【連載】「早スポ記者からJリーグへ」 ヴァンフォーレ甲府・井尻真理子が語る『サッカークラブでの仕事術』前編 〜学生時代と社会人のつながり〜

ア式蹴球男子

 ヴァンフォーレ甲府の黎明期(れいめいき)にあたる2002年、チームに入社したひとりの女性がいた。早大在学時に『早稲田スポーツ新聞会』にて学生記者として活動した、井尻真理子(平9人卒)である。「早スポ記者からJリーグへ」。異色の転身を遂げた井尻に、早スポ在籍時のお話から、学生時代の経験と社会人の仕事の関係性について語っていただいた。

※この取材は2月2日に行われたものです。

「カラダはななつ、ココロはひとつ」


井尻真理子氏。学生時代には早稲田スポーツ新聞会に所属した

――はじめに、早稲田大学人間科学部スポーツ科学科に入学するきっかけとなった出来事から教えてください

 スポーツに興味を持ち始めたきっかけは高校生の時です。当時、有森裕子さん(女子マラソン)がオリンピックで銀メダルを獲得しました。その際に、「試合前に食べるのはおにぎりとお餅と…」といった感じで、有森裕子さんがレース前に食べた食事が特集されていたんです。ちょうどスポーツ栄養学がはやり始めの時期でした。食べるものによってスポーツ選手の筋肉などに影響があるということを、すごく面白く感じていました。その時に、スポーツ栄養学に興味を持ち始めたんです。

――では、そういった食事やスポーツ栄養学について勉強がしたいということで、志望する大学や学部を選んでいったのでしょうか

 はい、ただ経営学部などの一般的な学部も受験していました。早稲田を受験したのは有森さんのテレビを見て「スポーツ科学科があるから受験してみよう」と考えたのがきっかけです。でも、(受験生)当時は「これは浪人だ」と思って予備校に行く準備をしていたくらいです。すごく怠け者なので、親から「普通の予備校にいったら勉強しないから」とスパルタな予備校に入れられそうになっていました(笑)。

――当時のことを思えば、まず県外の大学に進学すること自体が、大きなハードルだったのではないでしょうか

 でも…、県外に出たかったんです。隣の家に従姉妹のお姉さんが2人住んでいて、2人とも東京の大学に進学していたんです。帰省する度に都会の楽しい大学生活の話が出てきて、憧れていました。でも、人間科学部は所沢キャンパス(埼玉県)なので、(山梨と)そんなに変わらなかったんですけどね(笑)。

――早稲田キャンパスに来ることも少なかったのですか

 ただ、所属していた『早稲田スポーツ新聞会』は、当時は部室が文学部のキャンパス(新宿区)にあって。毎週何回か行っていました。ちゃんと高田馬場から小手指の定期も持っていましたよ。

――先ほど『怠け者』というお話がありましたが、とはいえ学生時代はかなり勉強をなさっていたのですか

 あまり勉強は好きではなかったです。むしろ社会人になってからの方がコツコツと勉強をするようになりました。

――資格の勉強などでしょうか

 小さな勉強を、本当に社会人になってからです。この努力をもっと大学生のうちにしておけば…、と今更ながら思います。私は仕事ができる人間ではないと、自分でわかっていたので、その分努力をしました。みんなよりも長い時間がかかってもやり抜くとか、「これを達成するためには何が必要か」と考えて勉強したりだとか。

 特に早稲田に入学したときに、周りには要領が良い子が多くて、みんな言われたことをすんなりとできるんです。例えば新聞の(紙面)レイアウトをします、といったときに、みんなは先輩がバーっと言ってくれたことをバーっとできて。私は全然できなくて。他にも早スポ時代のダメ人間エピソードでいえば…、軟式野球部って今でもありますか?

