早大ソフトボール部の総監督を3月31日付で勇退した吉村正氏(昭44教卒=京都・平安)の現在までの軌跡に迫る特集を3回にわたってお届けしているが、今回はpart2。早大卒業後での米国での奮闘、そして監督としての栄光などについて迫った。
※この記事は2019年12月8日の取材をもとに編集しています
「本場で結果を出さないと」
吉村は少年時代にハワイのオールスターチームの試合を地元で観戦し、そこで海の向こうの一流プレーヤーたちの華やかなプレーの数々を目にした。この強烈かつ鮮明な記憶がきっかけとなって、将来海外に渡ってプレーしたいという願望を常に持ち続けていた。
「ソフトの本場・アメリカで結果を出さないことには男として本物ではない」。
そこで早大卒業後は、当時まだ留学というものが一般的ではなかった時代にもかかわらず、アメリカ留学を敢行。しかし、米国での生活面は厳しいものがあったという。まず第一に、我が国と比較しても圧倒的に物価が高いことが吉村を苦しめた。
「日本で60円そこそこで食べられたランチでは向こうでは円換算でだいたい600円くらいする」。そのため、かなり食事を我慢する機会も多かった。さらには留学ということで学業が本分であることから、勉強時間もある程度割かなくてはならず、加えて現地でソフトボールの教員も務めていたために、そちらにも本腰を入れなければならなかった。
このような極めてタイトな日常の中で、食事を控えたり、睡眠時間も削ったりしつつ日々異国の選手たちと戦っていたのである。そんな中でも、上級リーグで2年連続でオールスターに出場し、最優秀選手、打点王、本塁打王などなど様々なタイトルを獲得。これまでと変わらない、あるいはそれ以上活躍を見せつけたのだ。
早大にカムバック
これらの圧倒的な成績によって一部MLB球団が吉村に接触を図ったというが、従来の姿勢をぶれさせることなく、28歳で日大の大学院に進んだことがきっかけで、ソフトボール選手としてはきっぱりと引退することを選んだ。こうして大学院で2年間学んだのち、当時はかなり希少であった留学経験を持ち、ソフトボール選手として抜群の成績を残して独自のプレー理論を確立させていたことから、母校・早大に勧誘され、30歳から体育局の助手としてに属することとなった。平成元年にはソフトボール同好会を部に昇格させ、以来現在に至るまで、早稲田でソフトボールとかかわっていくこととなる。
だが、60歳を過ぎるまでは学部内での仕事に重きをおいていた吉村。特にその中でも、人間科学部では8年間に及び管理職を務めていた。そこでも吉村は思い切った改革にかかわった。当時の人間科学部での学問は「本部キャンパスと学べる内容があまり変わらなかった」という状況であったという。所沢キャンパスの独自性を際立たせるため、医学的な見地からの学びを実現できる学科を創設することを提言した。これが功を奏し、現在はスポーツ科学部にスポーツ医学コースが設置されたり、人間科学部にも健康福祉学科にて医学的な学問を修めることができるようになっていったのである。
監督に就任し、見事悲願のインカレ制覇を果たした(写真は部提供)
ついに頂点へ
このようにして教員として達成感を得たのち、「インカレで勝つ」ことを目標にソフトボール部への指導を本格化させていった。そんな中でも常に海外へ目を向けていた吉村は、現役時代同様に「アメリカに勝てなければ意味がない」という強い信念のもと、監督として計19回も米国遠征を行った。さらにはワールドシリーズにもリーダーとして3回出場し、2005年には男子部を世界一にまで導いた。
そして同年。目標として掲げていたインカレにて、決勝戦で国際武道大を撃破し、悲願の初優勝を果たすのであった。その後は数年間頂点からは遠ざかるが、2012年から2014年にかけて驚異の3連覇を達成した。男子のインカレ3連覇以上は絶対的王者日体大に次ぐ2校目となる快挙。加えて、3連覇期間中の決勝戦ではすべて5回コールドで相手を撃破するという全くと言っていいほどに他校を寄せ付けない強さを発揮していた。無の状態からソフトボールを根付かせ、数十年の時を経て頂点へと上り詰めるさまは、実に痛快である。
一方、長らく同好会というかたちでの活動が続いていた女子部。男子部とは異なって、強豪校においては監督を五輪経験者が多く務め、かつソフトボール技術に特化した学生のリクルートないし授業を行う傾向が強いことから、早大にとって上位進出はいばらの道といっても過言でなかった。だが、吉村が強化に乗り出したことで、1999年に初のインカレ出場を果たすと、2006年には初優勝を成し遂げる。その後はインカレでの勝利から遠ざかっている傾向にはあるが、他校のような圧倒的なリクルーティングができない状況にありながらも、毎年健闘を続けている。
勝利の秘訣とは
指導者という立場になっても選手をしっかりと導き、圧倒的な結果を残し続けた吉村。その秘訣を伺ったところ、「広いグラウンドといい選手によるもの」と語ってくれた。他校のソフトボール部にはソフトボールをするためのスペースしかないケースが多いというが、早大のソフトボール部は所沢キャンパスに所在する広大な野球場をまるまる練習環境として利用することができた。それによって複数の投手を同時にかつ同じ条件で練習させ、競争心をあおるといったことが可能となった。
さらには、このグラウンドは学業や、ハワイ遠征費に充てるためのアルバイトなどにより必然的に限られてしまう練習時間を効率的に運用するという面でもうってつけの環境といえたのである。加えて、そこで練習する選手たち、なにより指導者も素晴らしい人材であるとなれば、ここまでの成績もある意味当然だったのかもしれない。
~part3へ続く~
(記事 篠田雄大 、取材協力 大島悠希 杉崎智哉 新井万里奈)