【特集】競走部特別インタビュー『WとJAPAN』 石田裕介主将

陸上競技

 2017年8月、早大の主将が世界へ羽ばたいた。シーズン序盤は国際試合の参加標準記録を意識するあまりか、思うような走りができず苦しんだ石田裕介主将(スポ4=千葉・市船橋)。しかし『背中で語る主将』として、一選手として日本選手権という大舞台で力を発揮。世界への切符を手にした。決して『成功』ばかりではなかった波乱のシーズンを振り返るとともに、迫る引退試合に向け、同期、チームへの思いを語っていただいた。

※この取材は10月11日に行われたものです。

「(日本選手権が)一つの転機」

対談は終始和やかな雰囲気で進んだ

――最近の調子についてお伺いします。石田選手は先日国民体育大会(国体)に出場されて、今シーズンの400メートル障害はこれがラストでしたが

 全カレ(日本学生対校選手権)が非常に悪いタイムで終わってしまったので、国体の予選もそうですし一つの課題として力を出さなければいけないなと思いました。そこを一つ頭において練習を積んで、完全には戻り切らなかったのですが。

――最近一人暮らしを始められたそうですが、変化はありますか

 生活習慣が一つ変わったのが大きく変わったところです。いままでは寮に帰って寝るだけだったのですが、自炊をしなくてはいけないし、やることが増えた中で練習もしっかりやらなくてはいけない。一つ良かったとすれば4年生で授業がほとんどない状態ですので、そのなかで上手くやっていけるかなと。(競技に関しては)あまり影響はないのかなと。ただ今後どうなるかというのはあります。いま不慣れな部分があるので、慣れてきたときに自分が変わってしまわないように気を付けなきゃなと思います。

――石田裕選手のご趣味はケーキ作りとお伺いしました

 それは本当の話です(笑)。実際表立ってたくさんやるようになったのが大学に入ってからで、一つのきっかけとしてバレンタインがあったので、そこで部の人に渡しました。ホワイトデーがちょうど合宿と被っていて渡せないので、1年目にそうしました。それで2年目からなんとなく作ろうかなと、暇があるときにつくってあげるかたちで。まあ喜んでくれてるから、そこはいいかなと(笑)。息抜きにはなっているんですが、作っている途中で「なんで作っているんだろう」って思ったりして(笑)。人数が人数なので、途中で「ばかだなあ」と思いながら作っています。

――では競技の話に移らせていただきます。東京六大学対校大会から始まり、今シーズンの前半は思うようなタイムが出せなかった印象でしたが、振り返ってみていかがでしょうか

 口では「世界陸上(世界選手権)、ユニバーシアード(ユニバーシアード夏季競技大会)」と言っていたのですが、やはり正直気持ちの面ではどちらかというとユニバ寄りで。世界選手権はもう少し上のレベルなのかなと思っていました。正直「49(秒台)を出さなきゃ」という気持ちばっかりで…。その上で関カレ(関東学生対校選手権)に関してはチームの流れを変えるというのと、主将だから『勝ち』でやはり引っ張っていかなければいけない。そういったいろいろな気持ちの中で走って、焦りだったり不安も結構ありました。個人選手権(日本学生個人選手権)に関しては一本一本すべてが全力というかたちで、「(49秒台が)出るかな」と思ったら結局出ず、悔しい思いをしてました。前半に関しては僕個人も理解していないのですが、なんでうまくいかなかったんだろうと…。コンディション的にも絶対悪くないと思っていたので。

――いま「主将として」のお話をお伺いしましたが、石田裕選手の理想の主将像とは

 1年生からやってきて、試合に関しては言葉はもちろんですが背中で引っ張っていかなければと。そのためにやはり実績、どんなにいいことを言っていても選手としてのレベルが高くないと何の説得力もないので。なので「主将として」という僕の意味では、実績がありその上でチームを引っ張ると思って、部員には言い続けてやってきました。それが上手くいってるかいってないかはよく分からないんですが。