――あります! 準硬式野球部に名称は変わりました

 本当に名前が変わったんですか! 当時から「準硬」「準硬」って呼ばれていたのですが、正式には『軟式野球部』でした。なのに、私は『準硬式野球部』で合っていると思って、新聞に掲載してしまって。さらには、その後(次号紙面の)『お詫びと訂正』で「準硬式野球部は、軟式野球部の間違いでした」と掲載するはずだったのですが、誤って「“便”式野球部の間違いでした」で掲載しそうになってしまって。それは発行する前に気付いてもらえたので良かったのですが、「バカモノ!」と当時の編集長からお叱りを受けました。軟式野球部の皆様には、取材でもとても良くしていただいてお世話になったのに。四半世紀経ちましたが改めてお詫びさせていただきます。

――その当時、チーフとして担当していた競技が軟式野球部だったのですか

 軟式野球部と山岳部のチーフでした。実は私が在籍していた頃、山岳部で遭難事故が起こり、3名の部員がお亡くなりになりました。その翌年、私が最高学年になった時に、山岳部の当時の主将から「記事を書いてもらえませんか」と言われて。裏面の広告記事を書いたことがありました。

――部からお金をいただいて出稿する、部広告という形式ですね

 そうです。それは山岳部の新歓活動の一環の記事で、「カラダはななつ、ココロはひとつ」といったキャッチフレーズも作らせていただきました。実は…、その記事に感動をしたという当時の早スポの1年生が、早スポを辞めて山岳部に入ってしまったんです(笑)。

――早スポは体育各部と両方の所属は禁止されていますね

 そうなんです。そういった面も含めて、とても思い出深い記事のひとつです。当時の山岳部の主将さんは、先ほどの遭難事故の際に、パーティーで遭難しながら、ひとり下山できた方だったんです。その後、主将として山岳部に残ったという方でした。

――早スポ時代は、準硬式野球部と山岳部を主に担当して、そのほかに担当した競技はありましたか

 あと陸上と野球と射撃でした。野球では三澤興一(平9人卒)さんの番記者を務めていました。早大卒業後は巨人に入団しました。

「仕事は、自分だけの仕事ではない」


井尻氏が当時製作に携わった山岳部広告記事

――井尻さんが早スポに入られたきっかけはどこにあったのですか

 文章を書くのが元々好きでしたし、新聞記者という職業に憧れもありました。またスポーツを見るのも好きでした。それで早スポに入ったんです。

 早スポやっていて良かったな、と思うことがヴァンフォーレでお仕事させていただくようになって度々あって。早スポって、結構体育会で厳しかったんです。取材の遠征費もかかるし。新聞の広告集めとかも大変ですよね。ちっちゃいお店を一軒一軒回ったりとか。でも、一緒に営業で歩いていた先輩から「井尻さんと一緒に歩くと、いっぱい広告が集まる」って言われて。私はなにをやってもダメだ、と思っていたのですが、その時にちょっと自信がついたんです。「早スポでやっていけるかも」みたいな。

――記事執筆や新聞レイアウトなどにやりがいを見いだした、というよりも新聞広告の営業に勝ち筋を見いだしたのですね

 それ以来、ずっと広告の担当になって。

――それは今のお仕事に直結している部分ですね

 ヴァンフォーレに入って、今は営業の担当なので、お願いをさせていただきながら一軒一軒回らないといけない場面があります。それは当時の飛び込み営業の経験がすごく活きています。早スポの時に知らないお店を、例えば東伏見とか…、あとは鶴見とか。箱根駅伝号の新聞を発行する際には、箱根駅伝の中継所の近くのお店を回るんです。みんなみたいに、器用に紙面をレイアウトしたり、綺麗な文章は書けないんですけど。広告営業の仕事は苦しい時もあるけれど、沢山の方に会えて楽しいと思いながら取り組んでいました。

――井尻さんが早スポに在籍していた当時の、新聞制作についても少し教えてください

 私たちの時は、新聞を作る作業が全てアナログでした。記事も手書きで書いて、それを新聞社の担当の方に、新聞に打ち込んでいただいて載せていく形式でした。先ほどの『軟式野球部』の誤植の話も、パソコンで打っていたら間違えるわけがないのですが、私の手書きの字が汚かったことで、誤って打ち込まれてしまったというわけです。私たちの2つ下の代からデジタルになり、自分たちでレイアウトをさまざまできるようになりました。私たちはアナログの最後の世代です。

