【連載】『エンジの記憶』 第2回 鈴木章介

陸上競技

 日本陸上界の黎明(れいめい)期からずっと第一線で活躍してきた早大競走部。太平洋戦争により一時、大会などは中断されたが、織田幹雄(昭6商卒)らの尽力もあり戦後にはまた多くの大会が復活。昭和30年頃、現在の記念会堂の辺りにあったグラウンドで練習を積んでいた競走部は女子部員の入部やメルボルン五輪への現役選手の出場などで戦前の盛り上がりを取り戻しつつあった。しかし、戦後長らく日本学生対校選手権(全カレ)の覇権は中大や日大に奪われていた。

 その時代に鳴り物入りで競走部に入学した鈴木章介(昭和34卒=静岡・浜松商)は専門の棒高跳やリレー種目で中心選手として活躍。3年時には全カレで11大会ぶりの総合優勝、4年時には主将としてチームを連覇に導いた。鈴木氏はその後、十種競技で日本記録を更新し、卒業後には東京五輪に日本代表として出場。さらに陸上競技を引退してからは縁あって読売巨人軍のトレーニングコーチに就任し、伝説のV9に貢献するなど輝かしい功績を残した。そんな鈴木氏に競走部や東京五輪の思い出、V9時代の秘話などを伺った。

※この取材は6月30日に行ったものです

「ユニフォーム伝達式は感動的なもの」

当時の様子を語る鈴木氏

――ワセダに入学された経緯を教えてください

陸上を始めたのが中学2年生のときだったのですが、当時はまだ走幅跳、三段跳の選手でした。その後、浜松商高で棒高跳を始めまして、当時はまだ棒が竹製でしたね。その後、スチール、ジュラルミン、グラスファイバーになりました。4種類の棒を扱ったのは僕の年代ぐらいじゃないかな。それぞれトレーニングも変わってきますしね。

――ワセダでも始めは棒高跳をやられていたのでしょうか

そうですね。インターハイで優勝して、小樽の東大競技会で優勝して…、とにかく全ての大会で大会新記録で優勝したんですよ(笑)。そういうこともあり、ワセダから勧誘に来てくれないかと思っていたのですが、全く来てくれませんでした(笑)。年明けてから「ワセダを受けてみないか」と言われて、ワセダを受験して、なんとか補欠合格で入学することができて、競走部に入部することができました。だからエンジで白文字のWのユニフォームを来て日本一になりたいというのがワセダを受けたきっかけですね。

――エンジへのあこがれはいつから生まれたものだったのでしょうか

棒高跳をやっておられた先輩がいて、その方がエンジのユニフォームを来て飛んでいた姿を見てですね。僕らのときは、早慶対抗競技会(早慶戦)で3位以内、関東学生対校選手権で5位以内、日本学生対校選手権(全カレ)で6位以内、日本選手権で6位以内に入らないと競走部のバッジもユニフォームももらえなかったんですよ。僕は1年の早慶戦で2位に入って、その年の終わりには選手証とユニフォームをもらえました。だからインターハイで優勝した選手でも、最初は練習着しかもらえなくて、厳しかったですよ。練習は一緒にしていても、競走部員としては卒業できなかった人が何人もいましたね。どのスポーツにもリーダーがあるじゃない。早大競走部は伝統もあり、大学陸上界でもリーダー的存在だったと思います。ワセダには織田幹雄さんからずっと引き継いできたキャプテンだけが着れるユニフォームがあるんですよ。僕も4年生の時に着たのですが、僕の2年後ぐらい後から着られなくなってしまったのかな。昔の純毛のユニフォームでね、白いエンジの文字がピンクに染まってしまっているような伝統あるものでした。だから僕らの時のユニフォーム伝達式は本当に感動的なものでしたよ。

――当時はどのような練習をされていたのでしょうか

当時はウォーミングアップを長距離も短距離も投てきも跳躍も全員一緒にやっていました。ジョギングから体操から、長距離が先頭を走って、投てきが一番後ろを走っていました。当時トラックで直線を走って、カーブで緩めるといういわゆるインターバルトレーニングという心肺能力を鍛える練習をよく行っていたのですが、長距離部員に付いて行ったんだよね。それが1500メートルの強さにつながったと思います。十種競技では1500メートルで負けることはなかったね。オリンピックでは負けちゃったけど(笑)。

――十種競技をやろうと思ったきっかけは

たまたまですよ。東京でアジア競技大会があり、その時に十種競技で世界で戦える人がいなかったからです。先ほどのように1500メートルもできるし、中学時代は幅跳び、三段跳びもやっていたので。投てきも高校時代に棒高跳の練習になると思ってやっていました。当時はウェイトトレーニングなどないので、棒高跳に必要な腕力などは投てきの練習で鍛えていたからね。昼休みの時間を使って、校庭で円盤や砲丸を投げていたりしていましたよ。

