笑顔の裏側
「四年間みっちり早大に貢献することができました」。関東学生対校選手権(関カレ)、東京箱根間往復駅伝(箱根)に四年連続出場。『W』のユニフォームに袖を通し続け、まさにエンジ色に染まったといえる男がいた。その名は安井雄一(スポ=千葉・市船橋)。笑顔が印象的な安井が駆け抜けた四年間はどのようなものだったのか。
トップクラスの選手として常に世代の上位を走ってきた。中学時代から頭角を現し、市船橋高ではインターハイ入賞だけでなく日本代表も経験。鳴り物入りで入学してきた安井は、その後も大きなケガをすることもなく、安定した成績を残す。ルーキーイヤーからいきなり箱根の8区を担当。区間7位の走りで5位で受け取ったタスキを一つ順位を上げて後続につなぎ、重責を果たした。2年生からは山上りの5区を走ることになる。実は平地の区間を希望していた安井だったが、渡辺康幸前駅伝監督(平8人卒=千葉・市船橋)や相楽豊駅伝監督(平15人卒=福島・安積)から「お前は山を上れる」と言われてから5区出走を意識し始めた。天下の剣への挑戦は「本当にきつかった」と語る安井だが、期待を裏切らない走りを見せた。2年時は区間5位、3年時には区間4位と好走。『早大の山上りの顔』となったと言えよう。そして最終学年となり、かねてから志望していた駅伝主将に就任する。
『箱根駅伝総合優勝』。箱根直後のミーティングでこの大きな目標を掲げた。それに向けて、チーム全体を押し上げていくことができる主将になると決意。合宿では誰よりも走り、時にはチームに檄を飛ばすこともあった。また駅伝主将の姿を見せるだけでなく自身も結果を残す。関カレではハーフマラソンで6位入賞。4年目にして初めての関カレ入賞だった。日本学生対校選手権では、自身こそ出場はならなかったが、長距離ブロック全ての種目で入賞を達成。駅伝シーズンに向けて強化が実りを見せ始めた頃だった。しかし、それは再びしぼんでしまう。学生三大駅伝の初戦・出雲全日本大学選抜駅伝では入賞を逃す9位、続く全日本大学駅伝対校選手権はシード権落ちの7位。「ことしのワセダは駄目なのではないか」。低迷する結果に心配する声が上がった。そのような状況の中でも、安井を中心に4年生全員がチームを引っ張り、箱根に向けて機運は高まっていた。
最後の箱根で往路ゴールする安井
いよいよ決戦の時、箱根がやってきた。1区11位から徐々に順位を上げ、安井は5位でタスキを受け取った。「(2分5秒離れている)青学大まで追いつきたい」と持ち味の積極性を見せ、1秒前を走る拓大を早々に引き離すと、優勝候補として挙げられていた神奈川大も交わす。途中、右足のふくらはぎがつるアクシデントに見舞われたが冷静に対処。芦ノ湖に3位でタスキを運び、三度目の山上りを終えた。その結果は区間2位、1時間12分4秒。「区間賞を取りたかった思いもある」と悔しさを募らせたが、それよりも自身の走りに「100点をあげたい」とやり切った様子だった。そして復路は、メンバーの走りを祈るような気持ちで見守る。粘りの走りが流れを呼び、チームは総合3位でゴールの大手町に帰ってきた。アンカーで同学年の谷口耕一郎(スポ=福岡大大濠)を迎えたときの安井は涙で目が真っ赤になっていた。普段は笑顔な安井だが、この時ばかりは涙を押さえることができなかった。「この一年間苦しんだことがあふれてきました」。伝統と実績のある早稲田大学競走部長距離ブロックを一年間けん引してきたプレッシャーから解放され、総合3位に入った安堵感とうれしさから出たものだった。実は安井には、この箱根でもう一つの目標があった。「やり切った笑顔を大手町でみんなでしたい」。ゴールに向かってくる谷口が見えてくるとチームメンバー全員が笑顔で谷口の名前を呼び、中には涙ぐむ選手もいた。出走した選手だけでなく、控えの選手やスタッフ全員がやり切った証だ。その目標は見事に叶ったのだった。
安井は卒業後も競技を続け、トヨタ自動車に活躍の場を移す。トヨタ自動車は全日本実業団対抗駅伝で優勝経験もある強豪チームだ。そこでの目標はマラソンで2時間7分台、トラックの1万メートルで28分台前半と明確に示している。実業団入りしてからは、まずは基礎基本を作って駅伝やマラソンに挑戦していきたいという。「オリンピックでメダルを取る選手になる」。その夢をかなえるために――。安井はこれからの競技人生も笑顔で駆け抜けていくことだろう。
(記事 岡部稜、写真 斉藤俊幸)