【連載】『箱根路の足跡』最終回 高田康暉駅伝主将

駅伝

 主将でありエース――。高田康暉駅伝主将(スポ4=鹿児島実)が目指したのはそんな存在だった。しかし、ラストシーズンはケガに苦しみ続け、出雲全日本大学選抜駅伝(出雲)、全日本大学駅伝対校選手権(全日本)を回避。東京箱根間往復大学駅伝(箱根)にのみ照準を合わせ、練習を続けた。満を持してエース区間の2区へ出走するも、順位を大きく落としてしまう。だが、その窮地を救ったのは紛れもなく、高田が1年間作り上げてきたチームの底力だった。主将という大役を振り返り、いま何を思うのか。そして今後の競技についての思いを伺った。

※この取材は1月27日に行われたものです。

「監督やチームに対して恩返ししたい」

主将として臨んだ最後の箱根を振り返る高田

――今はもう実業団の方に合流して練習をされていますか

はい、そうですね。

――大学の練習との違いは感じますか

いえ、特に。もともと渡辺康幸前駅伝監督(平8人卒=現住友電工監督)のもとでやっていたので、自分のリズムでやれています。チームスポーツというよりは自分磨きとしての陸上競技へとなっていき、もう自分がプロという立場になっていくので、その準備をこの3カ月間でやっていきたいと思います。

――練習には慣れましたか

練習自体には、足を痛めてしまったのでいまはゆっくりとやっている感じです。

――住友電工の雰囲気はいかがでしょうか

いまは竹澤さん(健介、平21スポ卒=現住友電工)と伊藤さん(和麻、平23スポ卒=現住友電工)というワセダのOBの方と、渡辺監督という感じなので気楽にやれているかなという感じですね。

――竹澤選手は高田選手が目標とする選手としてしばしば名前が出ますが

オリンピックも経験していて、特にケガで無理をしていた中で、ここまで復活してきていて。やはり競技に対する考え方も違っていたり目標に対する意識も違っているので、そういうところが自分にまだまだ足りていないなということを感じます。まずはしっかり追いつくということを目指してやっています。

――高田選手は出雲、全日本の出走を回避しましたが、その間駅伝主将としてチームにはどう関わっていましたか

普段と変わりなく、自分がケガをしたから落ち込むということではなく、チームは試合に対して動いていくので、その中でケガして遠慮することはなく、普段通りの雰囲気は保てたらいいなと、チームに対してはそういう考えでした。自分としては、もちろん出雲・全日本と目の前にはあったのですが、チームとしてはそれにひとつずつ取り組むかたちで、自分としては1日も早く現場復帰してレースに出ること、そして最後の箱根に向けてやれればいいという気持ちでした。

――ではその期間はレースに対しては箱根に照準を合わせて練習していたということですか

そうですね、全日本が終わった後にやっと少しずつメニューを減らして合流したかたちだったので、無理に合わせるよりはしっかり最後の箱根に向けていけばいいと思っていました

――箱根で2区を走ると決まったのはいつ頃ですか

試合のエントリーが決まる前から、最後の集中練習をしっかりこなしたら問題なく2区に使えるかなという感覚が自分の中にもあって、監督ともその話もしていました。最後1カ月の練習も問題なくしっかりこなすことが出来たので、自分からも「いかせてください」と話しました。監督も練習も最後までできたということで、信じてもらえたという面が大きかったです。

――そのときのお気持ちは

駅伝主将として1年間チームを引っ張ってきて、やはりいくらチームを引っ張ったといっても結果として背中で引っ張れるというか、主将が走れないと駅伝も勝てないですし、そういった中で最後の箱根は自分がちゃんと走って、勝ちに貢献する走り、自分がそういう役割をしっかり果たして、監督やチームに対して恩返ししたいという気持ちでした。

「本当の底力がないとできない」

――では箱根往路当日の話についてお伺いします。まず、1区の中村信一郎選手(スポ4=香川・高松工芸)からタスキを受け取った時の気持ちを教えてください

過去2年とほとんど似たような、きょねんもその前も先頭とだいたい45秒差で前の人数もそれなりにいるという、すごく良い位置でタスキをもらえて。特に(中村信選手は)同じ4年生だったので、やってやるぞという気持ちで、3位くらいまでは上げられるかなと、とりあえずこの流れに乗せていければいいと思っていました。

――中村信選手の走りを見て感じることなどありましたか

1年のころから一緒だったのですが、特に努力してきた仲間でもありましたし、これが最後のリレーでした。そしてこの1年彼の成長のおかげでここまでチームを立て直すことが出来たので、そういう思いを感じタスキを受けました

――2区の前の集団に、東洋大の服部勇馬選手がいらっしゃったと思うのですが、意識することはありましたか

明らかに自分のマックスの走りをできるとは思えていなかったので、とりあえず68分台を出すために、過去2年間は前半を28分台で入るなどしていましたが、ことしは本当に前半も抑えるというか最初から最後までイーブンなペースでいけば問題ないのではないかと思っていました。なので67分台を出す準備もしていなかったですし、特に勇馬がいたからついて行くという暴走はせずに自分のペースで、次の凜太郎(武田、スポ3=東京・早実)に前が見える良い位置で渡せたらなと冷静にレースを進めていました。