――ではシーズンの転機はやはり日本選手権でしょうか

 日本選手権に関しては、6月中が教育実習の時期で、その中でやっていくのはかなり不安があって。ただいままでの環境で違うのは自分がチームにいない状態で戦いに挑んでいったという、良い意味でも悪い意味でもチームというのを考えずに、一選手として競技をやっていました。個人選手権の思いとしては「ユニバ選考が最後だ」ということで気持ちが前に行き過ぎていて、タイムがついてこないというパターンでした。日本選手権に関しては、「世界陸上に行きたい」という気持ちはもちろんありましたが、半分は「いや無理だろう。9(49秒台)も出ていないのに」という感じでした。その中で予選を一本走って49秒台が出て「あれっ」と。決勝もまさか2位になるとは思っていなかったので、やはりあれがひとつの転機かなと思います。

――「2位になるとは思っていなかった」とおっしゃっていましたが、実際決勝で2位を確信したのはどのあたりででしたか

 まず3レーンということで、個人選手権で失敗しているレーンという意識があって、油断はできない。ということと個人選手権でもそうだったのですが、8台目のあたりで、近づいてきたときに「勝てる」という気持ちがあって、それは日本選手権でも同じでした。バックストレートだけでは自分がどの位置にいるというのは正確には分からないので、やはりラストの直線に入って「いけるんじゃないか」と思いました。

――早スポとしては、石田裕選手のレースに対し反響がすごかった印象があります

 自分でTwitterにつぶやいたときも、競走部だけでなく自分の身内だったり親だったりから、かなり(コメントを)もらいました。でも反響というほどあったのかな、と思いますけど…(笑)。

――日本選手権は、初日に走幅跳の仲野春花選手(スポ3=福岡・中村学園女)が優勝しました。そういうチームメイトの活躍を見て励みになったりはしましたか

 見ていてやっぱり後輩がずっと頑張っていて、先輩が良い格好できないというのはありました。ただやるのは自分自身ですし、たしかにいい姿を見るとこちらとしても気持ちも上がるのですが、それをどう力に変えるのかというのもまた自分自身だと思います。後輩には競技面でもそれ以外でも救われている、良い影響をもらっているのかなと思います。

――日本選手権あとのインタビューでは「南部記念で世界選手権の参加標準記録を切る」とはおっしゃっていませんでした

 いや、南部で(標準記録を)切れば世界選手権に出られるということを知らなくて(笑)。表彰が終わって帰るときに先生(礒繁雄監督、昭58教卒=栃木・大田原)から「南部で切ったら代表だぞ」と言われました。そこで「あ、そうなんだ」と思って(笑)。でもその日はどちらかというと2位になったことへの意識が強くて、実感もわかないまま「世界選手権なんだ…」と思いながら帰った記憶があります。

――そのあと南部記念に向けてどう気持ちは切り替えられましたか

 いや、もう「やるしかないな」と。内面的には「切りたいな」と思っていたのですが口ではもうずっと周りに「きついでしょ」という風には言っていました(笑)。意外と口にしていることと内面が違っていて、そういうタイプだと自分でも認識しています。大体思っていることと言っていることが逆なんですね。そういう面ではあまり表には出さずにいました。ずっと思っているのは、闘志をガンガンに出すのはいいとは思うのですが、それのせいで気持ちが先走ってしまって、競技に上手くつながらないというのが一番よくないと思います。闘志があっても内に秘めるというかたちにしていました。

――南部記念は1発のタイムレース決勝。同じレースには石田裕選手が師事されている野澤啓佑OB(平26スポ卒=現ミズノ)もいらっしゃいました

 日本選手権で2位の僕と3位の松下さん(祐樹、ミズノ)が(参加標準記録を)切れば出られるという条件だったので、レーンの組み方的にもいいところをいただきました。周りの選手も日本選手権の決勝にいるようなメンバーで、野澤さんが2つ外にいて、松下さんが1つ外にいたというのが一番良かった点です。野澤さんが前半引っ張ってくれたから全体的にスピードが上がってくれて、松下さんが後半粘ってくれたから最後抜けるというような、ラビットにラビットを重ねるようなレースができたので、それが記録につながったのかなと。逆に言うと、それを僕一人の力だとそこまで達していないというのが感じられたので、うれしさ半分、悔しさ半分といったところです。

