大学に入学してわずか1か月あまりで世界選手権A標準記録を突破。すでにエンジにふさわしい頼もしさのある橋元晃志(スポ1=鹿児島・川薩清修館)は間違いなくこれから日の丸を背負っていく男だ。そんな橋元の強さの秘密、そして素顔とは――。
※この取材は5月8日に行ったものです
「短距離の競技力向上の何か鍵がある」
走りの変化について、身振りを交えて説明する橋元
――世界選手権A標準記録突破おめでとうございます。周囲の反響もすごかったのではないでしょうか
ありがとうございます。そうですね。A標準という一つの大台を突破したという自分でもびっくりした記録だったので、やはり周りの人からおめでとうなどといった言葉は掛けられました。
――第47回織田幹雄記念国際大会(織田記念)の際は、まだ大学生活に慣れていないとおっしゃっていましたが、ゴールデンウィークが明けて授業が再開したいまはいかがですか
だいたいの(生活の)流れはできてきたのですが、高校と違って朝も早いですし、生活のリズムの慣れというところに関してはまだ自分のリズムになってきてはいないかなという感じですね。でも、だいたいの生活のかたちはできてきたかなというところです。
――上京して練習環境も大きく変わったと思います。どういう点が高校と違いますか
高校は顧問の先生がある程度指示を出して、先生の指示に従ってやっていくというかたちでした。大学ではもちろん先生も指導してくださりますが、そこから自分で考えて、先生の言っていることをしっかり理解して自分で表現していかなければいけません。そういうところが高校と違って難しいかなと思うところです。
――高校時代の指導者の方はお父様だったと伺いましたが、そこは割り切って練習していたのですか
そうですね。父と息子という親子の関係ではなくて、指導者と選手という区切りは、入学する前にしっかりしようと話したので、しっかりやっていました。
――川薩清修館高校を選ばれたのはお父様がいらっしゃったからですか
それもありましたが、やはり行くなら県内で短距離が強いところに行きたいなと考えていたので、そうなったときに父のいる学校がたまたま先輩に恵まれていて、県でトップ、インターハイでも強い成績を残していた影響で、自分で「インターハイで活躍したいな」と思い、(川薩清修館高校に)入りました。
――では、ワセダを志望した理由は
やはり早稲田大学の短距離は、江里口さん(匡史、平23スポ卒=大阪ガス)をはじめ、木村慎太郎さん(平22スポ卒=アシックス)など世界で活躍している数々の選手を輩出していて、短距離の競技力向上の何か鍵があるんだろうなと思いました。そこで、自分も世界を目指していければと思い進学を希望しました。
――ワセダに進学するのではなくて、地元に残ってお父様の指導を受け続けるということは考えなかったのですか
父である先生の下でずっとやっていくというのも一つの方法ではあると思いますが、そうするとやはりその考えだけ、その指導方法だけを聞くことになってしまうので、新たな走りの技術だったり、新たな感覚だったりが入ってこないというのはありますね。あとは、やはり地元だと競技や大会のレベルが低いので、競技力向上のためには高いレベルで戦っていく必要もあるのかなという風に考えて上京しました。
――その橋元選手の決断に対してお父様は、指導者と父親という立場からそれぞれどのような言葉をかけられたのでしょうか
父からは、高校を選ぶときもそうだったのですが、「自分の好きなように自分の道は決めていいよ」と言われていたので、それは大学を選ぶときも一緒でした。「自分の選ぶ道をしっかり進んでいきなさい」と言われました。
――ワセダ競走部の練習に合流されたのはいつ頃ですか
ことしの3月に鹿児島で合宿があって、そこから練習に参加してそのまま上京しました。
――ワセダ競走部の練習には慣れましたか
まだ入学して1か月と少し経ったくらいで、先生からも指導していただくのですが、まだ理解できないところも多いので、これからしっかり自分の中で理解していけたらいいなと思っています。
――それでは大学に進学するために上京して、東京でびっくりしたことなどはありましたか
電車ですかね…。とにかく人が多いですよね。本当に田舎から来たので、驚きました。鹿児島はスカスカなんですが、東京っていつでも人が多いじゃないですか(笑)。人の多さに一番びっくりしました(笑)。
「まさかあそこまで良いタイムが出るとは思わなかった」
静岡国際では最後まで伸びやかな走りを見せた