――2区で区間17位だったことについてはいかがですか

後半かなり失速してしまって、そこが自分の中でも悔しかったですし、チームに対しても最後自分がいけると言って2区を走った中、足を引っ張ってしまったことで、14位まで順位が落ちてしまいました。走った直後は申し訳ないという気持ちがいっぱいで、その時点で優勝争いどころか下手したらシード権落ちもあるんじゃないかというところだったので、本当に言葉にならなかったというか、申し訳なかったです。

――4位という結果はいかがですか

自分自身は走れなくて正直申し訳ない気持ちがあるんですが、やはりチームとしては立て直しの利くチームであり、崩れても自力で4位まで、3位も射程圏内の位置まで持ってくるのは、本当の底力がないと出来ないと思うので、そういった意味では成長したチームだなと感じました。特に駅伝を今までやってきて、助けられるということは正直経験がなくて、どちらかというと、(勝負の)キーになっていたことが多かったと思います。そういうところに駅伝の醍醐味、自分だけではなくチーム全体でつなぐというのを感じ、勉強になったことが僕自身ありました。

――ことしはご自身が4年生、そして駅伝主将になられて、生活面で変わったことはありますか

特に変わりはなかったのですが、3年生までは自分のペースで、練習にしても生活にしてもやっていくことが多かったのに対し、4年生になって無意識に見られている、見本になっている自覚は出てきました。いい意味で生活でも練習でも、いいリズムでいられました。ただそれが自分にとって、失敗だったのかなと。周りがそんなことをしてほしいと思っていたとは思いませんが、変に考えず今まで通りマイペースでやっていけばよかったのかなという心残りはあります。終わったから言えることですが、そういう変化が僕には心残りです。

――高田選手がケガをした際の、日常の過ごし方は

治療に行く回数もかなり増えて、温泉などに行って、ケアに与える時間が多くなりました。腐るということはまったく無く、必死に早く治るような努力を、練習以外の生活でも考えることが多くなりました。

――さきほど、無意識のうちに気を張った生活をしていたとおっしゃっていましたが、リラックスするための方法はありますか

リラックスする方法というか、特に駅伝はチームスポーツだったので、例えば特別扱いだったりとか、チームとしてみんなとやらなければいけないことはしっかりやるとか、そういうところはうまくやっていたと思っていました。そこで全部を自分でやろうとしてしまっていて、そこがやはり負担につながっていたところがありました。自分でもできると思ってましたが、実際はそんなに簡単ではなかったかなと思います。

「仲間と続ける陸上競技というものを学べた」

「日の丸を着たい」という思いを胸に、これからも走り続ける

――ことし、ご自身の代がチームを引っ張ったということで、後輩の皆さんとどのように接していましたか

僕の場合は普段から後輩と関わることが多かったので、武田凜太郎や平(和真、スポ3=愛知・豊川工)などとくだらないことでばかみたいに盛り上がったり、普通の学生みたいなことは後輩とは特にしていたかなと思います。

――4年生のみなさんとの団結力を感じた瞬間はありますか

正直あまりまとまりもないと思うのですが、でも最後の箱根になった時に、エントリーメンバーも6人で、箱根を走らないと決まったメンバーも箱根に向けてできることをすべて尽くしてくれました。そういう自分が見えているとことでも見えていないところでも、全員が箱根を勝ちたいという意識で取り組んでいたなと思います。特に箱根のエントリーが決まってから箱根までの日々はそういうことを感じることが多かったです。

――同じく4年生の三浦雅裕(スポ4=兵庫・西脇工)選手が6区を走る予定でしたが、当日にエントリー変更があったことについてはいかがですか

三浦は本当にスペシャリストで、僕らも頼れる存在で、多分チームの誰もが「遅れたけど三浦さんで前に追いついて挽回して…」というイメージをしていたと思うんですよね。それがいきなり誰もが予想しないアクシデントで、その時は本当「やばいな」、「走れよ」じゃないですけど…。僕は武田凜太郎とかと一緒にいたのですが、「やばいぞ」という話はしました。本当に走れないということは分かりましたし、とても我慢強い選手だったので、それでも走れないということはほんとに酷い状況というのは分かっていたのですが、気持ちはやばいぞと。最初はあ然、そんな感じでした。

――三浦選手と言葉を交わしたりはしましたか

連絡をして、「大丈夫?」と聞いたら「すまん」と。ただそれだけだったのですが、「淳(佐藤、スポ3=愛知・明和)が行くから自分に伝えられることは伝える。とりあえずこっちで支えるわ」といったことを言われました。

――佐藤選手が競走部部員日記で「正直走り切れるかどうかも不安だった」とおっしゃっていて、当日変更のエントリーで不安が大きかったと思うのですが、佐藤選手と話したりはしましたか

