【特集】競走部特別インタビュー『華の女子対談』第3回 南野智美×兒玉彩希×小山佳奈

陸上競技

 『華の女子対談』最終回は400メートル障害の南野智美(スポ3=山口・西京)、兒玉彩希(スポ2=大分雄城台)、小山佳奈(スポ1=神奈川・橘)の3人。強い信念を持ち早大へやってきた女子アスリートたちの、苦悩、挫折、栄冠ーー。そして大学での競技にかける熱い思いをうかがった。

※この取材は6月14日に行われたものです。

三者三様

笑顔で質問に答えてくれたルーキーの小山

――きょうの練習メニューはどのようなものでしたか

南野 私と小山がヨンパー(400メートル障害)の練習ということで、200+200(メートル)で、間が40秒のセット走でした。兒玉は短短の方で練習しています。

兒玉 ケガが続いて走力が落ちてしまっていたので、スピードを強化するために短長ブロックから少し離れて、練習させていただいています。ケガで継続して練習が積めなくて、冬季は復帰してはケガの繰り返しでした。思ったようにメニューができなかったです。

――普段の練習はみなさんどのようにされているのでしょうか

南野 基本的には男子と同じメニューをして、女子は女子で走るというかたちです。男子の後に続いて走っているのですが、たまに人数が少ないときは男子と一緒に走ります。最近になって2年生が多く入ってくれたので、女子は女子では走れるといった感じですね。

兒玉 (男子と)一緒に走るときも、セパ(セパレート)ではなくオープンレーンで一緒にスタートしたときは、最初の10メートルくらいで置いて行かれる…(笑)。それだったら、女子は女子で走るほうが競い合えるので、気持ちのきつさとしては楽なのかなと思います。

南野 私が1年のときは私しか走れる女子がいなくて。きょうと同じようなメニューをやっていて、男子の1番後ろからレストの時間を測ってくれていたのですが、5秒くらいは離れるので。そのときは200と200の間が10秒くらいしかなくて、走って付いたらジョグしてまた次スタートみたいな(笑)。それは本当にきつかったです。いまは(女子の人数が)増えたのでありがたいです。

――女子部の人数が増え始めたのは、ここ何年くらいのお話でしょうか

南野 走高跳の春花(仲野、スポ3=福岡・中村学園女)が4年ぶりくらいのスポ推で、私たちの代の推薦は3人でした。そこから兒玉たちの代が本当に多くて。男子より多いよね?

兒玉 選手が短距離と長距離合わせて8人ですね。

小山  それで、私たちの代は4人ですね。少し少ないです。

――練習中にお互いアドバイスをすることはありますか

南野 ハードル練習が多いよね。

兒玉 はい。見てもらったり、「きょうはどうですか」と聞いたりします。

南野 私が(アドバイスを)言う時もあるし、「いまこうでしたね」と言ってくれることもあるので、そこは先輩後輩関係ないですね。あとはセット走のときってつらいじゃないですか。なので「あとちょっと!」と励まし合います。いかに馬鹿になれるか(笑)。

兒玉 「これが終わったらあと1セットですよね!」って(笑)。

南野 気合いです。「いけるでしょ!」ってよく言っています(笑)。

――ではよく一緒に練習されているということで、お互いの印象を言っていただいてもいいでしょうか。まず小山選手についてお二人お願いします

南野 推進力が違う。ピッチとか足の回転が速い感じではないと思うのですが、1歩でそんな進む?みたいな(笑)。

兒玉 1人で走っていたらそんなに早く見えないんですけど、抜かしたり(ほかの選手と)一緒に走ったりしているとすごいと分かります。「あれっ?」って気づいたら前に。関カレ(関東学生対校選手権)でも前にいた選手を抜いてくれたんですが、前に近づいているときは少しずつ詰めているなという感じなんですが、並んだ時にスッと抜いて!スピード感がすごく伝わってきました。いつも楽そうというか、もちろん力を使ってないわけではないと思うのですが、こんな風に走れたら気持ちいいだろうなと思います。

南野 プライベートは、かわいい、おちゃめ(笑)。二人とも笑顔がかわいいんです。なんだか守りたくなります、天然っぽいというか。しっかりしてそうなのにたまに守りたくなる。

――これを受けて小山選手はいかがですか

小山 周りからたまに天然とか言われるんですが、あまり分からなくて。でも自分では抜けている部分は結構分かっているので(笑)。他の人たちから見たらそうなのかなと思います。

――静岡国際で早稲田スポーツとして初めて小山選手に取材させていただいたのですが、すごく受け答えがしっかりしていて1年生とは思えなかったのですが、私生活は天然なのですね

兒玉 あと、だれとでも仲良くなれるよね。垣根がない。学年でも先輩後輩関係なく仲がいい印象があるな。

小山  人とコミュニケーションを取るのが好きで、それがもしかしたら影響しているのかもしれません。

――では南野さんの印象をお二人お願いします

小山 ストイックです!

