個人種目の陸上競技においてただ一つの団体種目、リレー。個々の力とチームの絆が試され、最も盛り上がる種目である。平成10年頃、早大競走部はこのリレー、特に4×100メートルリレー(4継)で黄金時代を迎える。
きっかけは高校総体で短距離種目『4冠』を達成した高橋和裕(平11人卒=奈良・添上)や高橋に次いで100・200メートル2位、走幅跳優勝の馬塚貴弘(平11人卒=静岡・浜名)といった超高校級の選手の入学であった。この二人が3年時に日本学生対校選手権(全カレ)で優勝を果たすと、ここから連勝街道は続いていく。日本選手権リレーでは学生新記録を更新して優勝、翌年の関東学生対校選手権(関カレ)でもさらに記録を更新して優勝と三大大会全てで勝利を手にした。そして連覇を狙った秋の全カレでは、アクシデントがありながらもルーキーの中川博文(平14人卒=福岡・光陵)と小島茂之(平14人卒=千葉・市船橋)を新たにメンバーに加え優勝。その地位を不動のものとする。高橋・馬塚両氏の卒業後もエースに成長した小島氏を中心に連勝を重ね、三大大会11連覇を達成。この圧倒的な強さからいつしか早大は『リレーのワセダ』と呼ばれるようになっていった。
今回はこの当時、エースとして活躍され、3年時にはシドニー五輪の代表となった小島氏に『リレーのワセダ』の強さの秘密や、現在務められている日本陸連強化委員の視点で見たいまの短距離界についてのお話などを伺った。
※この取材は8月16日に行ったものです
「身近な目標がいたのが大きかった」
当時の様子を語る小島氏
――ワセダに進学を決めた経緯はどのようなものでしたか
私は中学から陸上を始めて短距離を専門にやってきて、高校でようやく芽が出始めて全国クラスの大会で入賞ができるようになりました。大学進学を考えたときに、最終的にワセダに決めた経緯というのは、やはりずっと前から世界を見ているという視点と、当時強い先輩たちがいらっしゃったのが大きいです。毎回のように五輪選手を出されていましたし、そういう高い志を持ったところでやりたいと思ったのが一番のきっかけですね。自分のイメージしていたところと先輩たちから聞いていた話が一致して、なおかつその当時強い選手が集まっていたところでもありましたので、自分がチャレンジしたいという思いが強かったです。
――入学してからの生活はいかがでしたか
ソウル五輪代表の大沢さん(大沢知宏=平4人卒=埼玉・松山)という方がコーチされていました。大沢さんがお仕事をもっていらっしゃって週末しか来られない中で、当時は学生主体でやるというかたちでしたので始めは戸惑ったところもありました。ただ、これがある意味良かったのかもしれないですね。あとは大学のチームとして動いている中で、合わせるところは合わせなければいけませんし、部のきまりや1年生ならではの仕事というのもありました。
――寮生活はいかがでしたか
寮が(現在の場所に)移る前も三ケ島だったのですが、30人ちょっとが入る寮でした。入れる人数が限られている中で、当時は競技成績で入寮が決まりましたので寮生活を振り返ると競技意識の高い集団だったと思います。高校までは親元で暮らしていましたので、集団生活は初めてだったのですが、違う種目の先輩とか長距離の先輩も含め同じ部屋になって、その人の考え方や価値観などが、大変勉強になりました。
――練習内容はどのようなものだったのでしょうか
コーチと相談しながらやるのですが、時期によってはとてもハードなトレーニングを行いましたがそれ以上に練習のさじ加減であったり、オンとオフの切替であったり、チームとして雰囲気をつくっていくのがものすごく大事で、チームとしての目標、個人としての目標があって、そこにたどり着くためにどういうものを組み合わせたら強くなれるのかということを考えて練習を組み立てました。チームで行うまとまった練習と個人で行う練習とありましたが、どちらでもチーム内でのライバル心むき出しでしたね。ただ、毎年同じものを淡々とやっていても強くなれないので、様々な視点から自分を見つめるということをしました。自分がどうやっていま走っていて、速くなるためにはこうしたらよいのではないか、このような動きをしたいからここを鍛えてみよう。また、速い選手は自分と何が違うのだろうといった素朴な疑問を自分に問いかけ、細かいところまで自分を知り、それを改善するためにどのようなことが必要か考え、実行することが競技力向上への近道だと思い、自分自身を研究、分析しましたね。
――チームメイトとはどのように過ごされていましたか
