ア式蹴球部卒業記念特集 第4回 吉岡直輝『ア式に全てを捧げて』

ア式蹴球男子

『ア式に全てを捧げて』

 「24人/25人中、同期で選手として関東リーグに登録された人数。残りの『1』は、自分だ。25人中25番目の選手。」吉岡直輝(商=東京・早実)は、4年時の部員ブログにて選手としての悔しさを吐露した。しかし、続く終盤にはこのような言葉が書かれている。「『選手』としてピッチに立てないかもしれないが、できることは全て、全力でやる。」選手として、学連(関東大学サッカー連盟のスタッフ)として「常にチーム第一で全てをア式蹴球部に捧げてきた」と語る4年間は吉岡に何を残したのか、そして吉岡がア式に残したものとは。

 

 相手をかわす吉岡

 サッカーとの出会いは父親がもたらしてくれた。吉岡は、幼稚園年中の時に半ば強制的にクラブチームに入れられたのだ。次第にサッカーの楽しさにのめり込んでいった。小学校に上がると、国際大会であるダノンネーションズカップで最優秀選手賞を受賞。サッカーの実力を伸ばして行った吉岡であったが、サッカーをする目的はプロサッカー選手になることではなかった。楽しさゆえにサッカーを続けていたのだ。

 中学校に入学すると同時に浦和レッズのジュニアユースに合格。その後も、試合での出場機会はあったもののユースへと上がることは叶わず。「自身の実力に対して諦めがあったのかもしれませんが、自身の中にプロに対するこだわりや執着がなかったことが現れていたと思った」と当時を振り返る。かくして吉岡は進学先を選択することとなった。そして、進学先として早実高を選んだ。理由は、サッカーと勉強の両立ができる環境とア式蹴球部にあった。ジュニア時代の先輩、蓮川雄大(令2スポ卒=FC東京U18)がア式へ入部するとの話を聞き、いろいろな情報を調べ、ア式への憧れを強めたのだ。

 

 相手と対峙(たいじ)する吉岡

  早実に進学した吉岡は、今までの環境との違いに愕然とした。今まではサッカーを軸に人生を歩んでいる人たちに囲まれていた。異なる背景を持ち、それぞれ頑張る分野も目的も異なっている同級性を見ていると、サッカーを軸にするべきなのか他のことに挑戦する必要はないのかと悩んだという。そんな葛藤を抱えながらサッカー部へと入部した吉岡だったが、そこでも違いを感じた。周りはサッカーを軸にしているのではなく、勉強第一。また、サッカー観も吉岡と大きく異なっていた。今までサッカーをする=プロになるためだったが、周りはサッカーをする=人とつながるコミュニケーションツールの一つと考えていたのだ。吉岡のサッカー観が変化した瞬間であった。高校では、小・中でのポジションFWからDFへ大学を見据えて転向をした。この挑戦については後ろから見る景色は面白く、大学で生きた部分もあったが、違うポジションに挑戦していればよかったという心残りもあったという。

 

 大学へ進学した吉岡はサッカーをア式で続けるかサッカーを辞めるかの選択を迫られた。そして、吉岡はア式でサッカーを続けると決断。しかし、入部への道のりは簡単なものではなかった。当時は「人と違うことをする、常に変化し続ける」ということが入部の制度として掲げられており、「自分は個性的な人間ではない」という吉岡にとって入部の基準を満たすまでに時間がかかった。それでも仮入部期間最終日、滑り込みで入部。そこからア式での4年間が始まった。

 

ボールを運ぶ吉岡

 吉岡のア式での4年間は波乱万丈だ。入部直後の5月、ヘディングをした際に仲間と接触。前歯・頬骨・鼻の骨折とその日1日の記憶を全て失ってしまう。「もう少しで当たりどころが危なかったよ」と医者に言われるほどの大怪我からの回復は夏までかかった。復活を遂げた吉岡は、Aチームの菅平合宿に参加。そして、そこで「前歯」を失った。相手の腕と接触した際に付け歯が行方不明に。雨の中、全員で捜索を行い無事、発見した。インパクトのある1年を過ごし、2年生になっても吉岡はケガに悩まされた。シーズン初めからFC(社会人リーグ)に出場するも捻挫が完治せず、休んでは出場するの繰り返し。いつの間にかシーズンは終了し、もどかしさと悔しさが残った。