兒玉 練習に関しては拝めるくらい。本当に見習いたいです。常に自分の限界を超えています(笑)。私に足りないものを持っていて、「そこやる?」ってところまで頑張るので、ちょっと心配です。練習でないときは女子全体をすごく気遣ってくれたりだとか、すごく頼れる先輩です。

小山 自分のこともしっかりできつつ後輩の面倒だったり走りの動きまで全部分かっている方なので、本当に頼れる先輩です。

南野 ありがとうございます、心配をかけるのは申し訳ない(笑)。私が高校のときは先輩とうまくいかないことが結構あって、部活がしづらいこともあったので、自分が上になったときそういう思いをしてほしくないなというのは根本にあります。あとは楽しくみんなでできればいいなと。混成競技出身でやっていたのは影響していると思うのですが、それで練習では後悔したくなくて、やれるところまではやります。そのときはちゃんと休むようにしています。

――では兒玉選手の印象をお聞きしてもよろしいですか

南野 速い。スピード系の選手なので100(メートル)とかも速いんですよ。一緒に300とか250をスタートするとき「えっ、速くない?」みたいな(笑)。

小山 初速が速いというか、スピードに乗るまでが速いです。

南野 そんなに最初スピードを出すのに、ヨンパーで最後10台目のハードル越えてからが異常に速いんですよ。「ここでリード取れないと絶対負けるのに!」って思っています(笑)。本当に速いです。プライベートは笑った顔が本当にかわいいです。(笑ったときの)目の形がかわいい。

兒玉 もともと100、200(メートル)をやっていたので、そこが自分の持ち味というか、そこだけは負けたくないところなので、練習でもイーブンで行くというよりは最初にできるだけ行って、そこからみんなに頑張って付いていっています。あとスピードを周りの選手よりかは持っていると思っているので、10台目越えてから差があったらそこはチャンスだと思って、絶対勝つ気でやっています。優勝したレースすべて10台目越えてから抜かしているので。

小山 (兒玉選手とは)高校のときから当たっていたのですが、10台目越えてからが本当に速かったです。

兒玉 10台目越えるくらいの位置って大体勝負はもう決まっているんですが、そこでひっくりかえしたいです(笑)。

小山 その影響で私も高校時代からそこはもう誰にも負けないという思いが生まれました。(兒玉選手とは)結構当たっていると思います。

兒玉 インターハイ(総体)は400の予選、ヨンパーが小山と一緒だったと思います。

それぞれの意志

自分の考えを丁寧に語ってくれた兒玉

――ではみなさんが陸上を始めたきっかけ、また400メートル障害を自分の専門種目に選んだ理由を教えてください

小山 陸上を始めたきっかけは、小学6年生のときから運動会のリレーの選手になって、走ることが楽しいなと思い始めました。小学校5年生くらいのとき、隣のクラスの先生が陸上をされていて、朝練とかいっしょにやらないかと誘ってくださって記録会とかも一緒に出させていただくようになりました。最初1500メートルと走幅跳というわけのわからない組み合わせでやっていたのですが(笑)。そこで陸上競技って楽しいなという気持ちが生まれて、中学に入ってもう一度陸上をきちんとやり直そうと思って、100とかを始めました。でも中学の顧問の先生も陸上経験がなかったりメニューが出なかったりしたので、近くのクラブチームに通って3年間続けていました。そのときは100、200(メートル)をやっていて、そこで出会った恩師に「お前は400メートルや400メートルハードルをやればいい記録が出て、全国で戦える選手になる」という言葉をもらいました。あと中学で出会った女の子が一緒に一生懸命陸上をしてくれる子で、その子がいなかったら私も高校で陸上を続けていなかったなと思うくらい大事な存在です。その子のお父さんも高校の陸上の顧問の先生で、毎週土曜日とか中学の部活がないときに朝練をしたりしていました。そのお父さんからも「お前は400メートルや400メートルハードルをしたら伸びる」と言われたので、それらの言葉を信じて高校に入ったら400をやりたいという気持ちが強かったです。高校に入って100、200、マイル(4×400メートルリレー)をやっていたのですがマイルで結構いい結果が出せたので400を本種目にしました。なら身長もあるしハードルも飛べるんじゃないかという気持ちが自分でもあって、顧問の先生に相談したら「私もそう思っていて相談しようと思っていた」と言ってくれて。そこで意見が一致して私の400メートルハードルが始まりました。本当に人のめぐりあわせで。

――では高校を市立橘高校を選んだ理由というのは

小山 本当は神奈川県の相洋高校にするつもりだったんですが、自分の心の中に「公立高校で強くなってやりたい」という気持ちがあって。私は横浜市出身なのですが川崎市にいとこが住んでいたので「(橘も)強いよ」と教えてくれました。スポーツ科学部があって勉強面でも自分の競技に生かせるかなという気持ちもあり、文武両道でどちらも伸ばせるそこにしぼりました。結構意志は固かったですね。

