2016年、世界中を沸かせたリオデジャネイロパラリンピック(リオパラリンピック)。その大舞台に、期待を一身に背負った一人の早大生が立っていた。卓球部に所属する、岩渕幸洋(教4=東京・早実)だ。国内最高峰の国際クラス別パラ選手権は2連覇中で、日本では向かうところ敵なし。そして今回、リオパラリンピックでは表彰台入りを目指したが、結果は予選2連敗で敗退し悲願達成はならなかった。初めてのパラリンピックを終え、岩渕は今何を思うのか。4年後に迫った東京パラリンピックに向けて、雪辱を誓う気持ちも語っていただいた。
※この取材は9月27日に行われたものです。
「厳しい舞台」までの取り組み
――リオパラリンピックを振り返っていかがですか
準備にはベストを尽くしたのですが、実際に行ってみると想像を超えるような厳しい舞台でびっくりしました。
――代表が決定した時の心境はいかがでしたか
決まった時はほっとしました。それから、色々なメディアに取り上げてもらったりして環境が変わり、パラリンピックの偉大さを感じましたし、(パラ卓球を)知ってもらうきっかけになったと思います。
――代表決定後の国際大会では手応えはありましたか
あまりいい成績が出せなかったですね。前哨戦と言われた5月の大会(スロベニアオープン、スロバキアオープン)でも、「いい結果を出して、ここでしっかり(調子を)取り返そう」と思っていたのですが駄目でした。リオパラリンピックを控えて、他の選手がしっかりやるようになってきたと感じました。
――代表決定後に何か変えた点はありますか
決まってから新しいことに取り組むのは厳しいと思っていたので、今までやってきたことの確認というのを重点的にやってきました。
――パラ卓球の知名度が上がったと感じる出来事はありましたか
リオパラリンピックでは試合の中継もなかったですし、自分ができることは少なかったと思っています。今回は、別所さん(別所キミエ、兵庫県障害者スポーツ交流館)がブレイクして、別所さんのおかげでパラ卓球が皆さんの目にも触れる機会が増えてよかったんですけど、自分自身としては貢献できなかったと思っています。
――リオパラリンピックの開催に合わせて都営大江戸線の駅がパラスポーツにジャックされていましたが、その広告はご覧になりましたか
9月21日帰国にしたのですが、そのイベントも21日までだったので見に行けませんでした(笑)。でもこうやって国を挙げてやってもらってありがたいです。
――メディア出演が増えてから、大学で声をかけられたりはしましたか
ない、ない、ない(笑)。ないです(笑)。
――リオパラリンピックの前には大学構内でメディアの撮影も行われていましたよね
撮影はありましたが、周りは「誰?」となっていたと思います(笑)。
――ナショナルチームの直前合宿ではどんなことに取り組みましたか
対戦相手を想定して、自分のやるべきことの確認を行っていました。
――幅広い年齢層の選手で構成されるナショナルチームですが、雰囲気はいかがですか
トレーナーさんからは「卓球チームの構成は家族みたい」、「おじいちゃんやおばあちゃんやお父さんがいる中で(岩渕選手は)一人息子だ」と言われますね(笑)。仲がいいかは分からないですが、一致団結していたと思います。
――ワセダのチームメイトに外国人選手のプレーを真似てもらい練習していると以前お話しされていましたが、リオパラリンピックの直前までその練習はされていたのでしょうか
ことしの4月からTACTIVEと契約してもらって、そこのコーチに練習を見てもらうことになったので、部員と練習する機会はあまりなかったですね。
――リオへの出発前、ワセダのチームメイトからはどのような言葉をかけられましたか
「頑張れよ」と声をかけてもらったり、寄せ書きを書いてくれたり。本当に応援してくれました。
肌で感じた独特の雰囲気
リオパラリンピックを振り返る岩渕
――ここからは実際にリオデジャネイロに行かれてからのお話をお聞きします。リオデジャネイロの気候や現地の人々の生活はいかがでしたか
選手が行くようなところは比較的安全で、治安の悪さはあまり感じませんでした。本当に華やかな雰囲気で一日一日が楽しくて、すごく良かったです。
――どのように華やかだったのでしょうか
お祭りみたいな感じで、いろいろなところに大会のロゴマークがありました。
――選手村での生活はいかがでしたか
そんなに悪くありませんでした。
――選手村は五輪で使われたものと同じなのでしょうか
同じです。でもパラリンピックではエレベーターがたくさんあって、車いすの人も使えたのが良かったと思います。バリアフリーになっていました。
――会うことができてうれしかった選手はいますか
