ア式蹴球部女子卒業記念特集 關陽南子『悔しさと納得の4年間 關が大学で得たもの』

ア式蹴球女子

 悔しさと納得の4年間 關が大学で得たもの

 關陽南子(文構4=大教大池田)は高校時代、男子サッカー部に所属した。出身校で女子が男子サッカー部に所属した選手は後にも先にもいない。女子部がなかったことも原因だったが、体格の差がある男子に囲まれてプレーした。なでしこジャパンでさえ男子の強豪高校と対戦すれば簡単に負けてしまうほどに男女の実力差は意外と大きい。關も大阪4部所属の高校とはいえ難しさはあった。結局、登録上の問題もあり公式戦に出場することはなかった。さらには3年生の春に部活が終わる高校だったため、ア女に入部するまで約1年のブランクも経験した。それを少しでも埋めるため、他の同級生が受験勉強をする中、一人下級生の体育の授業に混じって一緒に走り込みをしていたという強烈なエピソードも持っている。

 


 試合前、ベンチで笑顔を見せる關(写真右端)

 競技面でシビアな高校時代を過ごした關はやりたいことを実現させるための大学選びをする。一番やりたかったことが心理学系の勉強だ。人の心の動きや発達心理のシステムについて興味があったという。そしてもうひとつが女子サッカー部への入部だった。中学時代はクラブチームでプレーしていたため、女子サッカー部に所属したことが無く、部活としての女子サッカーにあこがれを持っていた。そして、その2つの条件を満たした早大の文化構想学部への入学を決めた。

 ア式蹴球部女子(ア女)は大学日本一を30年間で7度達成し、数多のなでしこリーガーを生んできた名門だ。そのア女への入部となれば必然的にトップレベルでの激しいポジション争いが生まれる。もちろん關もその競争に参加することになる。1年目は、普段出場していない選手が出場する育成リーグでさえもピッチに立つ機会は少なく、それも原因となり部にいづらく感じてしまうこともあった。2年目以降からは自身の存在意義を見出せたことがプレーにもいい影響をもたらしたと振り返った。ア女では2年生からピッチ外での具体的な役割が与えられる。關は学連と地域貢献を任され、チームに貢献していると実感できるようになった。気持ちが前に向くとプレーでも調子が上がり、試合に出場することも増えた。

 


 4年生の関東リーグ後期4節ではキャプテンマークを巻いた

 しかし4年生のときはしんどい時期を過ごす。特にそのしんどさはレベル別で分かれて行う練習で感じることが多かった。Aチームの練習に参加する他の同期と離れてしまう辛さだけではない。先輩っ子で後輩を声掛けなどで引っ張ることが決して得意ではない關。最高学年となり、自分と同じ境遇に気持ちが沈んでいる後輩たちをリードしていくのは大変だったという。しかし、そのようなプレー外、さらにはピッチ外での部分でもア女にいて良かったと振り返る。早大は「まじめで考えられる人が多かった」と、意識が高い選手に囲まれて過ごしたことで人間としても成長できたからだ。学生主体のサッカーこそ大学サッカーの魅力だが、「一人一人が主体的にサッカーに対して向き合っていた」と、ア女で人間性を高められたことに充実感を抱いている。


 インカレ優勝後、DF加藤希主将(スポ4=アンジュヴィオレ広島)と写真を撮る關。引退後は2人でドライブ旅行を楽しんだそうだ

 ラストイヤーは関東大学女子リーグ2試合、関東女子リーグ4試合の出場だった。選手たるもの、当然試合に出てプレーすることに競技のやりがいを感じるものだ。それでも「レベルの高い人たちに囲まれて(サッカーを)できることはめちゃくちゃ幸せなこと」とア女での日々をポジティブに捉えた。もちろん悔しさもある。しかし周りとの実力差を認め、ピッチに立つ選手たちが自分以上にしていた努力を間近で見ていたからこそ、出場機会に恵まれないことに対して納得する部分もあった。そして關はア女での4年間を終え、「個人として何か結果を残せたわけではないけど、1日1日を選手として過ごせたことは幸せだった」と総括した。選手として練習からトライアンドエラーを繰り返し、成長のために挑戦し続け、人間として成長できたことは競技人生を続けていなければ得られなかったと語った。ア女での4年間は關の人生にとって大きな財産となっただろう。

(記事 前田篤宏、写真 手代木慶)

◆關陽南子(せき・ひなこ)

1999(平11)年7月11日生まれ。165センチ。大教大池田高出身。文化構想学部4年。ア女のオフは毎週月曜日ということもあり、月曜日は授業を取らないことを死守したという關選手。ドライブで関東の絶景スポットなどを訪れ、楽しいオフを過ごしていたそうです。部活や学部での勉強も含めて「充実した学生生活でした!」と振り返っていました。