――では南野さんは

南野 私は小1から野球をやっていていたのですが、たまたま小3のとき地元に陸上クラブができて、男子よりも足が速かったので、じゃあやってみるとたまたまノリで始めたのがきっかけです。最初は100メートルをやっていたのですが今では信じられないんですが割と速くて。小3で15秒出してた(笑)。そこから100(メートル)で勝てなくなってくると興味が走幅跳にいきました。走幅跳びも小6で4メートル80とか跳んでいて、このまま幅跳びの選手になろうと思っていたら、小6の全国大会で3ファー(3回ファールで試技は終了)を初めてして失格になって。中1のジュニアオリンピックで走幅跳びで勝ったのですが中2から伸びず、顧問の先生に「じゃあ四種やる?」とノリでいわれてノリで始めたら勝っちゃって(笑)。中2のとき四種と走幅跳だと試合日程が被るのでどっちにするか決めろと言われて混成を取って、そこから混成をずっとやっていました。高校でも800はすごい嫌いだったんですが、「七種じゃないとやることないな」と思っていたら、為末大さんのレースを見てどうしてもヨンパーが頭の中で引っかかっていて。高1の秋に興味でやりたいといってやったら、そこそこ走れて。そこから混成とヨンパーを同時進行で大学まで来ました。大学ではどっちで勝負するんだということで、私自身世界の舞台で戦いたかったので思い切ってヨンパーに絞って大学ではやろうと思いました。去年混成をやめてヨンパー1本でやったのがいまですね。私の場合興味で種目を転々とするという人生で(笑)。一番長いのが混成ですが、小中高大と専門種目が変わるという異例の事態です(笑)。

――それってかなり器用なのでは

南野 いや、でも私不器用だよね?

小山 体のコントロール、使い方がお上手なんだと思います。

南野 全部感覚です(笑)。走高跳びや走幅跳も勘でしたね。高校のとき垂直跳びを測ったのですが、それは部員全員に負けたのにハイジャンの記録はいいというわけが分からない(笑)。あ、でも補強では強いです。

――ではいまはもう400メートル障害1本に絞られたのですよね

南野 そうですね、いまはヨンパーで。でも最後の年はもしかしたら混成とヨンパーの二刀流で行くか、まだ分からないです。勝負したいなというのはあるので。

――では兒玉選手、お願いします

兒玉 私は小さいころから水泳をしていて、小学校に入ってから硬式テニスを始めました。そのとき地域の陸上クラブの記録会にたまたま出て、そこのコーチの先生に「陸上やらないか」と声を掛けていただきました。なので1回練習に行ってみたのですが私はテニスをやっていてテニス選手になりたかったので、「1回くらいいいか」くらいの気持ちでいたら、(陸上クラブに)学校の友達とか結構いて、そのこと知らなくて。それで半ば強制的にクラブに連れていかれたかたちでした。友達もいるしいいかなと思っていたら、テニスと陸上の練習の曜日が被ってしまって。試合に出るとなるとちゃんと練習しなきゃいけないと思って、友達がいたから陸上を選んでそこから陸上1本になりました。大分県だから運が良かったというのもあるのですが、小学校のときから全国大会の舞台を経験させていただいていて、こういう大きな舞台でずっと予選落ちで。「らいねんこそは」と言ってずっと予選落ちしていたので、絶対決勝に残りたいという気持ちがありました。中学3年生のとき、200メートルでジュニアオリンピックで優勝することができたのですが、そのときすごくうれしくて、もう1回そこで走りたいというのがありました。そのときは100、200(メートル)を走っていたのですが、200のためという先生の理由づけかなにかは分からないのですが1回400で試合に出て(笑)。それを見てくれていた県の先生が声を掛けてくださって、「ヨンパーとかやったらどうか」と言ってくださいました。高校では伸びるって県の先生が言ってくださったからやろうかなと思い、400メートルハードルを専門にしている先生がいる高校に行ったので、きっかけとしてはそういうのがありました。そこからのめりこんだらとても楽しかったです。でも緊張しいで大きい大会では全然走れなくて。でも中3での思いもありなんとかして勝負したくて。高3のときは顧問の先生が変わったこともあり200で勝負しようという話になったのですが、高2のヨンパーで予選落ちしたことを思い出して、シーズン入って自分から「ヨンパーで勝負させてほしい」と言いました。スプリントで勝負したくもあったのですが、悔しいという気持ちのほうが強くて。自分で決めたという思いが強かったので、なんとかしてこの種目で決勝に残りたいと思って必死にやりました。インターハイ(高校総体)、ヨンパーの前日にあった400で予選落ちをして「やばいぞ」、と(笑)。でも予選を通って準決勝でベストを2秒更新して、決勝に進めて本当によかったと思いました。それで大学でももう1回大きい舞台で戦いたいと思って、ヨンパーをやっています。

