【連載】『平成29年度卒業記念特集』第62回 石田裕介/競走

陸上競技

世界に挑んだ主将

 早大は大学陸上界において実績と歴史においてひときわ大きな存在を放ってきた伝統校である。その強豪校の主将として石田裕介(スポ=千葉・市船橋)はチームのことに目を配り、個人としても日本選手権2位、世界選手権に出場と大きなレースで結果を残してきた。ただ、この舞台にたどり着くまでは全てが順調であったわけではない。挫折や苦悩を味わいながらも、大学で競技を続け日本トップクラスの選手に上りつめた石田裕の四年間はどのようなものだったのか。

 石田裕が陸上競技に出会ったのは、中学生時代。当時の仲が良かった友人に誘われたからである。最初は100メートルを行っていたが、周囲とのレベルの差を感じ断念。後に400メートルに主軸を移し、市船橋高に進学する。高校でも引き続き400メートルを継続。練習の一環として400メートル障害にも挑戦した。徐々に頭角を現してきた石田裕は複数の大学からスカウトを受けることになる。小さいころから東京箱根間往復大学駅伝を観戦しており、早大には馴染みがあった。さらに家族からの薦めもあったことで、進学を決めた。

 早大に入学した石田裕だったが、入学当初は目立った成績を残せず苦しんだ。また自分より実力のある同期の活躍を目にし、焦燥感に駆られることも多かった。それでも石田裕はケガをせず、練習を積むべき時にしっかりと練習を重ね、2年時には関東学生対校選手権で400メートル障害で2位に入る活躍を見せる。一躍、学生トップクラスのハードラーに成長し、後の大会でも次々に成績を向上させた。4×400メートルリレーでもメンバーに入り、チームにとって重要な選手となっていく。3年目には新しい主将にも推薦され、石田裕は快諾。最後の年を主将として迎えることになった。

日本選手権の400メートル障害でゴールする石田裕

 主将になった石田裕は個人としてはユニバーシアード競技大会(ユニバーシアード)に出場、チームに対しても選手の個性を引き出すという目標を掲げる。だが、シーズン前半から、実力を発揮できず結果につながらない。「意識が前に行き過ぎて体が前について行かなかった」。最終的にはユニバーシアードの出場を叶えることはできなかった。だが、出場を逃し、一つの目標を断たれたことで冷静になれたと振り返る。直近に控えていた日本選手権のために一歩一歩確実に目の前の課題に取り組んだ。すると、うまく気持ちを切り替え臨んだ日本選手権で2位に入る。このレースを転機とし、調子を取り戻した石田裕は南部忠平記念大会において大きく自己ベストを更新し、世界選手権の標準記録も突破。当初の目標を超え世界選手権という舞台に出場を果たした。個人としても結果もさることながら、チーム内でも他の選手たちと同じ目線に立つようにし、それぞれの個性を引き出すように努力した。「完全にうまくいったかというとそうではない」。なかなか個性を出せない選手もいたが、今までとは違った主将像を作り上げ、背中で部を引っ張った。

 「世界の舞台にもう一度出たいという意識が芽生えた」。大学卒業後も競技を継続する石田裕。2020年に東京オリンピックが決まったことでより目標は明確になった。世界で勝負していくうえでケガをせず、練習を積めるというのは大きな武器だ。石田裕の競技人生はまだ助走段階。夢に向かい一つ一つ困難を飛び越え疾走していく。

(記事 喜柳純平、写真  石塚ひなの)