【連載】『令和4年度卒業記念特集』第52回 浅羽栞/競泳

競泳

 

大好きだからこそ「覚悟」をもって

 「兄の後ろについて水泳を始めた時から、一度も辞めたいと思うことはなかった」。昨季、早大水泳部競泳部門の女子主将を務めた浅羽栞(スポ4=東京・八王子)は、そう語りながらも現役引退を決めた。その背景を探ると、浅羽の競泳に向き合う姿勢や信念が、だんだんと浮かび上がってくる。明るい声の裏側にある強い「覚悟」に迫る。

 兄が通っていたスイミングスクールの送り迎えについて行き、兄の様子を見たのが浅羽の水泳人生の始まり。子どもの頃から平泳ぎだけは、他のどの種目よりも進級するのが早かったという。その平泳ぎを専門として本格的に取り組み始めた高校生の頃に、同じく平泳ぎの金藤理絵氏(東海大)のリオデジャネイロ五輪(リオ五輪)での金メダルに強い憧れを抱く。金藤氏と同じスイミングウェアを使用していたと、少し恥ずかしそうに話していた。合宿先でみんなで見たというリオ五輪での200メートル平泳ぎ決勝レースで、100メートルを折り返した時点での金藤氏の圧倒的な強さに衝撃を受ける。金藤氏は何度も競泳を辞めたいと口にしていたその一方で、黙々と努力を続け大舞台でその力を示した。同じ種目をしていたからこそ、その姿はより鮮やかに浅羽の記憶に刻まれた。

 その後クラブチームだけでなく、大学でも練習できる環境を求めて早大を選んだ浅羽。渡部香生子(平30スポ卒=現JSS)が在籍していたのも、大きな要因だったという。入学してから特に印象に残っている試合を二つ挙げてくれた。一つは1年生で迎えた日本選手権で2位を獲得したものの、ユニバーシアードには参加できなかったこと。2位の喜びと、ユニバーシアードに出場できない悔しさとが入り交じる、複雑な感情から浅羽の大学競技生活は始まった。二つ目は現役最後の大会となった日本学生選手権(インカレ)で、自己ベストを大幅に更新したこと。浅羽はインカレの個人種目優勝に、入学当初からこだわっていたがなかなか達成できず、ついに4年間で表彰台の一番真ん中に立つことは一度もなかった。2日目100メートルの決勝、そのタッチの瞬間も優勝したいという気持ちは強くあったが、結果は2位。それでもチームメイトから掛けられたたくさんの言葉で、徐々に気持ちが変化していったという。もちろん悔しさもあったが、自身の自己新記録でチームに勢いを与えられたのであれば、その時できるベストは尽くせたのだと気づいた。メドレーリレーはこれまでのインカレであまり調子が良くなく、先輩の足を引っ張ってしまい、メダルの期待を裏切る結果になってしまっていた。意気込んで臨んだ今回のメドレーリレーは、背泳ぎの亀井涼子(スポ1=東京・淑徳巣鴨)が前半から飛ばすのを見て緊張もあったが、みんなで戦っていると実感できてとても楽しめたと語る。浅羽は亀井から受け取った順位を一つ上げる活躍で、7年ぶりのメダル獲得に貢献した。翌日の200メートルは疲労も溜まっていた中で、それでも「人生ラストだから」と自らを奮い立たせていた。泳ぎの調子から見ればもっといいタイムが出せたのではないかと振り返るが、その時の自分にはこれが最大限だったとうなずく。そして何よりも、これまで8位のシード権を狙う位置にいることが多かった早大は、その順位を4位まで押し上げた。「自分のレースのことよりも、みんな一人一人が頑張って4位を取れたことがものすごく嬉しかった」。引退後も、様々な人に「感動した」と声を掛けられ「4年間悔しい思いもたくさんした中で、最後までやりきって良かったと思えた」と振り返る。

