【連載】『エンジの記憶』 第1回 織田幹雄

陸上競技

 毎年4月に行われる「織田幹雄記念国際大会」、国立競技場に存在する「織田ポール」そして現在、早大競走部が練習する「織田幹雄記念陸上競技場」。陸上関係者なら一度は聞いたことのある「織田幹雄」という名前。彼こそが早大競走部在籍時に五輪で日本人初の金メダルを手にし、その後『日本陸上界の父』とまで呼ばれた名選手である。

伝説の選手として今も語り継がれる織田氏

 明治38年に生まれ、広島県で育った織田幹雄(昭6商卒)は15歳の時に陸上競技に出会いその魅力にひきこまれていく。天性のバネと負けず嫌いの性格から特に跳躍競技で力をつけ、17歳の時には走高跳と走幅跳で日本記録を更新。19歳の時にはパリ五輪に出場し三段跳で6位入賞と日本陸上界の第一人者に成長していった。20歳になると兄の進めと同郷の先輩・沖田芳夫(昭4商卒)が在籍しているという理由から、1925年に早大第一高等学院に進学。そこで後に走幅跳で世界記録保持者となる南部忠平(昭4専門部商科卒)と出会う。織田氏は南部氏という良きライバルと共に切磋琢磨(せっさたくま)して陸上競技に打ち込んでいった。

 23歳になると織田氏はそのまま早大へ進み、競走部は黄金時代を迎える。第1回日本学生対校選手権(全カレ)では織田氏が110メートル障害、走幅跳、三段跳で優勝。沖田氏が砲丸投、円盤投、ハンマー投の投てき3冠を達成するなど空前絶後の強さで初代総合優勝に輝いた。その圧倒的な強さはこの年に行われたアムステルダム五輪代表選手の半分以上が早大生であったことからも伺える。そして多くの早大生が出場したこのアムステルダム五輪で織田氏は日本人初の快挙を成し遂げる。3種目にエントリーしていた織田氏は2日目に行われた走高跳と4日目に行われた走幅跳では満足のいく結果は得られなかった。このままでは終われないと迎えた5日目の三段跳。織田氏は1回目から15メートルを超えるジャンプで幸先良いスタートを切る。さらに2回目には15メートル21の大ジャンプ。海外の有力選手のミスもありこの時点でトップにたつ。3回目以降は他の選手の追随にあうもなんとか1位を死守し、日本人初となる五輪の金メダルを手にした。体格で劣る日本人の優勝は表彰の際の国旗や国歌の演奏が準備されていないほど衝撃的な出来事であった。

三段跳という競技名の命名者も織田氏である

 その後、競走部の主将として全カレの3連覇に貢献するなど活躍したが、足のケガなどもあり28歳で一戦を退いた。引退後は東京五輪で陸上競技日本代表総監督を務めるなど日本陸上界に大いに貢献。多くの選手の育成にあたった。数々の実績が認められた織田氏は晩年、IOCオリンピック功労賞や第1号となる早稲田スポーツ功労賞を受賞し、日本陸上連盟の名誉会長にも就任。いつしか『日本陸上界の父』と呼ばれるようになっていた。

 織田氏が活躍したのはまだスポーツ科学が発達しておらず、指導者もいない時代。それでも「強いものは美しい」の考えのもと自ら体の動きを研究し、強さと美しさを追い求めて精進していた。その絶え間無い努力と人一倍の工夫で世界と渡り合った織田氏こそ「ワセダから世界へ」の先駆者であった。

(記事 石丸諒、写真 『アサヒスポーツ』3巻26号(1925年12月1日)表紙、大学史資料センター所蔵)