――在学時に印象に残っていることは何かありますか

やはり国立競技場で3、4年時に全カレ総合優勝したことかな。2回総合優勝したのは戦後だと僕らだけじゃないかな。当時の大臣だった河野一郎(正12政経卒)さんを胴上げしてね。高校時代もそうですが、個人優勝よりチーム優勝を大事にしていました。あとワセダでは3年生の時、学生会館のそばのグラウンドが使えなくなってしまったんですよ。あのときは自動車部が協力してくれて。近くの練習場まで自動車部が送ってくれたのをよく憶えています。だから全員で一緒になって練習場を転々としていたので、競走部の結束もかなり強かったな。

――全カレではやはり何種目も掛け持ちしていたのですか

 そうだね。僕は棒高跳と4継(4×100メートルリレー)とマイル(4×400メートルリレー)に出ていました。そのときはまだ大学の種目には、混成競技はありませんでしたしね。

「普通の国際大会とは全く違う」

五輪の話では笑顔も見られた

――十種競技の日本新記録をマークされたのはいつごろだったのでしょうか

ワセダを卒業して大昭和製紙に入ってからですね。26年ぶりかなんかでした。草薙競技場にいまでも記念プレートがあるはずだよ。

――東京五輪で一番印象に残っていることを教えてください

僕のレベルではとても勝てないなと感じました。走るのも、投げるのも、跳ぶのも。特に投てきは当時の日本記録を更新できるような記録を持つ選手が十種競技にいました。日本でなんだかんだ言われても、投てきが全く話にならなかったですね。例えば100メートルや400メートル、1500メートルではそこそこいけても、投てきで完全に離されてしまいました。

――東京五輪に出場されたことによる周りの反応はいかがでしたか

東京で初めてオリンピックを行うという期待感とオリンピック選手が浜松から出たということで関心を持ってもらえたよね。そして、浜松商高は当時黄金世代で、東京オリンピックに陸上だけで3選手を輩出したんですよ。だから余計陸上競技に関心を持ってもらえたと思います。

――東京五輪は15位でしたが、それでも世界とのカベをかんじたということでしょうか

そうだねえ。やはり1500メートルは絶対的な自信を持っていたので。トップに日本人が走れば、励ましの手拍子や拍手ももらえるだろうから、何としてでも最初からトップに出て引っ張ってやろうと思っていました。でも最後の200メートルでカナダの選手に前に出られてしまってね…。

――やはり他の国際大会とは全く違う舞台なのでしょうか

それはもう。普通の国際大会とは全く違う雰囲気だったね。ワアーじゃないよ、ウオオオーって感じだね。

――昨年2020年に東京五輪開催が決定されましたが、どういった感想を抱かれましたか

まあ行ってみたいな、見てみたいなということと、あと聖火ランナーをやってみたいなと思います。最終ランナーじゃないですよ、ただ浜松を走るときは是非ともやってみたいと思っています。83歳まで頑張って生きて、チャンスがあればやってみたいですね(笑)。

――国立競技場が改修されることについてはいかがですか

まああんなに外観を立派にしなくていいから、選手がベストコンディションで戦えるような施設が欲しいね。日本はあれがダメだったとか言われないように、お金をかけるのだったら、選手が記録を残せるような競技場が欲しいですね。

――鈴木さん以来なかなか十種競技で世界と戦える選手がいませんでしたが、どのようにご覧になっていますか

底辺の拡大というか、いまは高校生の八種競技などがありますが、ああいった子供たちが混成競技をやろうという指導の確立や環境作りをやってほしいよね。日本は早いうちに種目を決めすぎちゃう傾向があるからね。アメリカでは様々な競技を同時並行でやっていくから総合的な筋肉が発達して、その後に自分の本当に向いているスポーツを決めていくんだよ。でも日本はサッカーだったらサッカーだけと、一つのスポーツだけをやるからのそのスポーツの専門的な筋肉しか発達しない。やはり総合的な筋肉が欲しいね。極端な話、スポーツ選手が弁護士の資格を持っている選手もいるよね。そういう意味では色んな意味で日本は遅れてる。スポーツ医学などでも、10年、20年は遅れているんじゃないかな。

「変えることばかりで大変だった」

――巨人のトレーニングコーチに就任された経緯を教えてください

当時、王貞治さん(現福岡ソフトバンクホークス球団取締役会長)に一本足打法を教えた荒川博(昭26商卒=東京・早実)さんが広岡達郎さん(昭30教卒=広島・呉三津田)とかと共に記念会堂でトレーニングをしていました。そこで僕らも一緒に走ったりしていたんですよ。そういう関係で荒川さんにもお世話になっていたことがありました。それである日、荒川さんに「コーチをやってみないか」と誘われたのがきっかけですね。荒川さんから川上哲治(元読売巨人監督)さんが「春、秋に陸上のコーチに教えてもらうと走力、筋力アップにつながったから、シーズンを通して教えてもらいたい」とおっしゃられていたことを教えてもらいました。そこで私が成功すれば、陸上界の地位向上にもつながる、そういう意味でも絶対に成功させてやろうという思いがありました。川上さんは野球にプラスになるならば、何でも取り入れてやろうという常に前進するという考えも持っていましたね。