――最初の速報値が『49秒36』で、その後の確定タイムで『49秒35』が出ました。そのとき大きくガッツポーズをされたとのことでしたが、お気持ちは

 うれしいだとか喜んでいるときって、周りの選手は「よっしゃー」とか言うのですが、2年生の関カレで2位になった時もそうだったのですが、僕は声が出なくて、体が勝手に動いている感じです(笑)。地獄から天国に上がった感じでしたので、どう表現したらいいか分からず、体が勝手にガッツポーズしていました。ああいうところが外面的に出るところですね(笑)。口に出すより体全体で表現したんだと思います。

――南部で世界選手権の切符を手にしてからロンドンへ発つまで、調整はどのようにされていましたか

 引っ張ってもらって出たタイムといえど、一番調子が良かった南部を考えて、その前にやった練習を取り入れつつ調整していくのが一番いいのかなと思って。1カ月はないですが3週間くらいはあったので、いったん走り込んで2週目から調整していくような練習でした。ロンドン行った後も、時差があったのでまずはそれに慣れて、向こうの食事に慣れなきゃいけない。そういうかたちで調整はしました。

――ロンドンでの宿はいかがでしたか

 最初は向こうの大学で練習していたのですが、ずっとスーツで移動していたのもあり、着いて間もないころは慣れない環境で気疲れしていて、初日と2日目は頭が痛かったです。すっきりしないような感じがありました。ただその大学で一本思いっきり走って、完全にすっきりして向こうにもなじみました。8月3日まで大学でお世話になって、そこから選手村のホテルに移動しました。海外も2回目で、次は大丈夫かなと言った感じです(笑)。(1回目の)アメリカのときはそれもまた時差があって、本当に食欲が上がらなくて。食べ物はおいしいのですが全然食べられなくて、体調もなんか動いているつもりでも体の調子が上がっていない感じでした。海外慣れしていないやつが来てしまった、という感じです(笑)。

――ロンドンの陸上競技場はロンドン五輪でも使われたスタジアムですが、実際に走られていかがでしたか

 試合当日もそうなのですが、サブトラ(サブトラック)にいたときも「こんなでかいのか」と思っていました。遠くで見たときも「大きいな」とは思っていましたが、近くで見ると本当に大きくて。試合で中に入ってスタブロ(スターティングブロック)を調整して1台目跳んで、観客を見ながら歩いて戻りました。日本選手権も「すごい人いるな」なんて思っていたのですが、その比にならないくらいで、席の多さと会場の起きさが段違いでした。「いいところで走れるんだな」と思いました。

――ロンドンの陸上ファンはとても熱心な方が多いと思いますが、会場の歓声はいかがでしたか

 本当に(歓声が)大きくて。会場のノリが良くて、日本人が戦ううえでは慣れない環境かなというくらい歓声がすごかったですね。そのなかでも本当に陸上を熱心に見ているんだなと思ったので、いいところだなと思いました。

――では本番のレースについて、後半で追い上げるいつものレースプランを立てていたものの、前半で置いて行かれてしまったということでしたが、予選を振り返っていかがでしょうか

 外のレーンがアメリカ代表のホームズ選手で、日本選手権のときは周りと同じタイミングで1台目に入れたくらいだったのですが、久々に1台目で置いて行かれるレースでした。そのなかでも落ち着いてレースはしたとは思うのですが、どこかで「予選は通過したい」という気持ちがやはりあって。守りに入ったレースだったので、前半乗りたいところで乗り切れずに後半のハードルに入ってしまいました。外人選手と一緒に走って思ったのは、向こうも一緒になって上がっていく感じだったので、「これは前半で確実に負けていた」という感じがしました。

――タイムは50秒35でしたが、そちらについてはいかがですか

 タイムについても納得はしていなくて。やはりあの舞台でも49(秒台)は出さなくてはいけなかったと思いますし、49を出していれば予選は通っていました。そこで出せないというのが、まだ海外慣れだけではなくて海外の選手を知れていなかったのかなと思います。ここまでラウンドが一つ一つ上がったうえで戦ってきたので、慣れというか、もう少し海外レースを重ねなければいけないと思います。

