【連載】『令和4年度卒業記念特集』第20回 鈴木創士/競走

陸上競技

波瀾万丈

 

「自分自身の生き様を映したような舞台」、箱根駅伝には4年連続出走した

 鈴木創士(スポ=静岡・浜松日体)はこの1年、苦しんだ。駅伝主将ながら、試合に出場できず、葛藤の日々。そんな鈴木に、これまでの陸上人生と早大で過ごした4年間を、「自分にとっても素晴らしい経験」と語る駅伝主将として過ごした今シーズンを中心に振り返る。

  

 小学校6年生の時に持久走大会で勝ちたい子がいたことがきっかけで陸上を始めた鈴木。その時はサッカーも並行していたが、陸上では結果が出すことできたことが選択の大きな決定打になったという。さらに、良い意味でも悪い意味でも自分次第で勝敗が決まるというところに面白さも感じて、陸上を続けてきた。高校は地元の名門、静岡・浜松日体高校へ。3年間で一番印象に残っているのは、高校2年生の時に出た全国高等学校駅伝(都大路)。その時1区を走ったのは、一個上の太田直希(令4スポ卒=現ヤクルト)。その走り(区間7位)で本当にチームが一丸になったように感じ、みんなで入賞を勝ち取れたのが面白かった。

 その後、陸上をやる上での環境の良さに惹(ひ)かれ、早大への進学を決意。1年時から三大駅伝に出走し、特に箱根(東京箱根間往復大学駅伝)では毎年順位を上げる好走。どのような位置でタスキを受け取ったとして流れを変える、もしくは加速するゲームチェンジャーとして活躍した。そんな鈴木は、昔からトラックよりロードの方が得意だったという。その中でも駅伝が得意だという自覚があった。トラックで同時スタートするよりも、自分の決めたペースで押していけるというのが自分の中で強みだと語る。

 

印象的なのはいつもチームを達観し、冷静に分析をしていた姿だ

 最終学年になるにあたり、立候補で主将に就任。前年度、箱根でシード権を落とした雪辱を晴らすため、鈴木はチーム改革をおこなった。そのモットーが『10年先もずっと強いチームのシステム作り』。その一つが、風通しの良い組織にするということだ。各学年に学年リーダーを設け、下級生からの意見を吸い上げやすくした。すると、コミュニケーションがより活発になったという。来年以降へは、「チームがいい方向に変わって来年以降に優勝するということがあればいいな。」

 その一方で、個人としては、悲運が続いた今シーズンだった。5月、関東インカレ(関東学生対校選手権)ではハーフマラソンに出場。しかし、大会前の交通事故の影響もあり、途中棄権。その後も、結果を残すどころか体調不良などで試合に出場できない日々が続いた。夏合宿は調子良くこなすことができたものの、その後コンディションを崩し、全日本(全日本大学駅伝対校選手権)を欠場を余儀なくされる。その中で、チームは6位入賞を果たした。「僕を抜いた8人で他大学と戦えることが証明できたことは、主将の観点から見てシンプルにうれしかった(鈴木)」。そうして迎えた最後の箱根。調子が上がらず、本来は走る予定ではなかったという。しかし、後輩の体調不良で鈴木に順番が回ってきた。任されたのは過去2回出走し、いずれも好走の勝手知ったる復路・7区。今回は、これまで経験したどの箱根よりもとにかくキツくて途中の記憶がほぼなかったという。時間が経つと悔しさは湧いてくるものの、「最終的にどれだけ考えてもあれ以上は無理というか、できることはやったので、正直悔いはない」。そうして、鈴木は4年間駆け抜けた箱根路に別れを告げた。

 春からは、九州の実業団・安川電機へ。自分のビジョンを快く受け入れてくれ、自分自身が成長できる環境だと感じたのが決断の理由だ。目標は日本選手権で優勝すること。後輩たちに未来を託し、早大を後にする。

(記事 戸祭華子 写真 及川知世、戸祭華子)