――では、みなさんが早大を選ばれた理由というのは

小山 私は、本当に最初の方は陸上をやるかやらないかで迷っていて、去年の今ごろはやらないつもりでいました、ずっと隠していたんですが。他の大学も行きたかったのですが、そこに行くともし陸上を続けたとしても、私のやりたい陸上というのはできないかなと思いました。大学選びのときはいろいろ調べました。1つ前の高校の顧問の先生から「お前は早大の練習が合っているし礒先生(繁雄監督、昭58教卒=栃木・大田原)ともうまくやっていけると思う」と言われて、私は高校のその先生が大好きで、先生に言われたことがそのまま結果につながっていったので、本当にここに進めればもしかしたらまだ大きな夢をかなえられるかもしれない、と思いました。それで早大のことが気になって興味を持っていろいろ調べて、もともと高校がそうだったのでスポーツ科学部も気になりました。もっと知識を増やしたいし、それを陸上競技に活かせると思ったので、早大にしました。あとは、高校の先輩方がたくさん早大に行かれているので、憧れではないですが、一緒にできたらいいなという想いが強くありました。

南野 私が最初に早大を意識したのは中学生のときで、私は駅伝選手ではないのですが、箱根(東京箱根間往復大学駅伝)のエンジがかっこよくて、それで行きたいと思いました。高校も本当だったら市内の普通科の高校に行こうと思っていたのですが、(早大に入るには)推薦しか考えられなくて、頭じゃ入れないと。だったら競技で結果を出して、評定平均で行ける西京高校を選びました。寮に入るのは本当にいやだったのですが、それも覚悟で。そこからずっと早大を志望していたのですが、女子が少ないなどの環境面とか考えて「本当に早稲田でいいのかな」って少し思っていました。でも、私の父が高2のときに心臓発作で亡くなっていまして、その父と本当に最後に話したのが「お前大学どこに行きたいんだ?」「早稲田」で。それでさようならだったので早大に行くしかないなと、だんだん志望を固めました。あと、西京高校は恋愛禁止だったのですが、礒先生とお話できたときに、礒先生のお考えは恋愛をしていいというか、「陸上だけじゃない、お前の人生だから」と言ってくださって。陸上だけじゃなくて、自分の人生を考えて早大では競技ができるのかなと思いました。それまでは野球漬け、陸上漬けで、それ以外の世界を私が何も知らなかったので、社会に出る身として全部学びたいと思ったとき早大しかないと思いました。そこからは死ぬ気で成績を上げて(笑)。私には自己推薦しかないと思って、小論文と面接練習を死ぬ気でやりました。滑り止めも1つも受けなくて早大1本だったので、早大に落ちたら就職しようと思っていました(笑)。通ったから良かったのですが、落ちたらいまごろは社会人でした(笑)。国体(国民体育大会)までは陸上やると決めていたので、そこから2週間は朝昼晩面接練習をして、1日何枚も小論文を提出して、なんとか通りました。

――では兒玉選手はいかがだったのでしょうか

兒玉 私はリレーが好きで…。大学でもリレーができる大学に行きたかったんです。でも早大じゃできないと思って、最初は大好きな先輩がいたところで、かなえられなかった夢をかなえるために、先輩がいる大学に行きますってずっと言っていました。でもそれってハードルで全国を目指すだとか、そういう理由じゃないなと思い出して。顧問の先生が早大卒の方で、早大競走部の事情なども教えてくださりました。小中高どれもそんなに女子が多い環境で陸上をしていたわけではなくて、いつも私がいて男子ところに行って走っていました。そういったこともずっと見てくださっていた中で、「女子がいっぱいいるところで陸上をすると、もしかしたら合わないかもしれない。だったらもともと女子が少ないところで、そういう環境を利用してやったほうがお前らしくできるんじゃないか」というアドバイスも頂きました。自分の中でも女子がたくさんいる中で競技をしているのが想像つかなくて。先生が「自分がどの大学のユニフォームを着て走っているのが想像できるかやってみたら」とアドバイスしてくださって。最初に行きたいと思っていた大学だと全然(イメージが)できなくて。早大はイメージできたというわけではなかったのですが、いろいろ調べていくうちに、直感とかそういうものではないのですが、早大に行きたいと思っている自分がいました。でも「誰かに言われたからここに行きます」とかだと、私は上手くいかなかったときに人のせいにしてしまう悪いくせがあるので(笑)。自分で決めないと最後までできないし、いろいろな人に相談したりはしたのですが、最後は「少し時間を下さい」と言って、他の大学からも声を掛けていただいていたのですが、ギリギリまで待ってもらって決めました。陸連の合宿にも参加させていただいたのですが、全然歯が立たなくて。海外の合宿なども体験させていただく中で、いままで自分が知らなかったことがたくさんあり、日本だけじゃなくて世界で戦いたい、先を目指したいと思ったときに競走部も『ワセダから世界へ』と掲げていますし、男子が多い中でできるという環境に自分から入って行って目指そうと思ったのが最後の決め手でした。リレーはやりたかったのですが、何かは捨てなければいけない。全部自分の思い通りの選択はできないと思って。自分が世界を目指すならそこは諦めようと思ったのですが、自分が思った以上に同期が多く、そんなに多く入部することも知らなくて(笑)。リレーできないと思ったのですが、「ヤバい、みんな400自分より速い!」って(笑)。できないと思っていたリレーがいま組めることがすごい幸せです。出るだけで満足したくないし、せっかく先輩も後輩もいて幸せな環境にあると思うので、目標を達成したいと思います。