家族のような存在で競技でもプライベートでも一緒の時間を過ごすことが多かったです。競技の面ではもちろんチームメイトではあるのですが、ライバルだと思っていました。この人たちに勝てば日本の上位に入れる、そういう身近な目標がいたというのが大きかったです。そのためにこの大学を選んだというのも実際あります。
――先輩の高橋さんや同期の中川さんはどのような存在でしたか
競技実績は私のほうが下の人間でしたので、強い選手たちがどういう練習をしてどういう生活をしているのかというのを直接見て学ぶことができたのは大きかったです。寮生活もともにさせていただいたので一緒にいる時間も多く、そういうところでいろいろと参考になりました。
――競走部に入って苦労されたことはありますか
最初の1年目の半年ぐらいは苦労しましたね。生活環境の変化とか、そういう見えないストレスがあったのかなと思います。5月の関カレ前にケガをして出場できませんでした。先輩とトレーニングメニューや考え方についてぶつかったこともありました。でも、そのようなことがあって乗り越えられたことで成長できたのかなと思います。
――ことしの世界ジュニア選手権での日本選手の活躍が話題となりましたが、ご自身が出場された世界ジュニア選手権を振り返っていかがですか
実は私は世界ジュニアが初めての海外の試合でした。今振り返ってみるとかなり緊張していましたね。予選のリアクションタイムはかなり遅かったのを覚えています。海外の試合は日本の試合ほどいろいろなことがきちんとしていません。その中で自分の力を発揮するためにどうしたらいいのか、ということを日を追うごとに考えるようになりました。ジュニアの時期にこのような大会に出場できたことは後の競技人生においても大きかったです。
――世界ジュニア選手権に出場されたことは、その後の自信につながりましたか
はい。運良く大学1年生のときに世界ジュニアにいかせてもらったのですが、その経験がなかったら、まず2年後のシドニー五輪はなかったなと思います。大きい大会に出たらそれだけ強い選手にも会えますし。またこのような舞台で競技がしたいということを強く思いました。
――加藤修也(スポ1=静岡・浜名)選手や桐生祥秀選手(東洋大)の世界ジュニア選手権での活躍を見てどのような印象を持たれましたか
加藤くんも過去最高の成績で銀メダル、桐生くんも100mで史上初のメダルということで、素晴らしい結果だと思います。彼らはジュニア世代のトップレベルでありますし、まだ若いのでどんどんいろんな経験をしてもらいたいです。いまはまだ失敗しても修正がきくし、経験や慣れというのが大切だと思います。東京五輪も決まりましたし、彼らの目標とするところでしっかりと力を発揮できるようにいろいろチャレンジしてもらいたいなと思います。
――個人種目で、在学時に最も印象に残っている試合を教えてください
やはり五輪を決めた南部忠平記念大会は忘れませんが、実は良い試合より悪い試合のほうが(印象に)残っているんですよね。五輪に行ったあとの大学4年のときに、ケガもあったのですが全然走れなくて。関カレで個人に出れずリレーで連勝記録を止めてしまった試合が印象に残っています。最上学年になって自分の競技成績が悪いところで後輩を引っ張っていけなかったというのが唯一の心残りですね。大学3年から4年にあがるときにいろいろと五輪で感じたことがあって、変えようと思って実は失敗してしまったパターンなんですね。でも、のちのちのことを考えると私は2009年まで走らせてもらったのですが、このときは一度失敗しましたけれども、この失敗があったので競技を続けられたのかなと思います。
――シドニー五輪の話に移らせて頂きます。大学3年時に100メートル、4継出場されました。会場の雰囲気はいかがでしたか
想像していた以上の雰囲気でした。特に競技場自体が大きく観客数多かったので雰囲気というのはこれまで経験した試合とは別格でしたね。オリンピックに懸けてきた選手の集まりでもあるのでアップ場、競技場内では独特の雰囲気でした。
――五輪に出場したことは大きな経験でしたか
はい。五輪は4年に一度で特別な大会です。その大会に出場できたことは大きな経験でした。もう一度この場で勝負したいという気持ちを強くもちました。結果的に一度の出場でしたが、この経験があったからこそいろいろな事を考えるようになったと思います。
――五輪を強く意識されたのはいつ頃からでしたか
五輪に出たいということはずっと思っていましたが五輪に出られるかも、手が届くかもと思ったのは大学に入ってからですね。大学1年超えてから、2年生になってからだと思います。それまでは「夢」だったものが明確な「目標」になりました。