 今でこそ、文章の修正もパソコンでサッと直せますが、当時は文字を直すことすら大変で。降版(※1)ギリギリだと、完璧に近いゲラ(※2)が手元に届くのですが、その状態で文字の間違いが見つかるともうどうにもならなくて。そのため、過去の新聞から正しい文字を探すんです。見つけ出した正しい文字を切り取って、ピカピカのゲラに上から貼り付けて、それを完成版として印刷するんです。あと30分で降版なのに、自分が間違えた文字が見つからないと、焦る、焦る! そもそも、もっと早く間違いに気づけばいいという話ですけど。

――文字を切り貼りして完成版のゲラを作って、最終的にはそれをコピーして印刷することで、新聞を完成させるということですか

 そうです、すごく原始的です。例えば凸版(※3)でも、今でこそいろいろな書体があって、いろいろ試しながら新聞を作ることができると思います。当時は、一回凸版をすり出してもらって。それをカッターで文字の形に切って、新聞にしていくんです。

――まさにカルチャーショックというものを今受けました

 写真でも、今ならトリミングをするなら、パソコンとマウスですぐにできると思います。当時は、写真を焼いて、トレッシングペーパーをかけて、自分のやりたい部分を四角く囲って、どれくらい縮小するか・拡大するか、とかを新聞のレイアウトなどを測った上で、「これくらいにしてください」と担当の方にお願いするかたちです。そういった活動の中で、自分が丁寧に仕事をすれば次の人も楽だし、仕事は自分だけの仕事ではないので、自分だけが満足するようにやってはならないと学びました。

 

※1 完成した新聞データを印刷所に送ること。新聞完成を指すこともある

※2 新聞素材が印刷されたもの

※3 新聞で大きく目立つ見出しのこと。下掲の新聞ならば『雪辱』『鈴木俊也』など

 

「ヴァンフォーレと早スポは、雰囲気が似ていた」


在籍当時に井尻氏が創設に関わった新聞『早慶クラシコ号』。写真は2022年のもの

――大学卒業後は一度、一般の企業で働かれたとお聞きしています。キャリアの最初は出版社でのお仕事だったそうですね

 出版社でしたが、それも契約社員というかたちで。当時、女性は就職に関しても苦労しました。出版社の契約は1年で終わり、次は編集プロダクションで勤務していました。編集プロダクションに勤務していた時の、こんなエピソードがあります。早スポ時代、1マス開ける時に、『クワタ』と言っていましたが、一般企業では通用しないんです。

――今の早スポでも『クワタ』は使われていますが、使えないのですか

 普通だと『スペース』か『わかち』です。私が早稲田に入学する数年前に、桑田真澄さんが早稲田に入学するはずが、そのまま読売ジャイアンツに入団したという出来事がありました。いわゆる「KKドラフト事件」。その因縁で早スポでは『スペース』を『クワタ』とずっと呼んでいたようです。編集プロダクション時代に、『クワタ』『クワタ』とスペースに書き込んでいたら、「ふざけているのか!」と怒られて(笑)。社会人になって早スポを感じたエピソードです。現役の早スポ生に伝えたいです。「クワタ」は一般社会では使ってはいけません。

――出版社に1年いらっしゃって、その後編集プロダクションでも2年勤められて、その後に山日YBSグループ・アドブレーン社に入社。山梨に戻ることになるきっかけは何かあったのですか

 山梨に戻る前に、スキーで顔に大きなケガをして。何度か形成手術を繰り返すほどでした。当時は顔に大きな絆創膏を貼っていて、精神的にもすごく辛くて。全てを辞めて山梨に戻ってきたんです。それがちょうど2001年の2月くらいです。