――では、そのなかで準決勝まで進まれた安部孝駿選手(デサント)についてはどう思われますか

 体格が僕より大きくて、そんな選手も珍しいと思っていました。やはり自分と一つ違うなとは思っていて、そういう風には直感で感じていました。同じ調子がいい中でここまでパフォーマンスに差があるのかというのは感じて、これが最初から世界で戦うことを考えていた人なのかと、そういうレースを見れたと思います。

――世界選手権から帰ってきた後「ロンドンで出し切ってしまった」とおっしゃっていましたが、日本学生対校選手権(全カレ)へ向けての練習はどのようにされていましたか

 自分の中では切ったと思っていたのですが、「全カレがあるから」という意識が強くて、練習もしっかりやらなければいけない。でもどこかで慢心があって「練習をすれば勝てる」と思っていたので、その結果があんなふがいない結果で終わってしまって、気持ちが本当の意味で上手く切り替えられていなかったのかなと思います。まだ世界陸上の余韻に浸っていたのかな、と。

――全カレ全体を見ても、400メートルの北川貴理選手(順大)や、同じ400メートル障害の鍛冶木崚選手(城西大)など国際大会組が振るわなかった印象でした

 ただ、向こうと僕が違うのは、僕はユニバには出ていないので。それを考えるとやはりもっといいかたちで走らなければいけないと、自分の中で思いました。タイム順で見れば1、2位には入らなければいけない選手ではあるので、どういう状況でもパフォーマンスとしてしっかりやらなければいけないなと思いました。

「(日本選手権リレーは)下の代につなげるためのレース」

――石田裕選手の代は少人数ながら短距離ブロック以外も粒ぞろいの代ですが、同期の存在というのは

 それぞれ個が強いですね。皆最前線で戦っているっていうのを入った当時はそれを強く感じてて、自分が出させてもらった試合はほとんど失敗して、非常に悔しい思いをしていました。そういった意味で最初は良い目標であって、自分もその舞台に行かなくてはならない、そしてそれよりも上の舞台に行かなければならないと思える存在でした。学年を重ねるごとに2年目は全カレで活躍できて、3年目は個人選手権で優勝できて、4年ではこういう風に活躍することができたので、きっかけとしても同期の存在というのは結構大きかったです。自分が良い結果を出せなくても、同期の誰かしらが良い結果でつないでくれていたので、本当に今のメンバーがいてくれてよかったなと思っています。それは選手だけじゃなくて、マネージャーもトレーナーもそうですし、マネージャー、トレーナーには本当に世話になって、色々話も聞いてもらっていますね。ただ、強いて言えば全体的にわがままを言えれば良いのかなと思います。自分の中で良い距離感というのが取れていると思うので、全体的に空気の読めるチームワークが取れているのではないかと思っています。

――いまおっしゃっていた「わがままが言える環境」というのは

 守り合ってしまうんですよね。今のチーム突発した行動に移せないんですよ。誰かしら「こうしたいんだよ」「いや、それは違うんじゃないか」っていうやりとりがもっと1年の時から言えてきていれば、また違うチームになったと思いますね。

――ことしは4年生はケガで対校戦の核になることができなかったと思いますが、その点においてはいかがですか

 短距離にしても2人欠けていますし、長距離にしても前半戦もう少し残って欲しかったっていう思いがありました。ただ、ことしに関しては、野本(周成、スポ4=愛媛・八幡浜)がいてくれたっていうのがすごい大きかったです。やっぱり、個人選手権でユニバを決めたっていうのは相当救われたと思います。関カレを見てても、4年生は何しているんだ、もっと勝たなければならないと思いましたね。そういった意味で、個人選手権は大きな転機になったと思います。

――お隣に座っている野本選手の印象についてはいかがでしょうか

 最初の1年目から振り返ると、六大からはじまって、最初の1年は相当良いスタートだったと思うんですよね。でも2年、3年でケガが結構多くて、それも同じ部位をケガするというのがあって、本人としてもまわりから色々な面で言われることがあって落ち込むことがあったりしたと思うんですけど、その中でも4年でちゃんとまとめ上げてくるというのは、本気で気持ちが切り替わったというか結果で表して、感謝で返したいんだなと思います。それが一番伝わってくる選手ですね。

