『感謝』を胸に
昨年、全日本大学選手権(インカレ)で2年連続準優勝に輝いた男子ソフトボール部。そのチームの中心にいたのが丹野太郎(スポ=兵庫・滝川)だ。4年生では主将として、「周りに応援されるチーム」を目指し、誰よりもチーム、そしてソフトボールと向き合ってきた。そんな1年を振り返り、丹野が口にした言葉が『感謝』の二文字だ。
小中学校では、「(ボールを)捕ってから投げるまでが速い」という特長を生かし、軟式野球で活躍した丹野。ソフトボールの出会いは高校生の時だ。中学校時代の仲間に誘われ、ソフトボール部を見学に。そこでソフトボールの面白さを知ると、入部を決意。厳しい練習にも仲間と楽しみながら取り組み、力をつけた。高校1年生の終わりには、「競技生活の一番の節目」と本人が振り返る、全国高等学校ソフトボール選抜大会(選抜)での学校初の準優勝を達成。以降も実績を積み重ねた丹野にとって、ソフトボールは不可欠なものになっていった。
打線の中心として、プレーでもチームを引っ張った
大学進学の際は、早大への進学を希望。その理由は、国体に向けての練習で早大グラウンドに訪れたことがあったこと、そして当時インカレを3連覇していた最強軍団に、「日本一になりたかった」という丹野が憧れを抱いたからだ。浪人を経た2016年春。丹野は憧れたエンジのユニホームに初めて袖を通した。入部してすぐに感じたことは、「とても学生だけでやっているとは思えない」という練習の細かさ・質の高さだった。指導陣が全ての練習に顔を出すことができない環境の中で、選手一人一人が考え、主体的に動かなくてはいけないと痛感したという。そのような厳しい環境の中で、スタメン定着を目指し、丹野は必死に練習に取り組んだ。そして、レギュラーの座をつかんだのは1年生の東京都大学連盟秋季リーグ戦。以降は「自分が活躍してなんぼ」という思いから、筋トレと体重アップに精力的に取り組み、攻守でチームの勝利に貢献するようになる。まさに、自らの課題を克服するため、主体的に行動した成果が表れたのだ。
そして迎えた最終学年。丹野が主将として一番に目指したのは、「周りに応援されるチーム」をつくること。見ている人が思わず応援したくなるような明るい雰囲気や礼儀正しさを持ったチーム、それが丹野にとっての理想だった。そのために、仲間・審判・相手チームといった、自分が関わる全ての人への『感謝』の気持ちを忘れないような主将、そして人であることを自らに課した。もちろん結果にもこだわった。目標としたのは『インカレ優勝』。その決意は、前年度にチームが準優勝をしたこともあり、「インカレで優勝することにしか自分の存在意義がない」とまで語るほどに並々ならぬものだった。しかし、誰よりも望んだ栄冠には手が届かなかった。最後のインカレは決勝の舞台で日体大に惜敗し、2年連続の準優勝。しかも、丹野の空振り三振で試合は終わった。試合から5カ月が経とうとする中で、丹野の口から出てきた言葉は「いまだに悔しい」。その言葉には、全てをかけて挑みながら日本一の称号を手にすることができなかった男の無念さがあふれていた。
悔しさばかりが募ったインカレだったが、決勝前夜のミーティングで丹野は、高杉聡監督(平10人卒=群馬・前橋育英)と木村秀雄コーチ(平8理工卒=山口・柳井)からある言葉を掛けられた。「最後くらいは楽しんでやれ」。この言葉は、「勝っても楽しくなかった」と主将としての責任・重圧を一身に背負って戦ってきた丹野にとって、これ以上ない救いとなった。迎えたインカレ最終日を「1年を通じて一番楽しめた試合」だったと振り返った丹野。ここでも、指導陣・チームメイトへの『感謝』の言葉を口にしたのだった。
早大ソフトボール部で過ごした4年間を振り返り、丹野は日本一への未練とともに、部に在籍できたことへの誇りを語った。プレーの結果よりも、『人間的な成長』を大事にしているソフトボール部。そこで得た、人と人とのつながり、リーダーとしての振る舞い方、支えてくれている方への『感謝』の気持ちは、丹野にとって何物にも代え難いものであった。卒業後にソフトボールを続けるかは未定だという丹野。しかし、お世話になってきたソフトボール界への思いは強く、「何かしらのかたちで恩返しをしたい」と決意を語った。早大ソフトボール部での経験、そして関わってきた人への『感謝』の気持ちを胸に、丹野は次なるステージへと歩みを進める。
(記事 杉﨑智哉、写真 大島悠希)