――ここからは大学に入ってからのレースのお話を伺いたいと思います。第29回静岡国際大会(静岡国際)のレース後に走り方を変えたというお話をされていました。改めて、どのように走り方を変えたのか具体的に説明していただけますか
いままでは膝を曲げたらそのまま(足を下して)地面に力を伝えるという動きが、自分では高校までの感覚から良いと思っていました。真下に足を下ろしていって走っていくという感覚だったのですが、大学に入学して礒先生(繁雄監督、昭58教卒)の話などを聞いて、ストライドも伸ばしていかなければいけない、もっとストライドやピッチを上げていかなければいけないと感じたんですね。そこで、自分の中でいろいろ考えて、膝を引き上げたら、いままで真下だったのを気持ち少し前に付いて切り替えしていけば、ストライドも広くなるし、ピッチもそんなに変わらないなと考えました。そういう意識でやってみようかなと静岡国際では走った結果、うまくはまってああいう結果になったという感じですね。
――織田記念まではいままで通り、高校時代に良いと感じていた走り方で走っていたということですか
そうですね。織田記念はまだ真下に接地していく感覚で走っていました。
――そこまで短い間でも、意識したら走りを切り替えられるものなのでしょうか
本当はそんなにうまくいくものではないと思うのですが(笑)、たまたまですね。自分で考えていた動きがうまく体で表現できたということが大きいと思います。
――なぜ静岡国際で新しい走り方に挑戦しようと思ったのですか
織田記念に出て、レベルの高い選手と走って、自分のいまの走りではまだ日本のトップレベルの選手には通用しないなと強く感じました。同時に、何か変えないとここから記録は伸びていかないなという風に強く思いました。それで走りを変えようと思いました。
――織田記念と静岡国際の間にいままで指導を受けてきたことなどを思い返して、こういう走りが良いのではないかという考えに辿り着いたということですか
そうですね。それの一発目を試してみよう、まずはこの動きでいってみようという感覚がうまく合いました。
――やはり織田記念のときに、100メートルで日本歴代2位の記録を持つ桐生祥秀選手(京都・洛南高)と一緒に走ったことは大きかったですか
やはり悔しかったですね。自分も負けていられないなと思いました。
――レースの最中から、手ごたえはあったのでしょうか
200メートルは最初カーブなのですが、カーブが得意でカーブがうまく走れれば記録が出ます。スタートした瞬間、静岡国際はカーブがうまく走れて調子は良いなと思ったので、タイムも20秒5くらいは出るかなと思いました。でも、まさかあそこまで良いタイムが出るとは思わなかったので、驚きましたね。
――ラスト100メートルでタイマーが視界に入ってくると思いますが、走っている時にタイマーを見て、予想以上のタイムが出るかもしれないと感じたりはするのでしょうか
タイマーは走っているときはあまり見ないですね。ゴールした瞬間に見ます。
――スタートが苦手というお話を静岡国際のあとにしていらっしゃいましたが、静岡国際では良いスタートを切れていたと思います。その後スタートに自信はつきましたか
静岡国際はいままでと違った感覚でスタートが切れて、あまり考えて出たスタートではないので、まだ次やれと言われてできる自信はないのですが(笑)、そのスタートの感覚がまだ残っているので、そこを練習で繰り返し走って、スタート練習をして、自分のものにできたらと思います。
――それでは、織田記念まではあまり調子が上がっていなかったとお話されていましたが、その原因は何だったのでしょうか
やはり生活環境が変わったというのが大きいですね。高校では、そんなに規則正しい生活というか(笑)。キチキチしていた方ではないので、そこでの戸惑いは大きかったですね(笑)。
――やはり寮生活ということが戸惑いに
高校までは陸上だけやっていて、他のことはちゃらんぽらんだったので(笑)。でも、そうもやっていられないので、大学でしっかり陸上だけではなくて他の面でも気配りなどをしていって、人間性も高めないといけないというのが難しいですね。陸上だけやれなかったというか…。
――陸上だけに集中できなかったということですか
集中できなかったわけではないのですが、他にやることもたくさんあったので、そこの切り替えが難しかったです。
――では、それでも走り方を変える前の織田記念で公式記録ではないながらも自己ベストを上回るタイムが出たのはどうしてだと思いますか
きょねんインターハイが終わって、最後の大会である日本ジュニア(選手権)が終わってだいたいの選手は引退して残りの高校生活を楽しむのですが、僕は大学1年に上がってもしっかり成績を残せるように、父の影響もあって、いままで通り練習を積んできて、大学に入学したということが大きいと思います。競技力を維持したまま大学に入学できました。