――シドニー五輪での4継では急遽(きゅうきょ)出走するというかたちになりましたが、6位入賞に貢献されました
もちろん補欠として準備はしていたのですが、準決勝で1走の川畑さん(伸吾、現綜合ガードシステム)がケガをして、急遽まわってきた形でした。ここで走れる喜びと同時にこれ以上ない舞台で今の力を発揮しようと思いました。
――6位入賞という結果を受けていかがですか
本当はメダルに届くか届かないかと言われているところで勝負をしていて、結果的に6位に終わってしまって、改めて自分の力不足を感じました。1走を任されたのですが、もうちょっと前で(バトンを)持っていければ展開的にも楽だったのかなと思いましたね。
「リレーは負けないという気持ちは強かった」
――続いて4継の三大大会11連覇について伺っていきたいと思います。小島さんは4連覇目からメンバーとして貢献されていますが、全カレでのレースはいかがでしたか
私が部に入った時には持ちタイムが6番目だったので、まずリレーのメンバーに入ることに必死でした。初めて秋の全カレで走らせてもらって、自分の中で一つ目標としていたものがかなって本当に心の底からうれしかったです。
――4連覇目のレースでは、高橋主将が4×400メートルリレー(マイル)を犠牲にしてケガを抱えながらも4継に出走し、アンカーで逆転するという劇的な試合でした
当時から4継だけは絶対に負けないと思ってやっていたんです。実際私は全カレで個人で出させてもらいましたが準決勝で落ちているのでこれ以上チームに迷惑はかけられないと思いました。先輩がそういうケガがあったり、違う種目を捨ててこっち(4継)を走ってくれるというのがあって。私を育ててくれたキャプテンでもありますし、「なんとか勝ちたい」と思っていました。本当に少しでも早く(バトンを)渡せるようにという気持ちで走っていました。
――6連覇目となる関カレでは、38秒台という大学史上初の記録を出されましたが、アンカーを走っていかがでしたか
(38秒台が)出るだろうなという雰囲気はすごくありました。実際記録を出したところでうれしかったですけど、もっと上にいかなきゃなというのがありました。勝って当たり前といわれる時代の中で勝ち続けてはいたのですが、絶対それで満足してはいけないと思っていましたし、当時強いメンバーがたくさんいたので、もっともっとタイムを縮められると思っていました。だから38秒が出てうれしかったですけど、それで満足してはいけないと思っていました。
――どこまでタイムを縮められるとお考えでしたか
当時だったらあと0.2秒はあげられるという話をしていました。
――連覇を重ねる中で、プレッシャーに打ち勝つためにどのようなことをされていましたか
プレッシャーを打ち破るためには、もう練習しかないですよね。練習での自信というのが本番での自信になるので。もう不安要素を一切なくした上で試合に臨むようにしていました。走る前に弱気になったらまずベストパフォーマスンスは出せないですね。
――この頃から早大のエースしてリレーを走られていますが、エースとして走ることと、チームの3番手・4番手で走ることの違いはありますか
チーム内での声のかけ方とかは違いますけど、それでもやるべきことは変わらないと思います。チームの一員として自分の力を100パーセント出すというだけですね。常にリレーを走るときには責任感を持って試合に臨んでいました。
――10連覇目となる全カレでのレースでは再び学生記録を更新されました
全カレのあとすぐにシドニー五輪があったので、個人は外してもらってリレーだけになったのですが。ライバルの東海大がものすごく力をつけてきていて、どっちかなという状態でリレーに挑みました。結果的に勝てたのですが、ライバルが力をつけてきてという状況でチーム内にも違った雰囲気があり、走順に関してもそうですし、戦略を考えました。そのような状況が個々の力を発揮し記録更新にもつながったのだと思います。
――小島さんはアンカーを走られていることが多かったかと思いますが、4走に起用された要因は何だとお考えですか
最後はもちろんコーチの判断になるのですが、アンカーが一番私が好きな走順でした。どの走順も大事なのですけど、順位が決まるところですのでチームの中から信頼されている選手が起用される場合が多いかと思います。また、ワセダには代々3走のスペシャリストがいたという事が大きかったと思います。私は不器用だったので3走ができなかったのですが。3走は加速がついた状態でカーブを走らなければいけないので、技術が必要で、世界でも力のある選手が3走に起用されるパターンも多いです。
