「自分の仕掛けた勝負は自分で成し遂げるべきだ」と言ったような気がします。あとは学業もということで「ハードルを高くしているからこそそれを成し遂げないと自信にならないよ」と話をしました。あとは「夢があれば道が開かれる」と常に言っていました。
――石田康選手を見ていた2年間で成長した部分は感じましたか
言ったことを成し遂げる、いろんなものを受け入れる器があることを卒業する時に感じました。まあ、自慢の教え子ですね。
――高校は浜松日体高に進まれましたが、進路に関しての話はされていたのでしょうか
あえて、駅伝のしづらい特進科に進んでいるので、他の駅伝の選手よりも練習時間が少ない中でやっていたと思います。駅伝も学業もということを成し遂げた子なんだと思います。
――アドバイスはされましたか
公立の進学校と迷っていて。駅伝という環境は圧倒的に浜松日体でしたし、浜松日体ならば推薦もかかっていたんですね。公立の方は推薦がないので迷っていました。公立の方にも合格できる状態に自分を磨いて浜松日体に入るように、(石田選手の)親父さんと話をしていました(笑)。「内申点が満点になったら(浜松日体を)受けさせてやる」というような話をしまして、そしたら満点を取ってきて。それで「受けさせてください」と言ってきたので、頑張って来いという感じになりました。駅伝ばかりにならないで学業の方もこなして、浜松日体に進んだんだと思います。
「(夢をかなえる)その突破力に驚きました」
――石田康選手が中学を卒業されてからも話す機会はありましたか
先日の箱根(東京箱根間往復大学駅伝)の後、帰ってきたときに「とんかつに連れて行ってください」という話で、一緒に行きました。帰ってきたときに顔を出してくれるような感じで、今でも来てくれます。
――箱根後にご飯に行ったときにはどんな話をされたんですか
2年生の時も走れる可能性があったのにもかかわらず、体調を崩してしまい、外されたというような話です。中学の時も大事な駅伝大会の時に風邪をこじらせて上手く走れなかったという、必ず最後の詰めが甘いんですよ(笑)。そういう昔話をしながら、中学の時と変わらないなというバカ話をしていました。
――その時の話を部員日記に書いていらっしゃって、「どこか足りない自分に『それも魅力のひとつだ』と言ってくれた」と書かれていました
そこが遠い存在ではなく、人間ぽいところですよね。けれども、箱根で走りたいということを成し遂げましたし、そういうところがかっこいいなと思いました。すごい人間味が溢れていてかわいいところなんですね(笑)。
――話が少し戻ってしまいますが、早大に進学することになったことを聞いた時、どのように感じましたか
早大が決まったと報告を受けた時に、「本当にこいつは夢を実現するかもしれないんだ」と、その突破力に驚きました。康幸の人生を見てみたいなと思いました。今の教え子たちにも希望を与えるような存在です。
――進学にあたって、アドバイスはされましたか
アドバイスよりも、「行ってこい」と。言っても聞かないだろうという子なので(笑)。
――大学では下級生から駅伝にエントリーされつつも実際に走ることはありませんでしたが、何か話は聞いていましたか
自分の不甲斐ない部分を僕に見せたくないタイプで。一人前になってからでないと話をしてもらえないと思っているのかもしれないです。一切話はしていません。
――秋田先生自身はこの時期、気にされていましたか
やっぱり気になりました。何回も励ましたいと思うこともありましたが、「今言わなくても彼は彼でやっているから、今は見守らないといけないな」と自分に言い聞かせていました。
――3年生から早大を背負って試合に出場する機会が増えてきました。その時はどのように感じましたか
率直に嬉しかったです。人として尊敬できますね。自分が大事に言っている決まり文句が 『意志あらば道あり』という言葉で。本当にそれを実現できる人がいるんだなと見ていて感じています。
――箱根はテレビでも放映されていますが、見ていらっしゃいましたか
もちろん食い入るように見ていました。ハラハラドキドキでしたけど、こみ上げるものがありました。
――現在は4年生になり、早大では主力として活躍されていますが、そちらの点に関してはいかがですか
自分の思いや考えというのは、チームのためとか考えなくてもイコールになっていると思うので、自分のためにやることが仲間のためになっているから自分のために頑張ってやり抜いて欲しいと思っていますね。ことし(の箱根)は応援に行きますので、楽しみにしています。
――最後になりますが、最後の箱根へ向けて伝えたいことはありますか
『意志あらば道あり』だから、やり遂げろということだけですね。
――ありがとうございました!
(取材・編集 平松史帆)