――3年生の冬も1、2年生の冬と変わらず練習してきたと
そうですね。変わらず練習していました。
――それでは、100メートルと200メートルでは200メートルの方が得意だとおっしゃっていましたが、200メートルの方が得意な理由というのは
僕は基本マイペースというか、日常生活では俊敏ではないので、100メートルだとあっという間で、まだ力を出し切れないまま終わってしまうんですよ。でも、200メートルだとまだ自分の中に余裕ができて走れるので、それが得意な理由ですかね。
――200メートルという距離が自分には合っているということですか
そうですね。性格的に合っているんだと思います。頭がついていかないんです、100メートルだと。
――もう一瞬で終わってしまうと(笑)
そうです!考える間もなく終わってしまうので。
――200メートルを始めたのは高校生からということでよろしいのでしょうか
正確には高校2年生からですね。高校1年生の時は、まだ体力もそんなに備わっていなかったので、100メートルを基盤に、100メートルを中心にやってこうということで、200メートルは高2から本格的に始めました。
――高2で21秒を切った選手は当時初めてだったということですが、200メートルを初めてすぐにそういうタイムが出たのはやはり適性だったのでしょうか。それとも準備期間が長かった分しっかり準備ができたので、200メートルで結果が出るようになったのでしょうか
中学時代は100メートルの方が得意で、200メートル全然タイムが付いてこなかったので、その時は100メートルが得意なのかなと思っていたのですが、高1になって練習量も増えて、長い距離に対する走りというものを教わって、距離に対する不安がなくなったのが大きいのかなと思っています。
――高校時代はインターハイで100メートル2位、200メートル優勝、日本ジュニアでは2冠を達成しており、勝たなければいけない大会で結果をしっかり残している印象があります。その勝負強さという点を自分ではどう感じていらっしゃるのでしょうか
なんですかね…。インターハイのようなレベルの高い大会になると、高校2年生で結果を出している分、プレッシャーも掛かりますが、そのプレッシャーを楽しむというか、平常心でそういうプレッシャーに負けない気持ちがあったから、大きい大会でも自分の調子を崩さずにしっかり結果を出せたのだと思います。
――プレッシャーには強い方だということですか。感じないわけではないですよね
プレッシャーはやはりありますが、プレッシャーとかを考えてもしかたないと割り切っているので、プレッシャーも感じつつ、駄目だった時は駄目でいいのではないかなという、軽い気持ちというか(笑)、性格的にそんなに背負わないタイプですね。
――愛敬彰太郎選手(スポ1=三重・桑名)も同じ200メートル20秒台の選手としてワセダに入ってきていますが、やはり意識はしますか
大なり小なり。気にはなりますね。そういう刺激が部内、同年であるということはモチベーションという意味では良いと思います。
「オリンピックに出場できるような力を蓄えていきたい」
――静岡国際で良いタイムが出て、早稲田記録の更新への期待の声もありました。その更新はもちろん、その先の目標というのは
静岡国際で、いきなり20秒35という記録を出したのですが、まだそれは言わばまぐれの記録であって、セカンドベストという面でもまだ0.5秒離れています。静岡国際で出した走りはまだ自分のものになっていないと思うので、10日後に関東インカレ(関東学生対校選手権)、日本選手権で、静岡国際のような走りができてこそタイムが自分のものになったということだと思っています。なので、静岡国際で記録は出しましたが、それはそれとして、関東インカレではまた気持ちを新たにして頑張っていきたいです。
――お話に出ましたが、このあと関東インカレが控えています。現在の調子はいかがですか
静岡国際が終わったばかりで、まだいい感覚も残っているので、調子としては全然悪くないです。
――六大学対校大会(六大学)で4×100メートルリレー(4継)に出場されており、関東インカレでも出場されます。リレーへの思い入れなどがあれば教えてください
早稲田大学のリレーは連覇が懸かっているので、自分も連覇の力になれればと思います。
――リレーの走順で得意なところや好みなどはありますか
基本どこでもできるのですが、高校まで2走をやっていたので、そういう面では慣れなどもあって2走が得意だと思います。