――礒監督は、世界に通用する女子選手を育てるため、400メートル障害や跳躍の選手を早大に集められているというお話をおうかがいしたのですが、やはり監督から世界についてのお話はされますか

南野 もともとインターハイでも混成でしか結果を出してなかったのですが、早大に受かったときはヨンパーの枠で取ってくださっていたので、ヨンパーと走幅跳というのは先生の頭の中にあるのだと思います。世界を目指せるというのが早大で1番感じたところで、ここが1番ヨンパーで世界を目指せるなと。先生も同じお考えなので、そこが魅力だとは思います。

――では実際に早大に入学して、高校と比べて練習はいかがですか

小山 高校はサーキットばかりだとか、先生が出してくれたメニューをする、そういう感覚があったなといま振り返って思います。ドリルとか動作の基本を先生から教えていただく時間がすごく長くて、自分の走りを見つめる時間が少なかったと思っていたのですが、こちらにきて先生とそういうお話をする機会もいただいて、高いレベルのお話もできたりしました。いま振り返っても高校のことは決して無駄ではなく陸上の基礎になっていると思いますが、早大の競走部に入って、レベルの高い練習や技術だなと先生先輩、OBさんを見て感じました。まだ入って数カ月で短い期間でもそう感じました。

南野 高校のときも短長の選手と練習していて、「割と(距離を)走っているのかな 」とは思っていたのですが、こっちに来たら走る距離が全然違っていて。まずは走る距離というか練習量が違うなと思いました。高校のときは混成だったというのもあると思うのですが、休む間もなくずっとやっていて、練習終わっても午後1人で勝手に練習して、休みの日もやってて。結局インターハイ前にケガしてしまったのですが。それが悪いことだったとは思わないのですが、こっちに来てから練習量自体は増えたのですが、その中で休むことを覚えたり、あとはレベルの高い、常に全国や世界で戦う人が集まっているので、モチベーションを保ちやすいです。満足することがなく、常に上を向いていけるなというのが、高校からランクアップしたなと思います。あとは陸上で強くなるためには、私生活だとかいろいろ経験することも大事だと学べました。いままで無我夢中で陸上をしていたのですが、いまは無我夢中な陸上にプラスして私生活もちゃんと過ごせるようになったというのが、高校との大きな違いです。

兒玉 高校の先生が早大OBの方で、大学に入って練習をする中で先生が言っていたことだとか、同じところで練習をしているということもあって、「先生が言っていたのはこういうことなのかな」と、礒先生がおっしゃったことと、高校の先生がおっしゃったことを自分の中で比べて、合わせることができて、理解度が深まりました。高校のときはあまり種目で練習が分かれていたわけではなかったので、短い距離の選手も多かったので、マーク走だとかを何回もやる高校でした。量が多くて、質も高校にしては高かったと思うのですが、大学に入ったら集中して1本1本出し切るかたちが多いと思いました。大学生は質を高めて、少ない本数の中で自分の走りを究めていくというのが印象深かったです。その分考えなければいけないし知識も必要で、高校生まではやれば速くなるみたいなところはあったと思うのですが、そういうわけではなく、自分がやりたいことをやればいいのでもなくて。先生や先輩とお話することも大事ですが、言われたことを全て受け入れてやっているだけじゃ駄目なんだなというのが、1年生の前半で感じたことでした。先生方からアドバイスを頂いて、2年生ですし自分でいろいろ挑戦したいです。ケガをしていまは出遅れている部分が大きいとは思うのですが、ことしはしっかり自分で作っていければと思います。

――大学の授業はやはり競技に活かせる部分が多いですか

兒玉 授業で跳躍や走ることもたまにするのですが、それ以外に他の競技で例えられたとき「これってもしかして自分が走っているときのこういうことなのかな」とか、それが合ってるかは分からないのですが、授業を受けて感じることもたまにあります。陸上って走る、跳ぶ、投げるだとか基本的な動作の競技なので、陸上を例にあげてくださる授業が割とあって、考えることはあります。同じ授業を受けている子と「きょうの授業で言っていたのってこれかな」と、そこでコミュニケーションも取れるし、そこから競技の話になったら自分の分からなかったことも聞けて、知識も得られます。レベルの高い子と同じことを学べるのは、早大ならではのいいことろではないかと思います。

――では、男子部をふくめチームメイトに刺激を受けることは

南野 そうですね。(加藤)修也さん(スポ4=静岡・浜名)は規格外の走りだと思うのですが、高校のときから修也さんの走りが好きで、それをインターハイの会場ではなくいつも間近に見られるということで。その走りが自分でできるかと言われればそれは難しいのですが、いいイメージを持ちながら練習ができます。あとOBの野澤さん(啓佑、平26スポ卒=現ミズノ)も来てくださるので、野澤さんが練習しながらアドバイスをくださったり会話もしてくださるので、近くにオリンピアンがいるのは幸せなことだと思います。

