ひたむきに向き合うこと
17年以上、水泳と共に歩いてきた。昨季の早大水泳部競泳部門で男子主将を任されていた平河楓(スポ4=福岡・筑陽学園高)。もっと強く、速くなるために、時には苦しい道も選んできた。水泳と、部員たちと、自身と。様々なものに向き合い続けてきた、平河の競技人生を振り返る。
水泳を始めたのは、年中の歳。当時の平河はとても体が弱く、よく風邪をひいていた。兄の友人の親から、水泳をやると体が強くなると話をされ、兄と共に通い始めたのがきっかけだ。間もなく育成、選手と順調にコースを上げていき、小学2年生で初めて全国大会に平泳ぎで出場した。「どんな経緯で平泳ぎを始めたのかも覚えていないくらい。気づいたら平泳ぎをやっていた」。その影響もあってか子供の頃には、同じ平泳ぎを専門とする北島康介氏(日体大)への憧れを強く持っていた。競技人生の分岐点は中学2年生。スイミングクラブの移籍だった。それまでのチームはみんなで仲良く水泳をやろうという雰囲気が強く、友達に会うために水泳をしている感じがあったという。その頃、上を目指したいという気持ちが徐々に大きくなっていった平河は、より厳しい環境での成長を求めて、近くの強豪クラブへの移籍を決意した。そのクラブには、平河と同じ平泳ぎでも全国大会で優勝している選手が何人も在籍しており、否応なく平河の意識は変化した。水泳の楽しい部分だけではない、競技としての厳しさを目の当たりにする。経験したこともないような苦しい練習にも歯を食いしばり、一緒に練習するライバルたちに勝ちたいという競争心も強くなった。そしてその選択は良い方向へとつながり、それまで一度も進むことができなかった全国大会の決勝に進出し、メダルも獲得。環境の変化は平河の進化を促していった。
「平泳ぎが一番難しかった」と語った
しかし、そんな平河には高校3年生の時には自己ベストを一度も更新することができず、水泳に嫌気がさし始めていた時期があった。大学でもタイムが伸びなければ、マネジャーになることも念頭に入れて、不安な気持ちもある中で入学を迎える。早大進学を決めた理由を聞くと、当時200メートル平泳ぎの世界記録保持者だった、渡辺一平(平30スポ卒=現トヨタ自動車)などを輩出したレベルの高さを挙げた。次に、高校生の時に参加した合宿で1学年上の大崎威久馬氏(令3スポ卒)と練習で競い合い(結果は平河が競り負けた)、それがとても楽しかったことが印象的だったからだと語る。競い合うことが楽しいと感じたのはその時が初めてで、そうした練習ができる先輩と共に練習したいと、大崎氏の進路であった早大への意識を持つようになった。そして入学してから「自分の足りないところを見つめ直す時間を持てた」と、自身の泳ぎに向き合い続けてきた。1年生の終わり、アメリカのフラッグスタッフに渡辺ら4人と共に高地合宿で「人生で一番」と言うほど追い込んで練習するなど、努力を続けていった。
大学の競技生活の中で一番悔しかったこととして今でも強く覚えているのは、1年生のインカレのメドレーリレー。直前の早慶戦では、メドレーリレーで1分0秒0という好タイムで泳ぎきり、「このタイムで泳げれば優勝を狙える」と周囲からの期待も高くなった。しかしインカレ本番ではそれよりも0.8秒ほど遅れ、優勝を0.3秒差で逃す。自分が足を引っ張り、引退していく4年生にも悔しい思いをさせてしまったと、責任を感じていた。それもあって翌年のインカレのメドレーリレーでは同じメンバーで、優勝できた時の喜びはひとしおだったという。自身の結果が特別良かったわけではなかったが、リベンジしたいと強い気持ちを持ち続けて1年間練習していた中で、優勝を達成できたことは、平河にとって大きな経験となった。