――高校時代はバトンが苦手だったというお話を聞いたのですが、いまはいかがですか
高校1年生の時と2年生の時にインターハイが懸かった試合で、僕がミスをしていしまったんです。それが悔しくて、3年生の時は絶対ミスをしないという気持ちが強かったので、自分のどこが駄目なのかというバトンに対する弱点をしっかり考えて、高校3年生でちゃんとできたおかげで克服しました。いまではバトンは得意とまではいかないですが、人並みより少し上くらいにはできるかなという感じです。
――六大学では3走を走られていましたよね。3走はカーブで2走はストレートですが
リレーになると直線が得意になるんですよ。
――スタートダッシュがないからですか
たぶんそうですね。立ったままだと加速してから直線になるので。
――立ったままの方が加速しやすいわけではないですよね
そういうわけではないですね。
――何が違うのでしょうか
感覚の話になるのですが、(スターティング)ブロックで出ることにあまり良いイメージがないんです。スタートなどの速い動きになってくると、自分の頭の中でイメージが作れないと良いかたちにはなっていかないのですが、ブロックでのスタートのイメージがまだ自分の中で作れていないということが大きいですね。リレーの立ったままのスタートは自分の中ではイメージができているので、結果的に立ったままの方が得意です。もちろん、ブロックの方が速いは速いんですが。
――それでは、関カレの目標を聞かせてください
100メートル、200メートル、4継とありますが、100メートルは山縣さん(亮太、慶大)など本当に速い選手が出るのでそこにいかに食らいついていけるかですね。山縣さんは別次元なので、2、3番手でどう勝負できるか、自分の走りができるかというところを心掛けていきたいと思います。200メートルは飯塚さん(翔太、中大)がやはり日本のトップなので、絶対に一緒に走ると思います。静岡国際では自分と同じくらいのタイムの人と走った中でのレースだったので、自分の走りを崩さないで落ち着いて走れましたが、やはり自分より速い選手と一緒に走った時にどう自分の走りができてタイムが出せるかが大切になってくると思っています。200メートルではもちろん勝負しにいきますが、そこで自分の走りを見失わないようにするということを大事にしていきたいと思います。
――自分と同じようなタイムの人と自分より速い人と走るのはどちらが得意ですか
自分と同じくらいのタイムの人ですかね…。自分が一番速い方が走りやすいですね。周りが誰もいないので、自分のことだけ気にして走っていけるので、そっちの方が得意です。
――視界に人が入ってくると走りづらい
静岡国際でのレースパターンだと、スタートから出られて、独擅場というか一人で自分のことだけ気にして走れましたが、トップのレベルの人と走ると、スタートで最初に出られたりだとか、後半接戦になったりするので、そこで動きを崩してしまわないようにというのがまだ静岡国際の時点ではできていないところです。そうなった時に自分の走りができてタイムが付いてくるように気持ちを作っていきたいですね。
――関カレのあとには日本選手権もあり、世界選手権も見えてきています。日本選手権の目標はいかがですか
タイムは出しましたが、自分のトータルの強さ的にはまだまだだと思うので、日本選手権は挑戦者という気持ちで挑みたいと思います。結果的に世界選手権に行ければ、そこは頑張っていきたいです。
――では、いまの課題は何でしょうか
まだまだ筋力的な部分で弱いですし、技術的にも後半の動きで左右の動きにズレがあって崩れていってしまうんですね。静岡国際では、その前までよりは崩れなかったのですが、まだまだ後半失速して崩れてしまうので、そこをしっかり走れる筋力をつけたいです。あとは、まだまだ走り方も改善の余地がそこを4年間でしっかり作れていければいいと思います。
――それでは、大学4年間の目標をお願いします
4年間は時間があるようであっという間だと思うので、時間を無駄にせず先生の指導をしっかり理解して、大学4年生の時にオリンピックに出場できるような力を蓄えていきたいと思います。
――ありがとうございました!
(取材、編集 川嶋悠里、写真 目良夕貴、西脇敦史)
◆橋元晃志(はしもと・あきゆき)
1994年(平6)11月18日生まれ。鹿児島・川薩清修館高校出身。自己記録:100メートル10秒39。200メートル20秒35。先日行われた第29回静岡国際大会にて、200メートル日本歴代6位タイとなる自己ベストを叩き出した大型ルーキー。