――では今シーズンのお話についてさせていただきます。小山選手はことしがルーキーイヤーですが、大きな大会で着実に実績を出されています。ですがタイムの方でまだ満足されてないというお話もおうかがいました

小山 関カレの少し前から調子が上がり始めて、関カレでも400(メートル)でベストが出ました。タイムとしては55秒がずっと切れなくて54秒台から先を狙っていたので、「やっと54秒台出たか!」とうれしかったです。でもやはりそれが関カレだとヨンパーに生かされていなくて。ヨンパーだとユニバーシアードの参加標準記録の57秒20というのを去年から意識していて「らいねんこそはそこを切って世界に行こう」と思っていました。関カレのヨンパーで優勝できたのですがタイムは59秒台でレベルも落ちて、せめて58は出す気でいたので、まだ自分が目指すところはここじゃないなと思いました。そのあとの個人選手権(日本学生個人選手権)はユニバに1番近いと思っていたので、57秒20という1番大きい目標は変えずに掲げて、その下に57秒台という目標を立てていました。でもそれも切れなくて。決勝前に礒先生とお話しさせていただく機会があったのですが、「タイムは切れなくてもいいから攻めのレースをしてこい」と言ってくださいました。まだ1年生でチャレンジャー精神が強くて、去年の日本選手権みたいにチャレンジャーの気持ちで行こうと思いました。決勝でもタイムは切れなくて順位は優勝というかたちで終わったのですが、やはり心の中では目標が達成できなかったのが1番悔しかったので。これだけ長く目標を立てていたのに達成できなかったときの悔しさが大きかったので、初めての日本一でうれしい気持ちもあるのかなと思ったのですがそれも一切なく…。まだ自分のことも知れていなかったし、自分の目指すところまで遠いなと、今回の個人選手権が終わって改めて感じました。

――南野選手は今シーズン自己ベストを更新できないレースが続いてしまっていますが、振り返ってみていかがでしょうか

南野 大学に入ったときからユニバーシアードが大きな目標だったので、小山も言っていたように冬季から57秒20を目標に練習を積んでいました。冬季も練習自体はできていたのですが、振り返ってみて何が悪かったのかなと思うと、2月くらいから病気になって、夜中に薬を飲んでいたのですが、そこから体調が悪くなって全然走れなくなってしまって。静岡(静岡国際大会)とその前の鹿児島(薩摩川内市大会)は初戦だからと思っていたのですが(そのあとも調子は)上がらず、関カレでも勝負できずに終わってしまいました。いま、初めてこんなに走れないというかスランプで。思うことはたくさんあったのですが、1番きつい時期に本当の自分が出るのかなと。これを超えたら強くなれると思うので、日本選手権が1週間ちょっと後にあって、そのあと全カレ(日本学生対校選手権)があるので、そこまでにどれだけ戻せるかだと思います。まずは体調を良くしながら、足りないスピードを補って、あとは走り切れないところがあるので。まずは日本選手権までにどれだけ戻せるか、あとは全カレで早大にちゃんと貢献して、その上にマイルがあると思います。去年は出るだけのマイルになってしまったので、ことしは決勝で戦うためにいまは正念場なのかなと思います。小学校から中学高校、大学2年生まで全国入賞していない年がなかったので、種目は違うんですけど(笑)。なので初めて予選落ちばかりで「こんなに走れないのか」と。自分でもなんでこんなに走れないのか分からない部分はあるのですが、そこはしっかり見つめて、逃げたら負けだと思っています。私はあと1年ちょっとしか陸上人生残されていないので、どこまで踏ん張れるかここが正念場だと思っています。短距離の女子の中では1番上の学年なので、全カレは意地でも得点でみんなに貢献して、少しでも後輩がのびのびとしてくれたらと思います。気持ちは切れてないです。日本選手権は本当に勝負だと思っているので、後半型とか関係なく前半から飛ばしてやろうと。やってやるという気持ちを持ちつつ冷静に練習を積んで、あとは全カレが勝負です。泥臭く練習して下剋上で這い上がろうと思っています。