 水と仲良く泳ぐことを意識してきた

 そんな浅羽が大学4年間で最も悔しかったと語るのが、東京五輪の選考会だ。浅羽は選考会の1ヵ月前に自己ベストを更新。残り0.7秒ほどで派遣標準記録を突破できるという状況で、練習も質の高い状態で続けられていた。しかし、いざ選考会を迎えると自己ベストにも及ばず、同世代の選手たちが五輪出場を決めていくのを眺めることしかできなかった。浅羽は本番で力を出せない自分を見つめ直し、練習環境を変える決意をする。これが大学での競技生活で、大きなターニングポイントだった。それまでクラブチームで一人で練習を行っていたが、大学へと拠点を移しチームメイトと共に練習するようになった。仲間たちと競い合いながらの練習が「苦しいのに楽しい」と思うようになり、もっと速くなりたい、勝ちたいという思いが強くなっていく。一つの目標に対してどうしたら達成できるか話し合い、苦しい時に悩みを打ち明けることもあった。当然試合でレースに出ることは、競泳をやる以上一つのゴールとして必ず存在する。しかしゴールだけが大切なのではないと気づかされた。それまでの過程を、もがきながら試行錯誤を繰り返しながら進んでいく道のりを、仲間と歩く楽しさを知り、かけがえのない時間を過ごすことができた。

 4年生になり主将に選ばれると、練習を学内と学外で行う選手の壁を無くしたいと働きかけた。これは一つ前の主将の牧野紘子(令3教卒=現東京ドーム、あいおいニッセイ)ともよく話をしていたことだという。どちらの立場も経験したからこそ、浅羽はその意識がとても強かった。間に立って連絡を取り合ったり、練習環境は違っても一つのチームなのだという意識を共有していく。部員全員が同じ目標に向かって行こうとしても、その過程や程度は人それぞれ異なる。それをまとめて、一つの方向に持っていくのは大変な作業だった。同期の中でも意見のぶつかり合いはある。もちろん競技の面でも、結果で引っ張らなければというプレッシャーもあった。主将というチームをまとめる立場として参考にしたのは牧野だった。選手でありながら主将もやるということに浅羽が苦労を感じた時には参考にしていた。

 水泳の魅力は「タッチするまで何が起こるか分からないところ」。どれだけ準備を尽くしても、調子が良くてもタッチしてみたら思ったよりもタイムが伸びなかったり。反対に上手くいかなかったと思いながらタッチしたら、意外に良い結果がついてきたりもする。最後まで気を抜けないところが魅力だという。浅羽の思う平泳ぎは、小さい子どもでも速く泳ぐことができるくらい、筋力で泳ぐのではなく、繊細な技術を必要とする。どれだけ水と仲良く泳げるかにこだわって泳いできた。

 メドレーリレーのメンバーと共に笑顔を見せる浅羽(写真中央左)

 「兄の後ろについて行った時から、一度も辞めたいと思うことはなかった。水泳から離れたいと思った時間は、1秒もなかった」。それでも引退を決めた理由について尋ねると、一つ一つ丁寧に話をしてくれた。浅羽は東京五輪の代表選考会について、五輪出場ができなければ大学で現役引退する、という覚悟で挑んでいた。代表に入れるタイムに届かないまま、社会人で競技を続けるのは絶対に嫌だったと語る。好きだから続けるという趣味の延長線ではないところで、水泳をやりたかった。目標を達成できなければ辞めるという状況に自分を追い込んででも、目標をつかみ取りたかったがそれは惜しくも叶わなかった。競泳はタイムと勝敗を競う場所。目標を達成できなければ終わりという厳しい世界にいる以上、やりたいから続けるのではなく、自分でやると決めたことに覚悟をもって戦いたかったのだ。できることはやって、努力も尽くした。その上で五輪代表という目標を達成できなかったのだから、別のステージへ進むべき時期が来たのだと感じたそうだ。

 今後水泳とかかわる機会は減っていくと思われるが、その中でも後輩たちへの応援は続けていきたいと笑う。自身が先輩から連絡をもらった時、とても嬉しかったため、少しでも後輩の力になりたいと語った。水泳に、部員に大きな愛情で接し、強い覚悟で自らを高めてきた浅羽は、晴れやかな顔で自らの競技人生を終えた。

(記事 新井沙奈、写真 芦沢拓海)