――大学では選手が卒業、入学などで入れ替わりますが、それでも4継で強さを保てたのはどのような理由があったのでしょうか
2年生以上がどうやって1年生に伝統や意識、技術を教えていくかというのが大事だと思います。特性はあるのですが、誰が何走をやってもいいようにできていなければいけません。ここ数年はかなりメンバーも多くて、誰かがケガをしてもすぐそこに入れるようなかたちをとっています。バトン練習には多くの時間を使って技術を高めていきます。
――12連覇が懸かった関カレでは惜しくも敗れてしまいました。当時の心境はどのようなものでしたか
はっきり言って僕のせいなんです。僕の調子も上がってきていない中でケガあがりだったので。なおかつバトンがうまくいきませんでした。責任を感じましたね。
――『リレーのワセダ』という呼び名は小島さんの在学中の頃から使われるようになったのでしょうか
連覇を始めたぐらいから呼ばれ始めたでしょうか、私たちはリレーを強化していく上で個人もレベルアップしていくというスタンスでやっていました。リレーの伝統を途切れさせてはいけない、リレーで勝つことは私たちの存在感を見せるところでもありますし、リレーは負けないという気持ちは強かったです。
――ワセダのリレーの強さの理由は何だと思われますか
本番に挑むまでの練習とチームワーク、そしてチームメイトを信頼するということが大事だと思います。実際、ケガとかも練習であるので、そのようなトラブルがあったとしてもどうやってチームとしてまとめていくかというのが大切です。それとリレーというのは4名しか走れません。切磋琢磨しながらまずはメンバー入るために努力していました。その中でメンバーに入れない選手も出てきますが、一つの目標に向かい、そういう信頼する仲間と一緒にやっていたからからこそメンバーが力を発揮出来たのだと思います。リレーはバトンパスがあるので、もちろん個人スポーツとはまた違うものなのですが、同じ方向を向いて同じ釜の飯を食べて、言いたいことは言うし、何でも言い合える関係を築けたことが大きいと思います。
――小島さんにとって4継とは、どのようなものでしょうか
自分を成長させてくれたものですね。リレーで勝つために個人でレベルアップしなければならないというのはありましたし、逆にワセダのリレーが弱かったら個人の成績がどうなっていたか想像できないですね。
「相乗効果が生まれて、もっと活性化していく」
――卒業されたあと実業団時代を振り返られていかがですか
最初の頃は思うような成績が出なくて1度移籍をしているんですけれども、2000年で代表になってからいろいろケガとか調子が悪くなって代表に入れませんでした。2006年で代表に復帰したときに、本当にやめなくて良かったと思いましたね。いろいろな方に助けて頂いて本当に感謝しています
――実業団に入られて始めの頃は苦労も多かったのでしょうか
成績が出ていない時期が長く、いま思うと悪いリズムが当たり前になってしまっていたのかなと思います。でも、それに気がついたのが移籍のきっかけでもありましたし、環境を変えていくというのはひとつの手としてありますし、あとは自分から動かなければいけないと改めて思いました。
――引退レースはOBの方たちが集まり感動的なものとなりましたが、いかがでしたか
幸せでしたの一言ですね。陸上を通じてこれだけの人と知り合うことができて、いろいろな形で支えて頂いて、引退レースを見ていただいて、その後、語り合ってということができて、自分がやってきたことが間違いではなかったんだなと思いました。先生をはじめ大会側、市とか本当にいろいろな人に協力していただいて、私がそこで引退できたというのは、私がワセダに入って本当に良かったと思った瞬間でもありました。
――競走部の練習は現在は見ていらっしゃるのでしょうか
私は拠点が関西なのであまり行けていないのですが、春の合宿には顔を出しましたし、大会でも大きい大会だと選手に会えるのでそういうときに話をしたりしています。選手に対してプラスになることがあればできる限りのことは協力したいと思います。
――日本陸連強化委員会ではどのようなことをされていますか
代表選手の合宿のマネジメントや、コーチだったり大会に帯同するということをしています。
――現在の日本の陸上の短距離界を見ていていかがですか
本当に明るい話題が多くて、若い選手が非常に強く良い成績を残していますので、そういう意味で相乗効果が実際にあります。上の世代も負けていられないという意味で頑張っていますし、良い意味での相乗効果が生まれて、もっと活性化していくのではないかなと思っています。いまは海外に出ていく選手も多いですし、チャンスは多いので恐れずにチャレンジしていってほしいです。
