「大成長」示した日本一
シングルスで3回、団体戦を合わせれば計5回、大学日本一を経験した黒野葵衣(スポ4=東京・武蔵野)。大学では華やかな結果を残したが、もともと全国優勝は遠い目標だったという。転機となった試合、成績を出す中で感じたプレッシャー、それを乗り越えた過程。振り返って『大成長』と表した、早大での4年間を追う。
小学1年時から本格的に競技を始めた黒野。「関東の大学で卓球をしたい」という思いを胸に、岐阜県の中学校から東京・武蔵野高に進学した。中でも早大を志望したのは、文武両道の校風に引かれたから。「高校まで大した成績もなかったので、(大学卒業後は)卓球以外で仕事をしようと思っていた」と、引退後を見据えての選択だった。それまで全国優勝の経験はなかったが、「自分が試合に出させてもらって、団体戦で優勝できたらいいな」と、期待をふくらませて卓球部の門をたたいた。当時の早大は、前年度に大学三冠(春季関東学生リーグ戦、全日本大学選手権・団体の部、秋季関東学生リーグ戦の3大会全てで優勝すること)を達成するなど、大学卓球界で圧倒的な存在。質の高い練習に、「レベルが違う」と思いつつ必死でついていった。
4年時の全日学でプレーする黒野
転機が訪れたのは、1年時の秋季関東学生リーグ戦でのこと。事実上の優勝決定戦で7番を任されたものの敗れ、チームも優勝を逃した。大一番での敗戦によって、意識が変わった。それまでは必ず勝ってくれる上級生たちの背中を追いかけるばかりだったが、「(自分も)勝って貢献したい」「学年が上がった時、黒野が取ってくれるから安心だって思ってもらいたい」という自覚が芽生えたのだ。加えて、2年時には「自分のやりたいことを中心」とした展開ではなく、「相手の嫌がっていることなど、相手中心」の組み立てができるように。同年秋に全日本学生選抜強化大会で優勝すると、3年夏には全日本大学選手権・団体の部(インカレ)での優勝に貢献するなど、めきめきと実力を伸ばしていった。
3年秋になると、一学年上の実力者たちが引退し、黒野は主将に就任した。しかし、原動力になっていたはずの「勝ちたい」という気持ちが、「負けられない」という受け身の姿勢につながってしまう。代替わり直後の全日本学生選手権(全日学)で優勝したことで、「黒野が穴埋めしないといけない」「団体戦では黒野が勝ってくる」という周囲の期待が大きくなっていた。「埋めなきゃと思っていた期間はぐだぐだでした」。そう振り返るほどに苦しんだが、チームメートの存在に救われた。実業団対抗の日本リーグに特別参戦し、それまで出場機会の少なかった選手も積極的に起用した。それぞれが社会人選手を相手に善戦するのを見て「自分が落としても大丈夫」と、肩の荷が下りた。その後4年時のリーグ戦とインカレでは全試合に出場し、シングルスで敗れたのは1試合のみ。10月には全日学で連覇を達成し、翌月の全日本学生選抜選手権でも2位に入った。個人での結果は意識していないと言いつつ、次々と好成績を残した。
全日学の準決勝に勝利し、笑顔を見せる黒野
その黒野をして「頑張ったと思える回数が圧倒的に少ない」と言わしめるスポーツ、卓球。それでも、「頑張っているのは自分だけじゃない」と思わせてくれるチームがあったから4年間走り続けた。主将としては、目標の三冠達成こそならなかったが、「自分がやれることは全て出したかな」と充実感をにじませる。もともと卓球は大学までと決めていたが、大学生活を経て考えが変わった。「この仕事をしたいとか、これになりたいというものが出てこなくて。無理して卓球を辞めてまで、やりたいことじゃないことをしなくてもいい」。働きながら、勤務先企業の部活に所属することを決めた。早大で得た『日本一』という大成長の証を手に、黒野は新たな舞台に立つ。
(記事、写真 是津直子)