 東京の仕事を辞めてYBSに入社した時、ヴァンフォーレは存続の危機で。「クラブサポーターへのカードケース発送が間に合わないからちょっと手伝ってくれ」と言われて、3週間だけヴァンフォーレの仕事を手伝ったんです。それがすごく楽しくて。サポーターさんとか、スポンサーさんとか、行政の人とか。チームの社員の人も、ヴァンフォーレを存続させるために全力でがんばろうよ、と一丸になっている感じにすごく心を打たれて。それで、ヴァンフォーレに行かせてくださいとお願いして、2002年からはヴァンフォーレに来たんです。

――高校時代にスポーツ栄養学などに興味をもち、早稲田のスポーツ科学部に入学。早スポに入会したものの、就職後はスポーツに関わりがなかった中で、最終的にスポーツの世界に戻ってきたのですね

 不思議ですよね。でもヴァンフォーレと早スポは、雰囲気が似ていたと思います。早スポの時の、仲間と一緒に「ああでもない、こうでもない」といいながら新聞を作る感じに似ていたんです。例えば…、サッカー早慶戦号って今でもありますか?

――今でもあります。毎年サッカー早慶戦に合わせて発行しています

 この新聞は、私たちが3年生の時に初めてできたものなんです。当時のア式蹴球部の主務さんから「作ってもらえませんか」と声をかけていただいて。新しくサッカー号を作るには、新たにお金を工面しないといけないじゃないですか。私は新聞広告の担当だったので、広告を集める自信がありませんでした。私は会議で大反対しました。

 でも、最終的には広告をア式蹴球部が用意してくださり、新聞を発行することができました。今思えば、サッカーに今でも携わっている私が、当初サッカーの新聞発行に反対していて。さらには1年目のサッカー号に載っているのは外池(大亮、平9社卒)さんや同じ栄養学ゼミ生だった元柏レイソルの渡辺光輝(平9人卒)さん、元セレッソ大阪の佐々木崇浩さん(平9人卒)。のちには、ヴァンフォーレ甲府に入団する松橋優(平19スポ卒)さん、時久省吾(平19スポ卒)さん、畑尾大翔(平25スポ卒)さんもサッカー号に掲載されます。私の反対が通らなくて良かったと思っています。

 そういった意味でやはり、早スポの仲間と良い新聞を作るために話し合うのと、ヴァンフォーレで良いサッカークラブを作るためにフロント社員で話し合うのは似ています。意見が違っていても、同じ目標に向かっていて。戦ったとしても、最終的には「はい、仲直り」なんです。

「ヴァンフォーレと早スポは、雰囲気が似ていた」


インタビューに応える井尻氏

――井尻さんがヴァンフォーレに行きたいと考えたのも、チームの雰囲気が良かったのが理由でした。どういった意味でヴァンフォーレは雰囲気が良かったのですか

 会社の中の人と同じ目標で頑張るのが、心地よいです。ヴァンフォーレ甲府の中に、ひとつの大きな輪、ふたつの大きな輪、みっつの大きな輪、とだんだん輪が大きくなって、この大きな輪の中にたくさんの人々がいて、みんなが同じ目標に向かって、一緒に頑張ろうよって。そういった部分がすごく素敵だし…、勝ってみんなで喜ぶ! 勝つと全部が流れるじゃないですか。苦労とか、あの時ああだった、こうだったとか。その潔さとか清々しさ。そういった部分がいいなと思っています。

〜中編に続く〜

ヴァンフォーレ甲府・井尻真理子が語る『サッカークラブでの仕事術』中編

(取材、編集 橋口遼太郎)

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◆井尻真理子(いじり・まりこ)

1997(平9)年人間科学部卒。山梨英和高校を卒業後、当時の早稲田大学人間科学部スポーツ科学科に入学。早大在学時は早稲田スポーツ新聞会に所属し、学生記者として活動。その後、社会人経験を経て、2002年より株式会社ヴァンフォーレ山梨スポーツクラブに入社。