――同期で短長ブロックの加藤修也選手(スポ4=静岡・浜名)、徳山黎選手(スポ4=神奈川・相洋)がケガで苦しんでいますが、引退試合にかける思いも強いと思います。その点については

  本人たちが一番分かっていると思うので。ただ、気持ち的にもコロコロ変わる連中なので、どれほど踏み込んで良いのかというのはちょっとわからないところがあるので。ただ4年生になって終わりに向かってきて、試合でどうもうまくいかなくてこのままでは駄目だという思いになって、本人たちも意識するようになったというのは伝わってきました。良い方向には進んでいると思うんですけど、これが持続してくれればと思います。

――野本選手は全カレの後のインタビューで「僕はエンジを着る器じゃなかった」とおっしゃっていました。やはりエンジというのは選手にとって重いものなのでしょうか

 2年生で初めて着て、その時はあまり感じていなかったんですけど、関カレからすごい重いなって感じるようになりましたね。というのも、中野さん(直哉、平29スポ卒=現飯田病院)が準決勝で落ちちゃって、古谷(拓夢、スポ3=神奈川・相洋)も予選落ちちゃって、僕一人だけになっちゃって、「あれ、どうしよう」っていう。エンジを着ている以上、チームに貢献したい、しっかりした走りをしたいって思った時に、やっぱりエンジって重いんだなって思いましたね。ユニフォームを着れることを誇りに思いつつ、重さを忘れないようにやっていかないとと思います。ことしの4年に関しては、本当に一試合一試合が大事だったので全カレは結果としても不甲斐なかったですし、タイムとしても本当にありえなかった。そういった意味で、最後のエンジがああいうかたちになってしまったっていうのは、ちょっと納得がいかないですね。

――ジャパンのユニフォームを着たことのある石田裕選手がそのようにおっしゃるということは、やはりエンジは違うのでしょうか

  僕に関しては、ジャパンを着る機会が非常に短い。それに比べてエンジを着ている期間はすごく長い。だから、エンジに対する意識というのは強いと思います。日本代表の時も、早大の代表として出ているという意識でしたね。エンジの方が重いのかなって思います。

――石田裕選手にとってエンジとは

 箱根(東京箱根間往復大学駅伝)を見ていたので、早稲田大学が一番知っている大学でした。入った当時は自分はここにいるんだという思いが自分の中にあって、やっとことのユニフォームを着て走れるっていう思いが自分の中にありました。重さとかを本当に感じたのはことしに入ってからなので。憧れから始まったのが現実になるという意味で、エンジとは大事なものなのかなと思いますね。

――エンジのラストレースである日本選手権リレーの目標と意気込みについて教えてください

 まずは、6連覇に向けて勝つことが必要だと思います。それと同時に、集大成というよりかは、下の代につなげるためのレースであることを意識したいと思います。去年、レースに勝って先輩から後輩へ受け継がれたということを感じました。ただ、勝たなければそれは感じることができない。だから、優勝を目指したいと思います。

――では最後に、主将としてチームに向けて一言お願いいたします

 多分、その年その年の色があると思うので、その年の代の色をしっかり出して欲しいと思います。周りから色々言われるだろうし、やはり結果が出なければ出ないなりの覚悟をして、色々な言葉を受け入れなければいけないですね。だた、それぞれがそれぞれで後悔のない選択をして欲しいと思います。やっていることに自信を持って、一つ一つ乗り越えてもらえればと思います。

――ありがとうございました!

(取材・編集 鎌田理沙、三浦彩由香)

最後は同期の野本選手と『W』ポーズをしてくださいました!

◆石田裕介(いしだ・ゆうすけ)(※写真右)

1995(平7)年5月25日生まれ。186センチ。千葉・市立船橋出身。スポーツ科学部4年。自己記録:400メートル障害49秒35。趣味はケーキ作りで、作ったケーキは部員の皆さんにプレゼントしているという石田裕選手。「走っているときとのギャップがすごい」とたくさんの人に言われるそうです。そんなチーム思いの主将の、エンジラストランは必見です。