――苦労されたこともあったのでしょうか

どうしてプロ野球のコンディションニングはこんなにも遅れているのだろうとよく思っていました(笑)。だって当時は腹いっぱい食べなきゃ、動けない、力は出ないという考え方でしたからね。食生活から、体を冷やさないようにということから始まって、試合の時は七分目くらいでやめておくなどいったように選手に指導していきました。時には、帝国ホテルの料理長に会ってスポーツ選手にどういうものを食べればいいのかということを聞いてメモして、既婚者には奥さんに渡したりなどということもしましたね。もう変える事ばっかで大変でした。

――練習内容などはどういったものだったのでしょうか

走る基本を教えました。あとは選手一人一人長所も短所も違うので、一人一人にあったメニューを作りました。シーズンの終わりには一人ずつ手紙を書いて、昨年のトレーニングの結果とそれを踏まえての来年のシーズンに向けて強化したいポイントを記したりなどしましたね。

――王貞治さんや長嶋茂雄さん(現読売巨人終身名誉監督)はどういった選手でしたか

スーパースターはスーパースターであるゆえんがあるね。野球一筋というか、練習でも自分は何をやろうという目的意識をもった練習を常にやっていたと思います。

――当時のV9のチームはどんなチームだったのでしょうか

非常に個性が強い選手が多いチームだったと思います。そういう選手は上手く使えることができれば、ものすごい力になります。その代り、突き放してしまうと途端にバラバラになってしまう。そういう連中が協力して「この3連戦には絶対に勝とう」という試合になると結束して必ず勝利できていました。だからV9という偉業も達成できたのだと思います。

――率いる川上監督の力も大きかったのでしょうか

そうですね。本当に素晴らしい人でしたね。私は川上さんに15年教わりましたが、教えられたことは納得できたことばっかりでした。それを常に実践できていた方が川上さんでした。とくにスター選手の使い方が上手かったですね。ONを入れ替えて3番4番にしたりなどです。どうしても5番打者がいなかったので5番の選手を育成されるのに苦労されていましたね。

――印象に残っている試合などありますか

いくつも勝ったり負けたりしているから、試合で印象に残っているものはないけど、長嶋さんの凄いところは、ロッテとの日本シリーズでトンネルして2点入って逆転されてしまったときがありました。そのあと、僕のところ来て、僕に何点差か聞いた後、長嶋さんが「じゃあランナー二人出て俺がホームラン打てば逆転だな」って言ったんですよ。そしたら、次の回に本当にホームランを打ったことがあったんですよ。そういうのがあの人にはあったね。あと今の選手はネクストバッターズサークルで相手投手のタイミングに合わせて素振りしたりしているけど、長嶋さんは一切そういうことはしていなかった。じっと投手を見つめていたね。

――王選手はいかがでしたか

王選手は練習の虫だったね。常に野球を100%ではなく120%考えている人だったね。

――15年間コーチをやられてその後は引退という形だったのでしょうか

僕は選手と一緒に走って、選手と先頭に走って指導していました。それができなくなったので、コーチを辞めたということです。僕は自慢じゃないけど、1軍と2軍どちらも見ていました(笑)。ナイトゲームが終わって10時から12時まで多摩川グラウンドで練習して、その後後楽園球場に向かっていました。藤田元司さん(元読売巨人監督)のときに4年間臨時コーチでやっていたときに原辰徳(現読売巨人監督)などにも教えていましたよ。

創部100周年にあたり

記念の色紙には「全力走」と書き記した鈴木氏。今でも後輩の活躍が楽しみだと語った

――競走部が今年100周年を迎えますがどのように思われますか

よく伝統ある競走部と言われますが、後輩たちには今一度伝統とはどういうものであるかということを考えてもらって、人それぞれ異なるとは思いますが、本当に競走部の伝統を教えてほしいですね。やはりキャプテンという人間が様々な形で率先して引っ張って、若い選手を引っ張っていくことが必要ですね。とにかく憧れのワセダであってほしいです。と同時に、他校から見て模範的というかリーダーであってほしいです。

――近年の東京箱根間往復駅伝(箱根)や全カレなどでの活躍は鈴木さんの眼にはどう映っていますか

大変嬉しいです。後輩が活躍してくれてWを見るたびに感激しております。是非とも先輩を喜ばせるような活躍を見せて頂きたいです。

――毎年箱根はご覧になっていますか

見ていますよ。選手達には誇りと自信を持って、陸上界のリーダーであってほしいし、憧れのワセダであってほしいです。

――鈴木さんにとって陸上競技はどういったものですか

いま現在の私があるのも、陸上競技をやっていたからだと思います。

――ありがとうございました!

(取材・編集 井上義之)