――早大の主将である九鬼巧(スポ4=和歌山北)選手の印象はいかがですか
ロンドン五輪に行きましたけれども走れないまま終わって悔しい思いをしていると思うので、きっと次の世界選手権、オリンピックでは頑張ってくれると思います。
――日本の4継、マイルの現状をどのようにとらえていらっしゃいますか
4継に関しては世界でずっとメダルから入賞というラインを保っているので、あとはここのレベルをもう一段階あげて、必ずメダルを取りに行くというスタンスをとっていきたいと思っています。もちろんアメリカ、ジャマイカという強いところはありますけど、3番、4番、5番手は本当に混戦だと思うので、常にそのレベルにあるようにできればと思います。マイルに関しては世界大会ではここ数年、決勝進出できていないですが、チャンスという意味では4継と同じようにあると思うんです。実際アテネ五輪では4番で、メダルまで本当に少しの4番だったので。種目的にも世界と戦える種目だと思いますし、まずは個々のレベルを上げていくことが必要ですね。
――東京五輪が決まりましたが、短距離種目ではどのような活躍に期待したいですか
東京五輪が決まって若手育成もしていかなくてはいけないというところで、この間世界ジュニア組が頑張ってくれたのは非常にうれしかったですし、あの世代がちょうど五輪の頃に核となる年代になると思うので、6年後ベテランといわれる年になる、たとえばOBの江里口くん(匡史、平23スポ卒=大阪ガス)とかの世代も頑張ってくれるのではないかと思っています。目指してほしいところは個人種目での決勝進出と両リレーでのメダルですね。東京五輪が決まったというのはひとつのモチベーションになると思います。私があと15年くらい若かったら、そこを目指したいと思いますし(笑)。なので、私たちとしても東京五輪に向けて何ができるかということを考えながらやっていきたいです。特に選手とも近いところにいますし、少しでも選手のために環境づくりといったところで力になれればと思います。
――サポートする側として陸上に関わるようになって、現役選手のときと比べて感じることはありますか
現役選手にしかできないということはあると思います。もちろん競技のパフォーマンスで人を感動させるというのはトップアスリートにしかできないことだと思いますし、それにプラスアルファで社会貢献活動なども積極的に行ってほしいですね。そういうのはすごく大切なところで、やっぱり応援してもらって、いろいろな人に支援してもらって競技ができているので、サポートする側になった今はトップアスリートの価値というのをもっと高めるようなことをしていきたいなと思います。
創部100周年にあたり
記念の色紙には「信」という言葉を記した。これには自分そして仲間を信じることが大切であるという意味がある
――競走部はことし創部100周年になります。100周年という節目の年を迎えて、どのような感想を持たれますか
私が競走部と関わって16年です。それ以前の歴史は本や写真、またお話を聞いて知っていますが、長い歴史の中でことし100周年を迎えるにあたって、本当に言葉では言い表せられないような重みがあるなと。その間に戦争があったり、東京五輪が開催されたり様々な歴史がありました。先輩たちがつくってきた歴史、伝統を我々が引き継いでいい形で後輩たちに引き継いでいければなと思っていました。我々としてもベストは尽くしましたし、その時代に生きたことを誇りに思います。ことしは九鬼くんをはじめ学生には新たな歴史の1ページを作ってまた次の代に引き継いでほしいなと思います。
――走ること、陸上競技は小島さんにとってどのようなものですか
生きがいですね。それを仕事にできたこと、自分の中で満足するまで走ることができたので、幸せな人間だと思っています。中学校で陸上部を選んだのも単純に走ることが速くなりたいという理由で、ある意味そこからきょうのきょうまでつながっているのかなと思います。
――最後に競走部の後輩に一言お願いします
いまできること、やれることを一生懸命考えてほしいですね。やはり競技ですので結果にはこだわってほしい。人生の中で考えると4年間というのは短いかもしれないですがこの大学での4年間は特別だと思います。4年間終わったときに満足できるように、一日一日を大切にしてほしいと思います。後輩の皆様のご活躍を楽しみにしています!
――ありがとうございました!
(取材・編集 副島美沙子)