――兒玉選手は日本学生個人選手権は棄権されました。冬季にケガをされたとおっしゃっていましたが、今シーズンはいかがでしたか

兒玉 不調というか思い通りに走れなかったのが去年の全カレからで。予選落ちして春シーズンに比べて全然走れなくて。合宿とかは自分の中では上手くいってたと思うのですがそれが結果につながらなくて。結局日本選手権リレーにも出られなかったのが悔しかったです。さっき二人も言っていたのですがユニバーシアードは私も1番の目標にしていました。秋の悔しさもありましたし、冬季は苦手な長い距離で置いていかれてしまっていたのでそこは克服しようとしていました。でもことしが始まってからケガを繰り返してしまって、練習に入ったり抜けたりを繰り返してしまい、どうしたらいいか分からない時期が続いてしまっていました。そこで自分が上手くコントロールできれば良かったのですが、練習を抜けることで「次は抜けられない」という気持ちになって無理をして、何度もケガをしてしまいました。鹿児島が初戦の予定だったのですがそれも出られずに、六大学(六大学対校大会)も出るのをやめて走りを戻すことに専念していたのですが、関カレの少し前にもケガをして練習を抜けてしまいました。関カレだけは入賞しようと思っていたのですが、自分の体を戻せなくて、結果としては出るだけのレースになってしまって。エンジを着たレースだったのに、力不足でチームに貢献できなかったのが悔しかったです。いまは練習でスピード系をもう一度やって体を締めるということをしています。先生からも「一人暮らしで管理されていない中でやっていくのも、競技をする環境を自分で整える上で選手としてやらなくてはいけないことだ」というお話を何度かしてくださっているのにもかかわらず、ケガとかもぶり返してしまって。このままではいけないというのがいまの正直な気持ちです。そのときケガをしていたわけではないのですが関カレの結果を受けて、立て続けに試合に出るよりかは、春シーズン最後の試合になる日本選手権に絞ろうと。去年は滑り込みのようなかたちで決勝に進むことができたので、ことしはもう一度そこで勝負をする覚悟で、ユニバーシアードの最終選考でしたが、個人選手権は見送りました。短い期間なのでそう大きく変わることはないかもしれませんが、しっかり練習をを積んで切り替えて、個人選手権に出なかったという選択を無駄にしないためにも、日本選手権では春シーズンの結果をしっかり出せたらいいかなと思います。いまはそれを目標に練習しています。南野さんも言っていたのですが、そのあとには全カレがありますので、去年全カレで獲れなかった点数を絶対獲ってやりたいという気持ちはあります。リレーも出るだけになってしまい関カレも完全に小山に頼って、1年生に4走を任せてしまったので、次こそは小山に「任せた」ではなく、「任せろ」と言ってレースに出たいと思います。

「早大の女子が強いというのは、リレーでしか証明されないと思う」(南野)

女子部のこれからについて話す南野

――近年女子部の戦力が充実してきていますが、変化を感じることはありますか

南野 女子が少なかったのでこじんまり動いていたというか、周りの様子を見てだったのですが、強い選手が集まってくることで、「周りに負けてちゃ駄目だよね」と。男子が多いという理由で私たちがこじんまりする理由はないよねと。あくまで男子中心の部活ではあると思うのですが、男子より成績を上げたいというか、「男子見とれや」という強い気持ちを、周りが増えたことにより持てるようになったなと思います。兒玉たちが入る前は少なかったのですが、いまは萎縮しないようになりました。反骨心じゃないですが「男子見とれや」という気持ちを持てるようになりました。いまのほうが陸上はしやすいなと思います。

――女子の400メートル障害で掲げている目標はありますか

南野 ブロックで掲げている目標はないのですが、女子全体としては関カレ総合5位を目指していました。達成することはできなかったのですが、この3人で良く言っているのは「関カレワンツースリー獲ろうね」です。できなかったのですが、次の全カレではエンジ3人は決勝に進んで、来年こそはワンツースリーを獲ろうと。いっつもそう言っているのに小山しか進めていないのが申し訳ないので…。仲野春花は強いんですが、ここのブロックが得点源、中心でありたいなとは思っています。

――マイルリレーでの目標はありますか

南野 去年は出ることができなくて、4年生の先輩がいるのに勝負ができず最後の試合を潰してしまったので、すごく申し訳ないと思いました。そこを走ることで成長した姿を見せたいなと思います。やはり出るだけではおもしろくないし、兒玉もリレーが強いチームでやってきて思いも強いですし、早大は『リレーのワセダ』と呼ばれているので、勝負したいね。ぶちかましたいよね。

兒玉 去年は関カレでは入賞したけど全カレでは全然駄目で。「やっぱり男子はすごいけど、女子は個人だね」と言われてしまうのではなくて、「男子もすごいけど、最近女子すごいよね」と言われるようになりたいです。

南野 早大の女子が強いというのは、リレーでしか証明されないと思うので。

兒玉 個人がちらほらいるというよりは、日本選手権リレーとかで入賞することのほうが大きく取り上げられて、(力を)示すことにはなると思います。関カレの決勝で走るとかではなくて、全カレ、日本選手権リレーの決勝で戦う。決勝に残ることは最低ラインで、決勝で勝負したいです。

南野 そのためにはいまは調子を落としている個人がしっかりしないと、マイルはないと思っているので。まずは日本選手権、全カレで自分をしっかり上げて、その結果のマイルなのかなと思います。みんなのベストタイムとか見ても、絶対勝負できると思うので、それができないのが悔しいと思うので…。走るだけのマイルほど悲しいものはないし、決勝に行ってなんぼだと思います。

兒玉 いまは出るメンバーがギリギリで、どうするか話しているんですが、先生やOBさんが「みんな調子が良くて誰を出そうか迷う」と言ってくださる状態まで持っていきたいです。いまこの中で1番走れる人たちを選んで出すのではなくて。「走れているのに出られなかった、悔しい」って。それができたら確実に勝負はできるのではないかなと思います。

