【連載】『平成30年度卒業記念特集』第10回 若林魁/相撲

相撲

『仲間』と歩んだ相撲道 

 「ワセダを選んで大正解だった。もう一度高校生になっても絶対に迷わずワセダに行きます」。若林魁(スポ=岐阜農林)はワセダで過ごした4年間に思いをはせると、力強くこう語った。その表情は誇らしげな笑みで溢れていた。たったひとりの4年生として、そして伝統校の主将として。数々のプレッシャーと戦い、苦しみながらも真摯に土俵と向き合い続けた男の半生に迫る。

 若林が相撲と出会ったのは小学1年生の時。はじめは「お遊びだった」と言うが、自分よりも大きな相手を倒した時の爽快感に魅了され徐々にのめり込んでいく。そしてお遊びだった相撲はいつしか生活の中心へ。中高時代に実績を残していたこともあり、大学進学後も迷わず相撲を続ける道を選ぶ。そんな若林は早くも高校1年生の時に早大相撲部の稽古場に訪れる。相撲部の顧問の先生がワセダのOBだったことが縁となって岐阜から出稽古に出向いたのだ。そこで若林が目にしたのは他校とは一線を画す『自主性を重んじる』稽古だった。この時のことを「ワセダは今までにない雰囲気だった。やらされている感がなくて、ここに入りたいなと思った」と振り返る。

 そして大学入学と同時に憧れの早大相撲部に加入。だが、その後の道のりは決して平たんなものではなかった。「悔しいことの方が多かった」と振り返るように、自分の形である『前に出る相撲』が試合で思うように取れず悩んだ。また、同期がひとりしかいないことへの寂しさもあったという。さらに4年時には主将としてのプレッシャーが若林の肩に重くのしかかり、ここぞという場面で苦杯を喫することもあった。選手として、そして主将として、自分の理想と現実のギャップに苦しんだ。

 そんな時、若林を救ったのは他でもなくワセダの仲間たちだった。ワセダの相撲部は日大や日体大といった強豪校と比較すると極端に部員数が少ない。このことは時に弱みにもなるが、同時に強みにもなる。人数が少ない分、先輩と後輩といった垣根を超え、『仲間』として共に切磋琢磨することができるのだ。土俵に目を向けるとそこには常に、必死に仲間を鼓舞する若林の姿、仲間に鼓舞されながら土俵に上がる若林の姿があった。「人数が少ない中で、団結力やチームワークで1部と戦えたことはやりがいがあって、楽しかった」と本人が語るように、7人という少ない部員数で「全日本大学選抜金沢大会ベスト8」を成し遂げることができたのは、チームが一丸となって戦い抜いた証だ。「先輩や後輩が同期みたいに接してくれたから、居心地が良かったし、辛さが軽減された」。インタビュー中若林は何度も仲間への思いを口にした。若林は自らが叶えることのできなかった「インカレベスト4」という目標を、苦楽を共にした大切な仲間に託し、ワセダの森を巣立つ。

仲間に声を掛ける若林

 卒業後は故郷の岐阜で教員となるという。だが、相撲を辞めるわけではなく仕事の傍ら土俵に上がり続ける。その原動力となっているのは「いつか母校の高校で相撲部をもち、自分の教え子をワセダの相撲部に送り込みたい」という強い思いだ。今、若林は新たな夢に向かって真っすぐと進もうとしている。この卒業は若林にとって終着点ではなく相撲人生第2章の始まりなのだ。その未来はきっと明るい。 

(記事 望月清香、写真 吉岡拓哉)