【連載】『令和元年度卒業記念特集』第62回 太田智樹/競走

陸上競技

大きな背中

 昨年の東京箱根間往復大学駅伝(箱根)でまさかの総合12位となり、13年ぶりのシード落ちを経験した早大競走部。その屈辱から1年。昨年はけがの影響もあり区間21位の大ブレーキだった太田智樹(スポ=静岡・浜松日体)は、今年もエース区間である『花の2区』に挑んだ。紆余曲折を経ながらも、早大競走部に貢献し、4年時には駅伝主将として長距離ブロックを引っ張ってきた太田。その軌跡を、箱根での戦績とともに辿る。

 早い段階でスカウトの声を掛けてくれた相楽豊駅伝監督(平15人卒=福島・安積)の熱意に応えようと、早大への入学を決めた。ルーキーイヤーから期待されたポテンシャルを堂々と発揮。全日本大学駅伝対校選手権(全日本)や箱根に出走し、全日本では区間3位の好走を見せるなど、大きな存在感を見せた1年になった。箱根では区間14位に終わったが、その頃から監督や先輩に「お前が引っ張っていけ」と言われていたという。太田自身も1年時の箱根をターニングポイントの一つにも挙げており、2年時以降の活躍につながっていく。主力の自覚とともに迎えた自身2度目の箱根では「花の2区」を任される。各大学のエース級の選手が集うこの区間で、太田は2年生ながら積極的な走りを見せ順位を5つ押し上げる区間6位。しかし、周りから見れば「快走」と言われるだろうその走りに対しても太田は決して満足することがなかった。「『よくやった』という声を掛けられる時点で自分はそれくらいの力で見られている」と、自分の可能性を信じ続け、練習を重ねた。しかし、3年時にはけがによる長期離脱を余儀なくされる。出雲全日本大学選抜駅伝と全日本を欠場し、迎えた箱根駅伝。調子の上がらないチーム状況も鑑み、なんとか調整、出走したが、前年より3分以上タイムを落とし、22人中21位でタスキリレー。結果的にこの出遅れが響き、早大は13年ぶりにシード権を失った。「申し訳ないという気持ちが強かった」と当時語った太田は、この箱根の直後駅伝主将に就任した。

4年時の全日本で区間新記録の好走を見せた太田智

 就任直後の取材で「結果で、背中で引っ張っていきたい」と話していた太田。そのラストイヤーは、有言実行の1年になった。負っていたけがが完治すると、4月の復帰戦でいきなり5000メートル13分台の自己記録をマーク。関東学生対校選手権(関カレ)1万メートルでは初入賞も果たし、9位での通過となった箱根予選会でも、タイムは不本意だったものの学内トップでゴール。その1週間後に行われた全日本大学駅伝対校選手権(全日本)では区間新記録の走りを見せた。その他の対校戦や記録会などすべてのレースでチームの先頭を走った太田。背中で引っ張るその姿は、エースそのものだった。

 

 『主将』という役職について、太田自身にそこまで強い想いはなかった。「主将としてよりも4年生として引っ張っていく」という言葉に象徴されるように、「チームの核」である同期の4年生とともに長距離ブロックをまとめあげた。全日本と箱根の両駅伝で、目標としていた3位以内には届かなかったが、3年連続の箱根2区で太田は攻めの走りを見せ、早大歴代2位、区間6位と健闘。タイムに関しては上々の自己評価を与えた太田だったが、「あくまで区間6位で、日本人3人にも負けている」と自身への厳しさは最後まで変わらなかった。勝負にこだわる太田の、『らしさ』が見えた瞬間でもあった。

 卒業後は日本一を争う強豪・トヨタ自動車に進み競技を継続する。「まだまだ強くなれる」という信念から選んだ進路だ。今後の目標について具体的なものはないとしたが、「まずは自分より強い選手に追いついて、いずれは追い越し、駅伝やトラックで走りたい」と控えめに話した。背中で引っ張ってきた主将が見据える次の背中。そういう道をたどってきたからこそ目指せるこれからの道だ。更なる高みへ、太田は足を止めない。

(記事 山崎航平、写真 宅森咲子氏)