【連載】『平成30年度卒業記念特集』第54回 仲野春花/競走

陸上競技

成長続けた、「濃い」四年間

 仲野春花(スポ=福岡・中村学園女)が早大から旅立つ。スピードのある助走と強靭なバネから繰り出されるジャンプで、数々のタイトルを収めてきた。日本学生対校選手権(全カレ)では2、3年時に2連覇、関東学生対校選手権(関カレ)においては3連覇を成し遂げる。さらにはシニア世代も出場する日本選手権での2連覇を達成するなど、その活躍ぶりは学生の域を超えるものだった。まさに『走高跳の女王』として日本陸上跳躍界に君臨した仲野。「本当に濃かったです。濃い四年間でした」。早大で過ごした競技生活は、この言葉に凝縮されている。

 「日本一の環境で競技・練習をさせていただいていると思っているよ」。2つ上の兄・遼(平29創理卒=福岡・京都)のそんな言葉に惹かれた。早大競走部と言えば、トラック種目を中心に数々の名選手を輩出する名門だ。強い組織で競技をしたい、そして自分がフィールド種目でも結果を残して盛り上げたいという思いで仲野は早大への入学を決意した。

 競走部にいるからには、結果を出す――。競走部員としての自覚を持ち始めたことをきっかけに仲野は瞬く間にトップジャンパーへの仲間入りを果たした。2年生の関カレで初優勝を飾ると9月の全カレも制す。学生王者になった仲野は、さらに活躍の幅を広げていく。3年生の日本選手権ではジャンプオフの末、初優勝。ジャンプオフとなったのはこの試合が初めてだったそうで、普段はプレッシャーを感じないという仲野もこの時ばかりは「これは勝たなくてはいけない」と感じたという。それだけに名実ともに日本一となった瞬間は格別だった。その翌月には自己記録を1メートル83に更新。毎試合への調子の合わせ方を試行錯誤することで、さらなる強さを追い求めていった。

3年生の日本選手権でジャンプオフを制し、初優勝を飾った

 ところが4年生になると練習や試合の調整に変化を加えることに対して怖さを感じてしまう。その影響からか、関カレ、日本選手権共に競り合っての優勝となる。勝負強さを見せたものの、圧倒的な差を付けて勝つことができなくなっていた。また、大学生活最後の全カレはトワイライト・ゲームスで負った捻挫の影響で欠場。「結果を出すこと」と自分の役割を認識していた仲野にとって、3連覇の偉業、そして女子チームの対校得点の上位進出に向けて全カレに出場しない手はなかった。しかし、その思いとは裏腹に痛みが引かない足首。礒繁雄監督(昭58教卒=栃木・大田原)との相談の上、欠場を決めた。その決心を付けるのにも相当な時間がかかったという。「四年間で一番悔しいです」。走高跳だけでなく他の種目にもなかなか目を向けることができなかったほどだった。
 失意の全カレを経験した仲野だったが、国民体育大会で復帰し、5位の成績を収めると、招待選手として出場した北九州カーニバルで優勝。早大での最後の試合を笑顔で締めくくった。

 4年生では、跳躍ブロック長にも就任。集合のあいさつや、組織の方向性の話し合いなど、幹部の一員として、部員数が100人を超える競走部をまとめ上げた。「まさか自分がこういう役職に就けると思ってはいませんでした。この経験はとても大きかったです」。競技の良し悪しだけでなく、部の運営に携わったこともあったからこそ、仲野は「濃い四年間」を送ることができたのだろう。

 卒業後はニッパツに所属しながら、地元福岡で競技を続ける。再来年、自国開催となる東京五輪も視野に入れている仲野は、より世界へ目を向けるようになった。しかし、日本の女子跳躍界と世界とのレベルは大きく開いているのが現状だ。仲野自身、女子跳躍の研修会を経て世界との差を再認識した。その差を埋めるためにも、「まずは国内で圧倒的な存在になりたい」と語る。

 学生にして日本の女子走高跳をけん引してきた仲野は、早大での四年間を助走に、さらなる飛躍を遂げていくに違いない。

(記事 岡部稜、写真 鎌田理沙氏)