【連載】『令和元年度卒業記念特集』第61回 西久保達也/競走

陸上競技

スパイクを脱ぐ理由

 第105代競走部主将を務めた西久保達也(スポ=埼玉・聖望学園)は、関東学生対校選手権(関カレ)で2回の優勝、日本選手権2年連続表彰台の実績を誇る実力者だ。それだけに、西久保が昨年11月の順天堂大学長距離競技会を最後に競技生活を引退すると聞いたとき、驚いた人は多いだろう。なぜ大学卒業と同時にスパイクを脱ぐことを決断したのか。華々しい活躍の裏で何を思っていたのか。西久保の4年間の活躍とともに振り返っていきたい。

 高校時代に全国高校総体(インターハイ)5位という結果を残している西久保だが、早大は「狭き門で、受かると思っていなかった」という。だが入学直後から順調に自己記録を更新すると、5月の関東インカレ800メートルで優勝。日本選手権でも4位に入り、ルーキーイヤーながら鮮烈な印象を植え付けた。その活躍の背景として、西久保はチーム内のライバルの存在を口にする。同期の飯島陸斗(スポ4=茨城・緑岡)はインターハイの800メートルチャンピオン。強い選手のそろう環境に一抹の不安も感じつつ、飯島らを「倒してやる」という思いで競技に向き合っていた。その思いが裏目に出たのが大学2年生の時。高校時代に勝てなかった選手に勝ちたいという目標を早いうちに達成してしまった西久保にとって、「どこを目指していいのか、モチベーションがわからなくなった」時期だったという。心の迷いにつられるように、日本選手権では予選敗退に終わり、日本学生対校選手権(全カレ)でも決勝で終盤失速するなど、1年目を越える結果を残すことができなかった。

3年時の全カレ800メートル決勝で、2度目の優勝を果たした西久保(手前)

  3年時には関カレで2年ぶりに優勝、日本選手権では自身最高の2位に入った。自己記録も1分48秒13まで更新。ラストイヤーを競走部主将として過ごすことも決まった。一競技者としても新主将としても心を引き締めた反面、3年生の冬には大学卒業と同時に競技生活に終止符を打つことをほとんど決めていたという。4年時、目標としていたユニバーシアード出場がかなわなかったことで、その思いをさらに強く固めた。結果だけを見れば、関カレでの連覇、全カレでの悲願の優勝を果たせなかった4年時の成績は、3年時のそれを下回り、目指していたものからは遠いはずだ。だが、高校総体5位という結果に悔しさを覚えたという西久保が、大学での競技生活を終えた今「競技に対しての未練はない」と言い切ったことに、4年間の努力の軌跡が凝縮されているのだろう。

 

 国際大会など、上位の大会に出場することへの関心はもともと薄く、純粋に速くなりたいという思いで走っていたという西久保にとって、自身のステップアップはときに精神面において足かせになったのかもしれない。「今は筋トレくらいしかしていない」と笑ったが、一方で「(陸上競技には)いろいろな続け方がある」と言い、クラブチームなどで競技を再開する可能性も示唆した。もしももう一度走りで高みを目指すモチベーションが見つかる時が来たならば、その走りをもう一度見たいと願う人は多くいるに違いない。

(記事 町田華子、写真 喜柳純平氏)