芦田さん(創、現トヨタ自動車)とか、他の競技の人と交流させてもらう機会が多かったです。芦田さんには応援に来てもらいましたし、芦田さんの応援に行って走幅跳を見ました。あとは、山本篤さん(スズキ浜松アスリートクラブ)の走幅跳を芦田さんと一緒に応援に行きました。「リレーメンバーが応援しています」といった感じで、テレビに映っていたみたいで(笑)。芦田さんと多川さん(知希、AC・KITA)の間に座っていて、あたかも僕が「リレー走りました!」みたいな(笑)。1走・2走・3走・卓球という並びで映っていて、そっちの反響の方が大きかったですね(笑)。
――現地に入ってから本番までどのような練習をされてきましたか
コーチのパスの確認といったセキュリティーが厳しかったです。今回は協会の人が来ていたのですが、選手村の練習場に思うように入ることができませんでした。よその国の人と練習したり、サーブ練習をやったりということがありましたね。
――コンディションはいかがでしたか
自分的にはすごく調子は良かったです。移動の疲れもありましたが、ハイパフォーマンスサポートセンターで体のケアを受けたりすることができました。交代浴がありましたし、マッサージとかもしてくれたので、それを活用していい状態で試合に入れましたね。
――時差ぼけはいかがでしたか
最初はきつかったのですが、リオ入りしてから1週間ぐらいあったので試合の日までには確実に普通の状態でいけたのかなと思います。
――初戦はベルギーの世界ランク2位の選手との対戦になりましたが、どのような意気込みで試合に臨まれましたか
最初はどういう舞台なのか分からなくて、本当に楽しみにしていました。始まる前は華やかな雰囲気だったのですが、いざ試合が始まってみたらすごく厳しい世界で、そのギャップにびっくりしてとても緊張しましたね。練習前のフォア打ちが全然入らなくなってしまいました。どこに球が当たって、どうやって飛んでいくのか分かんなくなって(笑)。
――観客の多さに圧倒されてしまったということでしょうか
うーん、何ですかね。普段の国際大会は、格上の人と対戦するのはチャンスなだけで、そんなにリスクはないのですが。パラリンピックはこれだけたくさんのトップ選手が集まっている大会なので自分は一番下の方でしたが、勝たなくてはなりませんでした。一大会で結果を出さなくてはいけないということの難しさを感じましたね。
――試合内容を振り返ってみていかがですか
自分が用意してきたことは間違ってなかったかなと思うのですが、実際に緊張した場面で思うようなプレーができませんでした。自分のミスが出てきてしまって、競るようなところにもっていけませんでした。
――2戦目に向けて気持ちの切り替えはできましたか
2戦目をしっかり勝てば、2位通過で予選突破が決まるということは分かっていました。気持ちを切り替えて、そこまで引きずることはなく2試合目に入ることはできましたね。
――2戦目を振り返ってみていかがですか
2戦目は1戦目ほど「どうしよう」というのはありませんでした。最初のフォア打ちもちゃんとできて、「よし、今回は大丈夫だ」と思って試合に入りました。ですが、気持ちの面ではそういうのを感じていなくても、体が全然動かなくて。相手はワンパターンなので、そこだけをしのげばしっかりできるだろうと思っていたのですが、相手のプレーの質がいつもと違っていました。他の遊びはないから逆にミスが少なく、そこで先に自分にミスが出てしまいました。やっぱり1戦目と同じで、勝負するところまでいけませんでしたね。
――予選を2連敗で終えましたが、やはり悔しさはありましたか
終わった瞬間は何も分からなくなって。もちろん、ちょっとしてからすごく悔しいなというのはありました。パラリンピックという舞台でやるということの厳しさをそこで感じましたし、オリンピックのすごい選手たちが「魔物がいる」とか「戦いなんだ」と言っていた意味をそこで初めて知ることができたと思います。
――パラリンピックで勝利するために必要なことは何だとお考えでしょうか
国際大会のやり方やノウハウというものはこの4年間培うことができました。東京に出場することはそんなに難しいことではないと思うのですが、パラリンピックという一つの大会で結果を出すことが一番大事なところで、それを4年間かけてできたらなと思っています。本当に試行錯誤しながらやっていくかたちになると思うのですが、具体的にはもっと練習の中に厳しさを出すというところが一つのテーマになってきます。今までは一人でやってきたという面がありましたが、体力面でも精神面でも見てもらうコーチをはじめとする周りの環境を変えることに取り組んでいきたいと思っています。
――環境を変えるために何か具体的なプランはありますか
ワセダを卒業して社会人になるので、環境は必然的に変わります。その中でどれだけこちらがリクエストして、どれだけやっていけるのかが大事になります。普段の姿勢を一からつくり、周りの人の理解を得なければならないので、それも一つの戦いとして周りの環境をそうやってつくっていけるような選手を目指してやっていきたいと思っています。
――ご自身の武器である前陣での攻撃やサーブに手応えはありましたか