 選手として何か結果を残してやろうと強い思いを抱き、迎えた3年。意気込み通り、シーズンの初めはAチームに所属するもフィジカルテストで肉離れを発症。4カ月の離脱を余儀なくされた。そして、リハビリの期間に学連となった。この年から吉岡は選手と学連、二足のわらじを履くこととなる。学連の仕事は、試合の運営とリーグ戦の全体の会場準備、チームで登録をするなどリーグ戦において重要な役割を担っている。時間的拘束も長く、選手としての自分との両立に悩んだ。学連はリーグ戦において、チームの方針を決定する立場にもあったため「誰と決めていくのかなどチームと他の人とのバランスを考えていた」という。社会人コーチの方に相談し、考え方を盗み自分のものとする。そして、調整に不可欠な説明の際に、誰よりも理解して説明の仕方や決め方を変え、相手が納得する形で決断する。学連の仕事に吉岡は全力を注いでいた。

 

 ボトルの用意をする吉岡

 4年に進級しても吉岡の選手としての苦悩は続いた。練習中に再び肉離れをし、2カ月の離脱。4年間の選手としての結果を「チームの戦績の中に自分の結果が現れていなかったです。サッカー面が一番悔しかったです」と悔しげに口にする。しかし、今シーズン「選手として一つかたちになった」と語る試合がある。Iリーグの日大戦で得点を取り、その得点が勝利へとつながったのだ。吉岡自身にとって、満足のいく結果は出なかったかもしれないが、捧げてきた時間や思いが一瞬でも花開いた瞬間であった。

  ア式での活動を振り返り語るのは「無償の愛で何も考えずにチームのために活動した」ということだ。「チーム第一の考え方」を体現することで後輩に背中を見せた。付属生として考え方や軸を持ってア式の活動を全うした。吉岡は後輩に確かな財産を残したのだ。自分の全てを投げ打っても何か利益として対価が帰ってくるわけではない。また、結果を出したとしてもその見返りに何かがあるわけでもない。「チームにとって1番の選択とは、早稲田にとって何がベストなのか」何度も問い続けた。そして、チームを思う心を原動力に4年間を駆け抜けた。社会人になったらこのような貴重な体験はできないと吉岡は笑みをこぼす。しかし、選手としての結果には満足していない。自分がサッカーでチームに貢献できなかった悔しさは『社会人に向けてのバネ』にすると吉岡は決意を新たにしている。

 吉岡は引退後、海外留学に旅立った。サッカーのみを見つめていた視野を再び広げるためだ。高校入学、大学入学時に感じたあの新しさを再び感じるために。チームに尽くした時間の全てを今は自分に注いでいる。「いつか海外で何かをしたい。自分自身で何か決定権を持って動かせる存在になりたい。」将来の希望は膨らむばかりだ。大学を卒業し、自分=サッカーという定式も変化するだろう。しかし、サッカーと共に過ごした18年間は変わらぬ財産となる。そして、その後も財産は吉岡の人生に寄り添い、立ち止まった時の指針として導いていくことだろう。

(記事 水島梨花、写真 ア式蹴球部提供)

◆吉岡直輝(よしおか・なおき)

2000(平12)年7月3日生まれ。東京・早実高出身。商学部。取材時には6週間の語学留学でオックスフォードに滞在していた吉岡選手。自分の視野を広げるための挑戦だと語っていただきました。海外移住や海外の大学院への進学も将来の視野に入れているとのことで、今後は国際人として世界に羽ばたかれるのか、吉岡選手の今後が楽しみです!