4年生になり、主将を任されると、後輩に相談してもらいやすいような環境づくりを意識した。参考にしたのは大崎氏。選手一人一人に合わせて声のかけ方も変えており、自分の練習も怠ることなく行動でも後輩たちに示していく姿をとても尊敬していると語る。上下関係はもちろん大事だが、それによって練習しにくい雰囲気になったり、試合で余計なプレッシャーがかかる状況にならないようにと、大崎氏にならい常にコミュニケーションをとることを心がけたそうだ。同期たちとも話し合い、自分だけではなく部員全員の調子を把握することで、チーム全体のレベルアップを図ろうと動いていた。しかし、選手たちもそれぞれで調子の上げ方を独自に確立している。夏の強化合宿など、チーム全体で取り組む際には意見が割れてしまうことも。水泳という個人競技の選手を、部としてまとめていく難しさを実感した。主将をやって嬉しかったことは「部員の自己ベスト」だという。部員の活躍を見て、自分もやってやろうと奮い立つことも何度もあった。水泳部は主将をスタッフと部員の投票で選出する。自主的に就いた立場ではなかったが、主将をやって本当に良かったという。人生で何かをまとめる立場を経験したことがなかったという平河。どうすればいいのか、何度も何度も考えてやってきた。自分の競技だけではなく、チーム全体を見なければいけない主将という立場。それでもそれを負担として抱え込むのではなく、その分喜びも倍になると感じていた。自分が主将としてやった事が部員につながって、結果に現れたときはそれまで以上に喜べるし、やる気にもつながる。楽しみをもってやれていた、と笑顔を見せた。
表彰台でメダルを掲げる平河(写真中央)
大学入学当初から、「4年間でしっかりけじめをつける」と競技生活は大学生で終えると決めていたという。在学中に東京五輪と福岡での世界水泳が開催されることが分かっていたため、そのふたつの日本代表を目標に掲げた。しかし、コロナの影響はやはり少なからずあった。アメリカでの合宿を中断して帰国。目標としていた五輪も延期となり、部活動も無期限で中止を余儀なくされた。地元に帰って練習しようにも、どのプールも営業していない。「こうして競技生活が潰れていくのかな」と思った時もあったが、五輪のための準備期間が与えられたのだと前向きに捉えるように。もし今開催されていたら出場できなかったけれど、延びたことで自分にもチャンスがあるかもしれないと、できることをやろうと動いた。実家に小さなビニールプールを置いて、チューブを使っての練習なども。日本代表という目標をぶらさないように過ごす中で、気持ちは強くなっていった。最終的に日本代表に名を連ねることはできなかったが、ここまでやりきると自分でゴールを決めて、そのゴールまで全力で駆け抜けた。
そして、平河の競技生活最後の大会となった、日本学生選手権(インカレ)。100メートル平泳ぎはインカレ前までの練習では、タイムも体の調子も良かった。しかしいざ本番を迎えると、予選レースの一かき目から感覚が違う。水が当たらないと焦り、思ったようなタイムが出ず、決勝へ不安も残った。タイムよりも優勝にこだわって臨んだ決勝のレースでは、競り負けて2位。自身の弱さが出たと振り返る。他の選手の様子を見て、自己ベストを出せば、優勝できる。優勝できるタイムであれば、自己ベスト更新も狙える。そう考えた平河は、まず第一の目標として優勝を設定したが、悔しさの残る結果となった。メドレーリレーでは、前年表彰台に上がれなかった悔しさを抱いて臨んでいた。メンバーとも話し合い最低でも3位以上、優勝を目指していたが、惜しくも及ばず2位となった。それでも、「あのメンバーで表彰台に上がることができて良かった」と語った。チーム目標は高く、準優勝を掲げていたが、結果は3位。それでも平河にとっては喜びも多くあった。順位こそ目標には届かなかったが、獲得点数は高かった上に表彰台に上る選手も多数。平河が立てた目標にはどれもあと一歩届かなかったが、充実した大会となったことは間違いない。
平河にとっての水泳の魅力は、最後まで何があるか分からないことだという。2年生までは前半抑えて、後半に上げるというレースプランから、タイムと順位をより伸ばすために、前半から飛ばしていく作戦に変更した。そうすることで勝てなかった選手にも勝てるようになってきた。専門とする平泳ぎについては「すごく繊細な種目」。平河の中では平泳ぎがいちばん難しかったそうだ。タイミングのとり方、水を掴む角度。追求しようとするほど、奥が深く「いちばん難しい種目」難しかった分、試行錯誤しながらチャレンジできたのが楽しかった。17年以上、「水泳があって当たり前」だった平河の歩み。その生活から離れ、物足りなさや寂しさも抱えながらも、話す声音に後悔の色は見えない。自身の泳ぎと向き合い続けた平河の目は、次のステージを見つめている。
(記事 新井沙奈、写真 芦沢拓海、藤田珠江)