――では最後に、大学4年間での目標を教えてください

小山 私は日本一を獲りたくてヨンパーを始めたのですが、徐々にレベルの高い試合を経験するうちに、「ジャパンを背負いたい」という気持ちが強くなっていきました。高校ではそれが一切かなわなかったので、大学では国際試合でジャパンを背負って試合に出るのが4年間の目標でもあります。このままいくと4年間で陸上人生は終わるのかなという気ではいるので、悔いの残らないようにはしたいです。陸上を始めて目標であることは最低限達成したいと思うので、五輪とかも大きく考えすぎずに、陸上を始めたころからの目標のジャパンを背負って世界で戦うというのを達成したいです。高校のときに陸上を通して、陸上以外でも成長できた部分があったので、この大学4年間もうまく利用して人間としても成長して、早大競走部でよかったなと思って卒業したいです。

南野 私も世界に行きたくて早大に来たのですが、目標だったユニバが駄目だったときに振り返ると、陸上が本当に好きで。誰よりもグラウンドを駆け回ることが好きだなと思いました。まだ相談もしていないですし不透明ではあるのですが、最後の年はヨンパーと七種で誰よりもグラウンドを駆け回りたいというのがあります。ことしの関カレは800(メートル)も出たのですが、ベストを出しても決勝に行けない状態で。どうせ出るなら得点をちゃんと獲れるものがいいなと思います。あとは早大の競走部が本当に好きで。なので陸上人生の最後は本当に自分の好きなことで結果を得点で出して早大に貢献することを最後の年にしていきたいです。その中で後輩がしやすい環境作りなど、できることをやりたいです。私、グラウンドで死んでもいいと思っているくらい陸上が好きなんですよ。これ迷惑がかかると思うんですが、死ぬとしたらグラウンドで朽ち果てるか老衰するかのどちらかが良いんですよ(笑)。振り返ったら走りも悪くてどんよりした時期もありましたが、陸上はやめたくなくて。酸素レベルで好きな陸上バカなんです。これから世界を目指せる大会があるかは分からないし、私はないと思っているので、それだったら最後は貢献できるもので、自分が好きなことをして何か残せたらと思います。思いっきり楽しみながら、でも結果は求めて陸上をしていきたいと思います。

兒玉 今回ユニバは駄目だったのですが、私も小山が言ったように1番大きな目標は世界でジャパンを背負って結果を残すことです。そこの目標は何があっても変えずに、次ユニバがあるのが4年生のときなので、そこでいいかたちで終われるようにしたいです。先生も何度もおっしゃるんですが、私たちがこうやって陸上をできるのも大学4年間で終わりの人が多いのが事実で、この先できるのはほんの一握りなので、そういう希望みたいなのはあまり持たずに、終わりが近づいていることは忘れずにしたいです。1年生のときは全部経験でまだ時間があるという感じでしたが、2年生になったら「本当に時間って少ないんだな」と思ったので、こうしておけばよかった、という悔いがないように。早大の競走部に染められるのも大事なんですが、自分がやりたい陸上というのも忘れずにしたいです。将来は教員になりたいと思っているので、そういう学業面のことも怠らずにやり切りたいです。大学であんまりやり切れなかったから就職して続けるとかではなくて。いまはちゃんと走れていないのですが、チームに必要とされる人に成長できたらいいと思います。ただ卒業するだけじゃなくて、そのあとも名前が残るような、早大記録を作りたいです。

南野 早稲田記録、私たちで毎年更新しよう!私混成で持ってるけど(笑)。

兒玉 小山が越えられないくらいのを出したいですね(笑)。

――ありがとうございました!

(取材・編集 鎌田理沙)

みなさんで『W』ポーズをしてくださいました!

◆南野智美(のうの・ともみ)(※写真中央)

1996(平8)年4月30日生まれ。168センチ。山口・西京高校出身。スポーツ科学部3年。対談中も上級生として話をまとめてくれたりと、リーダーシップが光った南野選手。また負けん気が強く、競技に対しても熱を持って語ってくださしました。女子部のリーダー南野選手の秋シーズン、そしてラストイヤーは必見です!

◆兒玉彩希(こだま・さき)(※写真右)

1997(平9)年4月12日生まれ。169センチ。大分雄城台高校出身。スポーツ科学部2年。分岐点に立ったときは自分の意思で選び切ることにこだわっていた兒玉選手。自分で決めたことはやり通すという強い信念を感じます。ケガから完全復帰し、次の勝負どころでは早大のスピードランナーとしてチームを支えてくれることでしょう!

◆小山佳奈(こやま・かな)(※写真左)

1998(平10)年12月16日生まれ。169センチ。神奈川・橘高校出身。スポーツ科学部1年。競技に対してはクールに語ってくれた小山選手ですが、プライベートでは天然とのこと。しかしレースになると圧倒的な推進力で、見るものを虜にさせます。大型ルーキー小山選手の快進撃はまだまだ続きます!