(佐藤淳は)下りの試走とかも本当にしたことがなくて、いろいろな意味で未知数で、走れないかもしれないし、快走するかもしれないといういろいろなものを秘めた中で、なんだかんだ無難に区間6位で走り、周りはほっとした感じでしたが、実際は見えないファインプレーだったのかと思います。本人に聞いても、僕らに対しては「意外に足にも来なくていけました」とあっさり言っていましたが、本人は焦っていたのではないかなと思います。でも全日本もアンカーでああいう接戦を経験してるので、そういう器の面ではすごく大きくなっていたのではないかと思います。

――高田選手は以前の取材で駅伝主将として、背中で引っ張るとおっしゃっていましたが、背中を見られるプレッシャーは4年生になってどんどん大きくなっていかれましたか

背中で引っ張りたいという気持ちの大きな意味としては、中学の時に竹澤さんに憧れていたので。日本の代表にまではなれなくても、学生の中ではトップで、誰もが認めるワセダ・学生のエースであるというのはワセダに進学してその4年間でしかできないことだったので、僕はそういった意味で、自分の試合でも大迫(傑、平26スポ卒=現ナイキ・オレゴン・プロジェクト)さんのように常にトップ、上で争える選手を目材していました。なのでチームに対してというよりは、他大の選手、服部勇とか横手(健、明大)といった選手や下級生が活躍する中で、自分が4年目で足踏みして離されていく焦りがプレッシャーにつながって、それがチームの中でも主将としてうまく走れなかったです。自分の中で追い込んでいたというか、空回りしていた部分はあります

――部活の中で、ワセダの選手に見られるプレッシャーを感じていたというわけではなくて、ご自身の走りでけん引しようという気持ちが重くなったということですか

そうですね、僕がやはり欲張ってしまったというか、何でもできると思ってしまっていました。シーズン最初のクロスカントリーとかハーフとかで結構行けましたし、最初の5000(メートル)でもいけるのではという手ごたえを感じていました。1年間だったら関カレ(関東学生対校選手権)と学生三大駅伝に照準を当てる、という位置づけだったら分かるのですが、出る試合全部をマックスで走るという、もちろんマックスで走るのですが、ピーキングというか全部の試合で俺は勝つ、全部持っていくという思いでやっていたのでそこが良くなかったと思います

――ご自身が1年間駅伝主将をやってきて、やってよかったと思ったことはありますか

最後の箱根で、自分のブレーキで4位になったという考え方もあれば、自分のブレーキにも、関わらずチームが4位まで押し上げてくれたという考え方もできると思います。勝ちたい、優勝したいという目標は届かなかったのですが、みんなが常に上にいきたいという目標を持ってくれていて、終わってからもいろいろ声をかけてくれました。僕以外のそれぞれが、それだけの意識をもって陸上や箱根に取り組んでいたということが僕としては主将をやってきて良かったなと思います。

――ご自身が引退されてからのワセダはどう進むべきかというお考えはありますか

僕たちもあれがしたいこれがしたいと、いろいろなことを変えたり始めたりして、特に次のチームだけじゃなくてそれぞれの学年で色があると思うのですが、ワセダだから駄目とか良いなどという伝統は気にせず、それは出すべきだと思います。時代が動くにつれいろいろなものが動いていかないと勝てない時代だと思うので、ワセダだからという変なプライドは良い意味で捨てて、逆にもっと強いワセダを作れるようにしなければいけないと思います。『早稲田大学競走部』という、全部の組織が変わる取り組み、勝てる集団・常勝軍団を作れるチームだと思うので、学生主体と言われるワセダですし、そういうものはどんどん前面に出して悔いのないように。結果はもちろんそうなのですが、結果の裏にあるプロセスなど、そういうものも悔いなくできるようにしてほしいです。

――では、今後についてお伺いします。実業団の選手としての目標はありますか

そうですね。やはり日の丸を着たいというのが競技を始めて以来の目標なので。そこはしっかり目指して、自分と向き合いながらやっていきたいと思います。

――マラソンとトラックはどちらで考えていますか

まずはトラックの方で、日本の中で戦えるスピードと強さをつけてから、スピードに限界を感じたらマラソンに、という感じですね。まだまだスピードに関してはいけると思っているので。まずはそういうタイミング(トラックを退く)まではトラックで勝負していきたいかなと思います。

――最後に、高田選手にとって、ワセダの4年間やエンジというものはどのような存在でしたか

憧れていたエンジのWを着ることができて、その中でもうまく走れるとき、走れないときがあったのですが、そういった中でついに自分がワセダを動かすというときが来て。嫌なこともいっぱいありましたし、嬉しいこともいっぱいありましたが、目標を持って仲間と続ける陸上競技というものを学べたかなと思います。

――ありがとうございました!

(取材・編集 平野紘揮、鎌田理沙)

◆高田康暉(たかだ・こうき)

1993年(平5)6月13日生まれのAB型。170センチ、54キロ。スポーツ科学部4年。鹿児島実高出身。自己記録:5000メートル13分50秒32。1万メートル28分49秒59。ハーフマラソン1時間2分02秒。2014年箱根駅伝2区1時間8分18秒(区間賞)。2015年箱根駅伝2区1時間8分17秒(区間6位)。2016年箱根駅伝2区1時間10分46秒(区間17位)