手応えはありましたが、それ以前の問題だったという感じですね。自分が用意してきたことや戦術といった強みは、シーソーゲームになったところで出せるものです。ですが、そのパラという舞台で戦うにあたって土台がまだしっかりしていませんでした。経験のある選手は、「ここで取れる」といった全体的な展開が分かりますが、僕にはそれが欠けていたと思います。技術面だったり戦術面だったり、普段の実力には差がないけれども、試合のつくり方や勝ち方というところではまだまだだったなと思いました。
――改めて今大会の課題と収穫を教えてください
いつもの対戦相手もパラリンピックでは様子が違いました。例えば元軍人にとっては国を背負って国のために戦う舞台になるし、中国などの社会主義系の国だったら、結果を出せば一生の生活が保証されます。いつもと背負うものが変わり、戦い方も遊びの部分がなくなって仕上げてきます。東京の前にパラリンピック独特の雰囲気や、卓球を知らない観客が入る大会の様子を体験できたというのは本当に収穫だと思います。
2020年へ、決意新たに
岩渕は、東京パラリンピックに向けてさらなる進化を誓う
――リオパラリンピックを終えて、精神面や環境面で変化したことはありますか
東京で金メダルを取ると言っていましたが、それがどういうことなのかを知ることができたと思います。漠然と金メダルと言っていましたが、今回優勝した選手はなぜ勝てたのか、なぜそんなプレーができるのかを実際に目の当たりにして学ぶことができました。
――岩渕選手はかねてから尊敬する人として大島祐哉選手(平28スポ卒=現ファースト)を挙げられていますが、その大島選手からリオパラリンピックの前後でかけられた言葉はありますか
大島さんには出発前から「頑張れよ」と言葉をかけてもらっていました。帰ってきてから、どやされるかなって思っていたのですが(笑)。実際は「しょうがないな」と優しい言葉をかけられたので、びっくりしました(笑)。大島さんはリオに行く前から「甘くないぞ」と言ってくれていて、その意味が今分かって、答え合わせではないですが、厳しさも学べた気がします。
――帰国してからはどのように過ごされていますか
ちょっと卒業研究が忙しくて(笑)。これからは卒業研究をメインに、卒論を仕上げていきたいと思います。卓球はきのう久しぶりにやったのですが、重力を感じました(笑)。
――東京パラリンピックを目指すにあたって、今回リオパラリンピックを経験できたことは大きいですか
大きいですね。(パラリンピックは)楽しむものじゃなかったです(笑)。「楽しんでこいよ」とみんな言ってくれて、試合前と試合後は楽しい雰囲気を味わえたのですが、試合は勝って楽しむものだと思いました。試合中に楽しむような余裕はなくて。水谷隼選手も「(オリンピックは)戦いだ」と言っていましたが、その意味が分かった気がします。
――11月には3連覇が懸かる国際クラス別肢体不自由者選手権が控えています
国内大会で一番大きな大会になるので、リオパラリンピックで学んだ厳しさを試合に落とし込めたらいいかなと思います。今回学んだ強さや厳しさを試合に生かしていきたいです。
――4年後に向けて、今どのようなビジョンを持っていますか
今回のリオパラリンピックでも、世界ランクが僕と同じくらいのブラジルの選手が決勝まで行っていたり、ブラジル選手がすごく活躍していました。東京パラリンピックではそのアドバンテージがありますが、今回のように世界ランクが低いと初戦から厳しい戦いになるので、東京で結果を出すためにはブロックの上位でスタートすることが大切だと思います。東京までに世界ランク5位以内に入って、ブロックの第1シードになれるようにしたいです。
――これからの練習拠点は
実業団チームがあるところに就職するので、会社の卓球部に所属するかたちでやっていきます。実業団として2年連続日本一になっているところなのですが、遠慮せずに自分からアピールしていくことが大事なのかなと思います。
――では最後に、改めて東京パラリンピックでの目標を聞かせてください
東京では優勝、金メダルが目標です。今回リオパラリンピックを経験して、どうしたら金メダルが取れるのかが少し分かった気がするので、もっと具体的に東京パラリンピックに向けて頑張っていきたいです。
――ありがとうございました!
(取材・編集 境智鷹、渡辺新平、稲満美也)
座右の銘を色紙に書いてくれました!
◆岩渕幸洋(いわぶち・こうよう)
1994年(平6)12月14日生まれ。身長162センチ。東京・早実高出身。教育学部4年。岩渕選手は両足が内側に曲がる「先天性内反足」であり、装具で固定してプレーしている。最近決めたという座右の銘は『絶対は 絶対ない』。この言葉を、絶対できないということは絶対ないんだ、という意味で捉えているという岩渕選手。「人間の可能性を伝えたいんです(笑)」と熱弁を振るってくださいました!